大宮氷川神社(おおみやひかわじんじゃ)  かっては「武蔵国一の宮」として武蔵の国でトップの位置を占めた神社

神橋と楼門
神橋と楼門 (2003/12/17 撮す)

メモ

【所在】 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407
【祭神】 須佐之男命(スサノオノミコト)、稲田姫命(イナダヒメノミコト)、大己貴命(オオナムチノミコト)
【アクセス】 JR「大宮」駅から徒歩15分または、東武野田線「北大宮」駅から徒歩5分


地名の大宮(おおみや)は氷川神社のこと


 埼玉県の大宮市という地名は、平成13年(2001)4月30日をもって地図上から消滅した。翌日の5月1日、大宮市、浦和市、与野市の3市が合併して「さいたま市」が発足したためである。その後、新生「さいたま市」は、平成15年に政令指定都市に移行し、現在人口105万を擁する県庁所在地となった。かっての大宮市は”武蔵国一の宮”である氷川神社の門前町として栄えたところで、その地名は、この神社が「おおいなる宮居」であったことに由来するという。

氷川神社の一ノ鳥居橋
氷川神社の一ノ鳥居
 門前町としていかに栄えたかは、その参道の長さが示している。氷川神社の一ノ鳥居は、JR京浜東北線「さいたま新都心駅」近くの、かっての中山道の脇に建っている。この鳥居から本殿までは、ケヤキなどが植えられた参道が延々と2kmに渡って続く。

 二ノ鳥居は参道のちょうど中間地点にあり、国道16号線沿いの市立図書館前に建っている。木造では関東一の高さを誇る大鳥居である。二ノ鳥居から約1km歩くと三ノ鳥居に達する。三ノ鳥居から一歩境内に足を踏み入れると、そこには古杉や老松などの大木が厳かな雰囲気を漂よわせている3万坪の緑豊かな空間が広がっている。周辺の緑のなかに神橋が鮮やかな朱塗りの欄干を神池に映しており、その先に、やはり朱塗りの巨大な楼門が聳えている。

氷川神社の二ノ鳥居橋
氷川神社の二ノ鳥居
 大宮氷川神社は拙宅からそれほど遠い距離ではない。子供の七五三詣や初詣などで何回も参拝したことがある。あらためてこの神社を訪れる気になったのは、第13代成務天皇のとき、夭邪志国造(むさしのくにのみやつこ)に拝命された出雲族の兄多毛比命(エタモヒノミコト)が一族を引き連れてこの地に移住し、祖神を祀って氏神としたのが起源だと知ったからだ。言われてみれば、祭神として祀っている 須佐之男命(スサノオノミコト)、稲田姫命(イナダヒメノミコト)、大己貴命(オオナムチノミコト)の三柱は、いずれも出雲の神様だ。



氷川神社の沿革


標柱
標柱
 大宮氷川神社の創建は諸説があってよく分からない。社伝では、今から2400有余年の昔、第5代孝昭天皇の3年4月に創建された、と伝えている。延長5年(927)に作成された我が国の神社の一番古い戸籍簿にあたる『延喜式神名帳』では、日本武(ヤマトタケル)が東夷征伐の折にスサノオノミコトを勧請したとしている。

 別伝もある。上に述べたように、第13代成務天皇のとき出雲族の兄多毛比(エタモヒ)という人物が、夭邪志国造(むさしのくにみやつこ)を拝命し、一族を引き連れてこの地に移住してきた。そのとき、一族の祖神を祀る杵築大社 (きずきのおおやしろ、出雲大社の前身)を出雲国からこの地に勧請して祀った。それが当社の始まりだという。氷川神社という神号については、出雲国の簸川(ひかわ:肥川、斐伊川)の川上にあった杵築大社を勧請したところから、その川の名前に因んで名付けられたとされている。

