高麗神社(こまじんじゃ) 高句麗からの亡命王族・若光を祭神として祀る神社

高麗神社
高麗神社 (03/12/04 撮影)

メモ

【祭神】 高麗王若光(こまのこきし・じゃっこう)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、武内宿禰(たけちのすくね)
【所在地】埼玉県日高市新堀833
【アクセス】電車:西武池袋線「高麗」駅下車、徒歩45分。JR川越線・八高線「高麗川駅」下車、徒歩20分 (「高麗川駅」から市内循環バスの便あり、「高麗神社」バス停下車)
自動車: 圏央道「圏央鶴ヶ島IC」から国道407号線で日高方面へ。「高萩」信号を右折して県道15号線(川越日高線)で入り、「粟坪」信号を右折。高麗川にかかる獅子岩橋を渡ってすぐ。

高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)という人物


 西暦の660年から670年代は、朝鮮半島にとって激動の時代そのものだった。それまで高句麗・百済・新羅の三国は絶えず武力衝突を繰り返しながらも、三国鼎立のバランスを保ってきた。だが、半島中間の漢江流域を確保した新羅は、国力を充実させて朝鮮半島の統一に動き出した。半島に領土的野心を持つ大国・唐と連合を組み、まず660年に百済を滅ぼす。百済の遺臣たちは、我が国に復興支援を求めてきた。当時の大和朝廷は百済救援軍を送り込むが、663年に白村江で唐の水軍と戦い大敗を喫してしまう。

高麗王若光の石像
高麗王若光の石像
 唐・新羅連合軍は、次のターゲットとして高句麗を攻め、668年に高句麗の王都・平壌を陥落させこれを滅ぼす。高句麗の宝蔵王は捕虜20余万人とともに唐に抑留されてしまう。その後、唐は百済・高句麗の旧領域の直接支配に乗り出してくる。しかし、新羅は高句麗・百済の残存勢力と共同して果敢に戦い、遂に唐を半島から駆逐して半島を単独統一する。676年のことである。

 戦争によって国が滅びるとき、多くの流浪の民を生む。戦争の難をあらかじめ避けるため、あるいは戦闘で荒廃した故地を捨てて、新しい土地に新しい夢を求めて流れていく。百済が滅亡したとき、我が国は多くの百済遺民を受け入れた。『日本書紀』には、渡来した百済遺民を各地に配置した記述が散見する。高句麗が滅亡したときも、事情は同じで、多くの遺民が我が国に渡来して各地に住み着いた。残念ながら『日本書紀』は詳しい記録を残していない。わずかに、持統元年(687)高句麗人56人を常陸に移すと記すだけである。

 少し時代が下るが、元正天皇の霊亀2年(716)5月に、駿河(静岡県)、甲斐(山梨県)、相模(神奈川県)、上総・下総(千葉県)、常陸(茨城県)、下野(栃木県)の7カ国の高麗(こま)* 遺民1、799人を武蔵国(埼玉県)に移して高麗(こま)郡を置いたと『続日本紀』に記されている。この記述によって、高句麗遺民が主に東国に散らばって住み着いていたことが分かる。

* 我が国の史書では、高句麗(こうくり)のことを”句”の字を省いて高麗(こま)と呼んだ。後に新羅滅亡後朝鮮半島を統一した高麗(こうらい)国と同じ字を用いるが、読み方が異なる。

高麗神社
高麗王若光を祀る高麗神社
 高麗神社に祀られている若光も、高句麗滅亡の時に我が国に移り住んだ王族の一人である。だが、彼がいつ渡来し当初どこに邸宅を構えたかは不明である。高句麗滅亡直前に難を逃れてきたのであれば、当時の天智天皇は王族にふさわしい待遇で迎えたはずである。その頃の都は志賀の大津にあった。あるいは最初の邸宅は大津宮の琵琶湖のほとりに構えたのかもしれない。

