![]() |
| 慈光寺の山門 (04/02/08 撮影) |
|
(寺号) 都幾山慈光寺 |
|
比企郡都幾川(ときがわ)村には、天台別院慈光寺がある。国宝の「法華経一品経」をはじめ多くの寺宝を所蔵する寺として、あるいは板東第9番の札所として知られている寺である。寺域は、西平集落の北に聳える都幾山の中腹に広がり、山門までは麓から徒歩で30分近い山道の参道が続く。平成16年2月の日曜日、都幾川村役場の近くの「田中」交差点から、車で山間部に入り、都幾川渓谷沿い道を通って慈光寺を訪れた。 |
鎌倉時代の寺の繁栄を物語る青石塔婆9基(県指定文化財)
著莪は古い時代に中国から日本に持ち込まれた植物である。種子ではなく、地下茎でしか繁殖しないのであれば、人間の手でその地下茎の一部がこの山に植えられたことになる。あるいはこの山岳道場へ修行にやってきた山伏たちだったかもしれない。
高さは1.3〜2.65m、幅35〜64cmと大型のものが多い。鎌倉時代の特色を持つこれら9基の優美な緑泥片岩製塔婆は、県の文化財に指定されている。明治初期の廃仏毀釈の嵐で多くの僧坊が廃絶となる以前は、各坊にあったと言われている。 |
国指定重要文化財「慈光寺開山塔」
なお、この解体修理のとき、その基壇の下から蔵骨器(ぞうこっき)発見された。須恵器の大甕で高さ51.6cm、口径30cm。中には、30〜40歳の男子のものと推定される焼骨が入っていた。あるいは開山道忠のものかもしれない。この蔵骨器も県の文化財に指定され宝物殿に展示してある。 |
武蔵最古の銅鐘と般若心経の道開山塔の覆屋の横は広い空き地になっている。ここには釈迦堂と蔵王堂が建っていたが、昭和60年(1985)11月26日の放火で焼失してしまった。釈迦堂は元禄8年(1695)に建立された五間四方で茅葺きの堂々とした建物だったという。まことに残念なことだ。
梵鐘には銘文が刻まれていて、当時の慈光寺は「天台別院」と呼ばれていたことが分かる。この梵鐘を制作した物部重光は、鎌倉時代から南北朝にかけて活躍した鋳物師で、鎌倉大仏や鎌倉建長寺の梵鐘(国宝)も彼の作品である。 梵鐘の高さは150cm、口径88cm、重量は509kgとのことだ。年代が分かる梵鐘としては埼玉県内最古のものとされている。梵鐘を吊した鐘楼は昭和60年(1985)の火災で釈迦堂や蔵王堂とともに焼失してしまったが、寺の復興を願う関係者の浄財で平成2年に再建された。 鐘楼の横から緑泥片岩を敷いた石段が続いている。般若心経の道である。石段の脇のところどころに石碑が立っている。日本を代表する般若心経の名筆を石碑に復元したものだ。観音堂まで坂道に沿ってに全部で8基ある。平成4年に新しく据え付けられたもので、空海や良寛などの筆跡を鑑賞でき、それなりに楽しい。 |
本坊の前で枝を張る天然記念物の多羅葉樹
この木の葉は楕円形で、裏面は傷つけるとその部分が黒くなる性質がある。それを利用して昔はこれをハガキの代用にしたことから、”ハガキ(葉書)の木”とも呼ばれている。郵便葉書の語源がこんなところにあったとは知らなかった。多羅葉(たらよう)の語源も、経文を書いたヤシ科の多羅樹(たらじゅ)に似ていることにあるようだ。 |
薄暗い光の下で数々の宝物を展示する宝物殿
■法華経一品経29巻に開経の無量義経、結経の観音賢経、および阿弥陀経・般若心経各1巻を加えた写経全33巻(国宝) その他にも、紙本墨書(国指定重要文化財)、絹本着色徳川家康画像(県指定文化財)、絹本着色天海僧正画像(県指定文化財)、日吉山王七社版木(都幾川村指定文化財)、木造聖僧文殊坐像(県指定文化財)、木造宝冠阿弥陀如来坐像(県指定文化財)などが陳列されている。 |
般若心経を原寸大で展示解説している般若心経堂
向かって正面右には、千手観音菩薩が厨子の中に安置されていて、近くから拝観できる。このお堂を訪れたとき、先客がいた。一人の老婦人が菩薩像の前に座って般若心経を読誦していた。般若心経とは、「大般若経」600巻の集大成といわれる経典で、膨大な量の「大般若経」からエッセンスだけを抜き出してまとめた、いわばダイジェスト版である。
|
本尊の千手千眼観自在菩薩を安置する観音堂
寺の縁起では、天武天皇2年(673)に開祖・僧慈訓が春日という神仙から観音像を授かり、その像を祀るために観音堂を建立したとされている。説明板によれば、現在の観音堂は享和3年(1803)に97世義然によって再建された入母屋造りである。だが、老朽化が進んだため平成5年(1993)から4年がかりで修復が行われた。修復事業では、本尊の解体修理を行うとともに、屋根を茅葺きから銅板葺きに改修し、さらに堂内外の修復と周辺整備を行ったという。 本尊の千手観音立像は秘仏で、普段は厨子の中に収められている。像の高さは270cmであるが、面白いことに頭部と体部の制作時期が異なる。頭部は室町時代の天文18年(1549)の制作だが、体部は江戸時代の享和2年(1802)に制作されたものである。
観音堂の外陣は吹き放しになっていて、履物のまま昇殿できる。これは札所建築の特徴的な様式である。外陣の天井を見上げると、細部が非常に凝った造りになっている。柱ごとに彫刻木鼻をつけ、虹梁に細かい文様の地彫または彫刻を施し、その上は彫刻欄間で飾ってある。 |