氷川神社の三ノ鳥居橋
氷川神社の三ノ鳥居
 こうしたスサノオノミコト勧請説の他に、『延喜式神名帳』に載る氷川神はもともと見沼に宿る水の霊で、これが後に農業神と信仰されるようになったとする説もある。上代のことは、真偽を詳かにすることができないが、奈良時代以前に、この地に鎮座していたことはどうやら事実のようだ。

 神社は7世紀後半に入ると官社制度の成立によって、律令国家の厚い保護を受けた有力な官社が諸社の中心的な存在になってくる。そうした時流にうまく乗ったのが、武蔵国造の保護を受けていた氷川神社だったのだろう。聖武天皇の時代に各国に一の宮の制を定めたとき、当社が「武蔵国一の宮」に定められたと、社伝は誇らしげに伝えている。また、『延喜式神名帳』では、当社は名神大社に列せられ、破格の月次新嘗の社格が与えられたとしている。そして、土御門天皇(在位 1198 - 1210)の時代に、正一位の神階が当社に授与された。文字通り武蔵の国全体でトップの地位を占めるようになったわけである。

 鎌倉に武家政権が誕生すると、源頼朝は土肥次郎実平に命じて社殿の再建させ、社領三千貫を寄進した。治承4年(1180)のことである。頼朝以後も武門の信仰が篤く、執権北条氏、足利氏、小田原北条氏なども深く崇敬し、また徳川家も当社を尊仰したという。文禄5年(1595)、徳川家康は伊奈備前守忠次を奉行として、社頭を残らず造営させたという記録が残されている。

神橋
緑に囲まれた神橋
 明治元年(1868)、明治天皇は都が東京に遷すと、当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社に定め、天皇自ら行幸して祭儀を執り行った。次いで明治4年(1870)には官幣大社に列せられた。その結果、年々の例大祭(れいたいさい、8月1日)には、勅使の下向があり、東游の奉納などの荘重厳粛な祭儀が執り行われる。なお、昭和42年(1967)10月には、明治天皇の御親祭百年大祭が執り行われたが、それに先だって社殿その他の諸建物の修復工事が行われた

 「氷川神社」の社名を有する神社は多い。その範囲は大宮を中心に埼玉県下、東京都下、神奈川県下に及び、その数は280社を数える。このことは夭邪志国造(むさしのくにみやつこ)に任じられた出雲系の豪族に奉られ、一族の勢力伸張とともに、 武蔵国を中心に各地に勧請されて、 広大な祭祀(さいし)圏を形成して来たことを意味するのだろう。



氷川神社の祭神はもとは別々に祀られていた


楼門
鮮やかな朱色の楼門
 三ノ鳥居から境内に入ると、緑の樹木に覆われるように朱塗りの欄干の神橋が神池にかかっている。その先に楼門が聳えている。休日の午後とあって、参拝者よりも境内を散策に来たと思われる人物の数が多い。神橋の上から神池の水面を悠然と眺めたり、腕組みしてそびえ立つ朱塗りの楼門を見上げている。風のない暖かな冬の日差しが彼らを散策に誘ったようだ。

 楼門をくぐって一歩中に入ると、そこは神域である。緑の連子窓をはめ込んだ塀が周囲を囲んでいる。巨大なクスノキに囲まれた舞殿が神域の中央に設けられている。祭神に舞いを奉納する建物である。舞殿の後ろに拝殿があり、社殿はその奥にあるが、拝殿の陰になっていてよく見えない。現在の社殿は昭和15年(1940)6月に建て替えられたもので、流造りである。拝殿の横に立って神域の様子をしばらく眺めていると、神前結婚式があったのか、参列者がゾロゾロ出てきた。

舞殿
祭神に舞いを奉納する舞殿
 社殿には、三柱の神が祀られている。高天原を追放されて出雲の簸(ひ)の川上に降り、八俣の大蛇を退治して草薙剣を天津神に献じたスサノオノミコトと、その妃だったイナダヒメノミコト、およびスサノオノミコトの6世の孫(異説では子供)であるオオナムチノミコトである。いずれも出雲神話で著名な神々である。

