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| 小見真観寺古墳 (03/12/02 撮影) |
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【所在地】 行田市小見1125 |
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寛永11年に発見された後円部の石室からどのような遺品が出土したかいっさい分かっていない。しかし、この箱式石室からは大刀や銅鏡をはじめとして多数の副葬品が出土した。その多くは東京国立博物館に収蔵展示されている。 |
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だが、真観寺古墳の築造は7世紀初頭と考えられている。すなわち、真観寺古墳は、埼玉古墳群の中の最後の古墳である中ノ山古墳が築かれた時期とほぼ同時期に、約4km北に築かれたことになる。 この地に大規模古墳が築かれた背景として、当然旧勢力の没落と新興勢力の台頭があったものと思われる。つまり、約1世紀にわたって埼玉地方を中心に勢力を誇っていた武蔵国造の笠原一族が、7世紀に入ると没落し、新しい勢力が埼玉古墳群の北の若小玉付近に出現した。真観寺古墳はちょうどその勢力の移り変わりの中間に築造された墓と見ることができる。その被葬者が笠原一族と同族か、それともまったく別の新興氏族か不明である。 一方、八幡山古墳の被葬者として物部連兄麻呂(もののべのむらじえまろ)を想定する説がある。『聖徳太子伝暦』によれば、兄麻呂は聖徳太子に舎人として仕え、その後633年に武蔵国造に任じられた人物である。当時、舎人として中央に出仕したのは、地方の国造クラスの子弟である。真観寺古墳は八幡山古墳より先行するから、その被葬者として兄麻呂の父を想定することも不可能ではない。その場合、被葬者がすでに大和政権から国造に任じられていたと思われる。すなわち、被葬者の代に、笠原一族が没落し、新しく武蔵国造の地位を引き継いだと想定できる。いずれにしても、埼玉古墳群から次の勢力への移り変りを探る上で、真観寺古墳は重要な古墳である。 |