 若光がそれ以前に我が国に来て、そのまま居着いたとする説がある。根拠は『日本書紀』に記された天智天皇5年(666)の記録である。その年の冬10月26日、高句麗は我が国に使節を派遣してきた。その中の副使に二位玄武若光(げんぶじゃっこう)という人物の名がある。二位の位階が、高句麗官位制度でどういう意味なのか、またどういう人に与えられたのかは不明である。王族クラスに与えられた位階であるならば、この人物が高麗王若光と同一人物である可能性は高い。高句麗はこの年の初めにも使節を派遣してきている。その使節が6月に帰国したばかりというのに、また使節を送り込んできた。唐・新羅連合軍との直接対決が目前に迫っていたこの時期、高句麗としては、我が国が新羅を背後から突く軍事支援を求めるのに急だったのであろう。ちなみに、この使節が帰国したという記録はない。この時の副使が若光その人であったなら、我が国にとどまって母国救援のために近江政権の説得を続けたであろう。

 文武天皇の大宝3年(703)、若光は従五位下に任官され、さらに高句麗王族の一人として「王(こきし)」の姓を賜った。そのとき以来、彼は高麗王若光を名乗るようになった。それから13年後の霊亀元年(716)、時の政府は、東国各地に散らばっていた高句麗遺民1,799人を一地域に集めて安住せしめるのが彼らを遇する途と考えて、現在の埼玉県日高市を中心とする地域に土地を与え、新しく高麗郡(こまのこおり)を新設した。そのときまで相模国大磯の郡長などを歴任していた若光は、高麗郡の新設とともに郡の大領(長官)として赴任してきた。

日高市
若光の菩提寺・聖天院から見た日高市の丘陵地帯
 武蔵国は中央からはなれた辺境の地である。と言って、高麗郡あたりは無人の原野だったわけではない。すでに先住者が住み着いていた。遺民たちに与えられた土地は、原生林に覆われた武蔵野の丘陵地帯であっただろう。一族と共にこの地に移ってきた若光は、高麗川のほとりに高句麗的な王城を建築して、遺民たちを住ませたと思われる。そして、遺民たちの先頭に立って、彼らを叱咤激励しながら武蔵野の開発に力を尽くした。

 日高市の高麗本郷に、巾着田と呼ばれる場所がある。周辺の高麗川の岸辺は、全国でも最大規模の曼珠沙華の群生地として知られている。この地に住み着いた高句麗遺民は、高麗川が蛇行している事を巧みに利用して、付近の土地を水田に変えていった。すなわち、川を堰きとめて内側にあふれた水を導いて丘陵地帯に導き水田を開いたと伝えられている。近くの日和田山から見下ろすと、その形が巾着の形をしている事から、巾着田という名がついた。渡来人の最新技術がこうした灌漑工事を可能にした。その他にも、彼らはこの地方の人たちとの交流も大切にし、鍛冶、建築、工芸など各種の新しい技術を伝えたという。

 天平2年(730)、若光は再び故国の土を踏むこともなく、この地で没した。高句麗滅亡から62年後のことである。かなりの高齢に達していたと思われる。仮に90歳近くまで生きたと仮定すれば、使節団の副使として来朝したときは、まだ20代の若き王族だったことになる。人生の大半を異国の地で過ごさなければならなかった己の運命に、どのような感慨を抱いて黄泉の世界へ旅たっただろうか。彼に従ってきた高句麗遺民たちは、その屍を王城の外に埋め、霊廟を後山に建て高麗明神として崇敬した。彼が埋められた墓地の付近も、おそらく曼珠沙華で深紅の色に染められたにちがいない。


「天下大将軍」「地下女将軍」のチャンスンが立つ駐車場


 霊亀2年(716)に新しく設置され、高麗王若光が郡司を務めたという高麗郡(こまのこおり)は、『延喜式』に記された北武蔵15郡の一つである。その中心となる郡衙は、現在の日高市高麗本郷に置かれた。高麗王若光を祀る高麗神社は、高麗本郷から高麗川を少し下流に下った新堀にある。高麗郡の名はおよそ1200年の間、武蔵国高麗郡として広く親しまれてきた。だが、明治29年(1986)、郡の改編によって消滅し、高麗神社が鎮座している旧高麗村は、現在は日高市に属している。

チャンスン
駐車場のチャンスン
 12月の初め、高麗神社を訪れるのに車を利用した。圏央道の「圏央鶴ヶ島IC」から国道407号線に出ると、枯葉を落としたケヤキ並木の両側に茶畑が見える。狭山茶で知られる狭山市は隣の市である。JR川越線の「武蔵高萩」駅近くの交差点「高萩」で右折して県道15号線(川越日高線)に入る。八高線「高麗川駅」近くの陸橋を越えて、すこし行くと「粟坪」という交差点がある。交差点の角に高麗神社方面の標識で出ているので、標識通りに右折すると、あとは一本道だ。高麗川にかかる獅子岩橋をすぎると、すぐのところに高麗神社がある。