 ところで、『官幣大社氷川神社志要』や『新編武蔵風土記稿』によれば、明治維新前までは、この三座の祭神は見沼周辺の別々の場所に祀られていたとされている。現在の大宮氷川神社は、もとはスサノオノミコトだけを祀る男体神社だった。イナダヒメノミコトはさいたま市宮本にある氷川女体神社に祀られていた。オオナムチノミコトはさいたま市中川にある中山神社(簸王子社(ひおうじしゃ)ともいう)に祀られていた。これら三柱の神を現在のように一つの社殿で祀るようになったのは、明治以降のことだ。

拝殿
拝殿とその奥の社殿
 別の説もある。古くはオオナムチノミコトを主神として祀り、スサノオノミコトとイナダヒメノミコトは奥院として、三神を祀っていたという。オオナムチノミコトとは、天孫降臨の際に豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)を明け渡した大国主命(オオクニヌシノミコト)のことだ。杵築大社(きずきのおおやしろ)を勧請して祀ったのが当社の始まりであるとの伝承が本当なら、オオナムチノミコトが祀られているのは納得できる。出雲の杵築大社はオオナムチノミコトを祭神として祀る神社だからだ。いつの頃かオオナムチノミコトの遠祖にあたるスサノオノミコトとイナダヒメノミコトを合祀するようになり、首座が入れ替わったとも考えられる。


夭邪志(むさし)国造・兄多毛比命(エタモヒノミコト)とは


楼門
楼門
 氷川神社創建説話の一つに、出雲族の兄多毛比(エタモヒ)という人物が、夭邪志国造(むさしのくにみやつこ)として夭邪志の国にやってきたとき、一族の祖神を祀る杵築大社(きずきのおおやしろ)を出雲国からこの地に勧請して祀ったのが始まりとする伝承がある。その根拠は、どうやら『国造本紀』という書籍にあるらしい。『国造本紀』は『先代旧事本紀』の巻十のことで、訓では「くにのみやつこのもとつふみ」と読んでいる。平安時代に書かれたものなので普通は「こくぞうほんぎ 」と読んでいる。

 『国造本紀』の中に、志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に、出雲臣の祖、名は二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫、兄多毛比命を以って、无邪志国造に定め賜う、とある。この記述が史実を反映しているならば、出雲族のエタモヒが第13代成務天皇の時代に、无邪志国造として赴任してきたことになる。だが、『高橋氏文』では、第12代景行天皇が安房の浮島にあった行宮に行幸した際、武蔵国造の上祖・大多毛比と知々夫国造の上祖が、共にその地に参り奉仕したと記されている。この大多毛比がエタモヒと同一人とすれば、エタモヒはこの時までにすでに武蔵国に住んでいたことになる。

 武蔵の国は広大だったため、大化の改新以前は、无邪志(むさし)、胸刺(む(な)さし)、知々夫(ちちぶ)の3つの地域に分けて、それぞれに国造が置かれた。无邪志の国は、北部の荒川流域を支配する国であり、その中心は、埼玉県の行田周辺の古代埼玉(さきたま)地方や、東松山市周辺の古代比企(ひき)地方だった。この地域には、6世紀になると埼玉古墳群の巨大古墳を築造されていて、有力豪族がいたことを証明している。

 埼玉古墳群を築いた豪族がエタモヒの子孫たちであるなら、出雲系の氏族ということになるが、はたしてどうであろうか。ちなみに、奈良時代には氷川神社の祭祀は足立郡を地盤とした丈部(はせつかべ)氏が関与したとする説がある。丈部直不破麻呂は恵美押勝の乱の鎮圧で軍功をあげた人物であり、神護景雲元年(767)には丈部一族7名が武蔵宿禰の姓を朝廷から与えられると共に丈部不破麻呂が武蔵国造に任命され、氷川神社の祭祀権を認められている。




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