 神社の大鳥居の脇にある駐車場に車を停めて、驚いた。「天下大将軍」「地下女将軍」と胴体に大書されたチャンスンが、駐車場の中央に建っている。チャンスンは、韓国の村落、寺院の入り口によく見られる標識で、先端に恐ろしい将軍の面相が彫刻されている。韓国では、悪霊や疫病の侵入を防ぐ村の守り神であるが、境界標や道路の里程標としても立てられる。この後、神社の境内を散策しながら気付くのだが、説明板にことごとくハングルによる解説が並記してある。日本国内だけでなく、韓国からの参拝者も多いのだろう。


出世明神として崇敬される社と日韓親善に利用された社


境内
高麗神社の境内
 道路に面して立つ一の鳥居から、石畳の道が二の鳥居に向かって延びている。左手前方に、神奈備山を思わす低い山が横たわっている。散乱した枯葉を踏みしめながら石畳の道を進むと、その先に「高麗神社」の赤い扁額を掲げた二の鳥居があった。鳥居の左横に案内板があり、境内の社殿配置が図示されている(左図)。配置図を見た限りでは、ずいぶん縦長の境内に思えたが、そうではない。後ろ半分は、国の重要文化財に指定されている旧高麗家住宅の敷地である。

 神門に続く正面参道の両脇には、杉の大木が並び、その根本にも大小の植樹がされている。杉の木を含め、すべては参拝者の献木である。献木者の名前を見ると、政界、官界、財界の著名人の名が並ぶが、特に政治家の名前が多い。古来、この神社は霊験あらたかな神社として知られ、高麗郡総鎮守として郡民の崇敬を受けてきた。近代になって、若槻礼次郎、浜口雄幸、斉藤実、鳩山一郎など著名な政治家が参拝し、その後相次いで総理大臣に就任したことから、出世明神としても信仰されるようになったという。

 献木者は日本人だけではない。韓国人の名前もある。その中に、「李王垠(ウン)殿下御手植」と「李王妃方子(マサコ)女王殿下御手植」と書かれた2本の杉があった。帰宅して調べてみると、李王垠と王妃方子は、日本が強行した韓国併合という暴挙の陰で、運命を狂わされた悲劇のカップルである。李朝高宗の皇太子だった垠は、日韓親善を演出するために、日韓併合前の1907年に11歳で日本に留学させられた。1919年には、当時皇太子だった昭和天皇のお后候補の一人とされていた梨本宮方子(なしもとのみや・まさこ)と結婚させられた。いわば皇族同士の結婚だった。

 その二人が、朝鮮半島にゆかりの深い高麗神社で植樹を行なった。植民地支配への不満をやわらげるための政治的な意図が見え見えの演出だった。神社からすれば、その演出に利用されたことになる。李王垠が方子妃と伴って大韓民国に帰ったのは、昭和38(1963)年11月である。皇太子として11歳で故国を後にして実に56年の歳月が経っていた。祭神として祀られている高麗王若光は、ついに故国の土を踏むことはなかった。それに比べれば、李王垠は少しは恵まれていたというべきか。


高麗郡の首長・高麗王若光を祭祀する神社


神門
高句麗神社の扁額を掲げる神門
 参道正面の石段の上に神門が扉を開いている。神門に掲げられた扁額をみると、”高句麗神社”と書かれている。だたし、”句”の字が小さいので、注意しなければ、高麗神社と読んでしまう。高句麗の王族だった若光を祀る神社であることを、扁額は暗示しているのであろう。

 神門を入れば、そこは高麗神社の神域である。正面に拝殿があり、拝殿の陰でみにくいが、奥には県の重要文化財に指定されている本殿がある。桧皮葺(ひはだぶき)の一間社流れ造、身舎柱(しんしゃばしら)・向拝柱(ごはいばしら)とも禅宗様式であり、室町時代後期の様式を伝えるという。向かって拝殿の右に社務所と祈祷希望者の休憩室がある。

神門の扁額
神門の扁額
 高麗神社の祭神は、高麗王若光、猿田彦命(さるたひこのみこと)および武内宿禰(たけちのすくね)の三体である。高麗王若光は人々の敬慕のうちに波乱に満ちた生涯をこの地で終えた。彼に従って高麗郷に移り住んだ人々は、若光の屍を城外に埋め、その徳を偲んで霊廟を御殿の後山に建て高麗明神と崇めたという。したがって、高麗王若光が祭神として祀られているのは当然である。

 だが、猿田彦命と武内宿禰が合祀されている理由がよく分からない。猿田彦命は天孫降臨のとき、皇孫迩々芸命(ににぎのみこと)を案内した神である。武内宿禰は景行、成務、仲哀、応神、仁徳の五代の天皇に244年間に渡って仕えたとされる伝説上の人物である。若光は、日頃から崇敬していた猿田彦命を祭祀していたが、一社を建立しそこに武内宿禰を合祀して白髭明神として崇敬していたという説がある。後に、高麗明神を白髭明神に合祀して高麗大明神として祀ったのが高麗神社の創祀であるとされている。また、猿田彦命は高麗明神と同様に渡来系氏族が祀ってきた白髭神社の祭神で、若光自体が白髭明神として祀られたとする伝説もある。祭神である若光の子孫は、代々当社の宮司をつとめ、現在は59代目であるという。

 本殿以外にも、当社には12世紀(鎌倉時代)の「大般若経羅密多経」(国指定重要文化財)や徳川将軍家社領寄進状(市指定文化財)といった有形文化財がある。10月19日の例大祭に氏子によって奉納される獅子舞は市の無形民俗文化財に指定されている。その他に、高麗氏所蔵の文化財として17世紀の建築と言われる高麗家住宅(国指定重要 文化財)や高麗氏系図(市指定文化財)がある。


国指定重要文化財・高麗家住宅


高麗家住宅
重要文化財に指定された高麗家住宅
 神社の隣接地に、代々高麗神社の神職を勤めてきた高麗家の古い住宅が建っている。江戸時代初期の重要民家として、昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定された入母屋造り茅葺きの建物である。慶長年間(1596〜1614)の建築という伝承があるが、明確な資料は残っていないとのことだ。しかし、構造手法から17世紀中頃までは遡り得ると考えられている。なお、この住宅は昭和51年(1976)10月に解体修理に着手し、解体工事中の調査発見した痕跡資料などに基づいて当初の構造を復元し、翌年の9月に竣工したものである。

 遠方から眺める茅葺きの建物は、山を背にして、しだれ桜の老木と並んで、広い庭の奥にポツンと佇んでいる。近寄って、格子窓から中をのぞき込んでみると、内部は意外に広い。説明板によれば、間口14.292m(約7間半)、奥行き9.529m(約5間)、総面積136.188m(約37.5坪)とのことだ。間取りは5つの部屋と比較的狭い土間とから成っている。5室のうち表側下手の部屋は最も広く21畳もある。かっての宮司の優雅な生活が偲ばれる住居である。


日高市指定民俗文化財・獅子舞


 毎年10月19日の例大祭当日、氏子が奉納する獅子舞は、日高市が無形民俗文化財に指定している。起源は明らかでないが、享保12年(1727)の日付がある獅子頭再興の寄進連名板が神社に保存されている。これによって、かなり古くから奉納されてきたことがわかる。獅子は三頭だてで、鳴物は笛、太鼓、ササラ、ホラ貝、所役は棒使い、貝吹き、天狗、おかめ、ササラ、導き、獅子、笛方、歌方と総勢50名。獅子舞は宮参り、雌獅子がくし、竿がかりの三場と、氏子崇敬者の祈願をこめた願獅子の場からなる。場面毎に獅子の舞手がかわる。

釈迢空の歌碑
釈迢空の歌碑
 筆者は見学したことがないが、哀調をおびた笛の音や素朴な獅子の舞は、古代へのロマンをかきたてるという。戦後まもなく、作家の坂口安吾が取材で高麗郷を訪ね、偶然にも高麗神社で獅子舞に遭遇した。寂しい曲にいたく心を動かされ、安吾はそのときの印象を「高麗神社の祭りの笛」で書いている。

 その他に、釈迢空も「山かげに獅子笛おこるしし笛は高麗の昔を思えとぞひびく」の歌を残した。その句碑が境内の桜の木の下に建っている。また、加倉井秋の「引獅子や 昏れをうながす 笛と風」の句碑も境内に建っている。



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