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阿波の国二十三カ寺一覧
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徳島県(阿波の国)『発心の道場』23札所
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御朱印、御本尊、&御詠歌 |
装束と遍路用品
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空海と四国八十八カ所霊場出発に先立って、少し四国八十八カ所霊場に関する予備知識を得ようと思って、空海(774-835)について調べてみた。誰にも周知のことだが、四国には八十八カ所に霊場があり、いずれも弘法大師空海が42歳の弘仁6年(815)前後に四国を修行で遍歴したとき、人々から災難を除くために開いた霊跡とされている。だが、空海以前にも役小角(えんのおずぬ)や行基(ぎょうき)に代表される行者が、すでに四国で修行したとされる聖地があちこちにある。
空海は、宝亀5年(774)、讃岐国(香川県)多度郡(現在の善通寺のあるあたり)の郡司の家に生まれた。15歳のとき都・平城京に出て、母方の叔父にあたる阿刀大足について論語・孝経・史伝・文章などを学び、18歳になった延暦10年(791)、大学寮(明経科)に入った。だが、20歳すぎには大学を去り、山林での修行に入ったとされる。 山林修行に入ったといっても、正式な出家としてではなく私度僧(官許を得ず、僧侶を自称したということ)としてであった。この頃、空海を名乗るようになったようである。空海が修行した場所として、吉野の金峰山や阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山などが知られている。 空海が修行した阿波の大滝岳には第二十一番札所・大龍寺(だいりゅうじ)が、土佐の室戸岬には第二十四番札所・最御崎寺(ほつみさきじ)が、さらに、伊予の石鎚山には第六十番札所・横峰寺(よこみねじ)や第六十四番札所・前神寺(まえがみじ)などが設けられている。史実から空海ゆかりの寺と言えるのはこの程度である。 承和2年(835)3月21日、空海は高野山で入定した。62歳だった。彼に弘法大師の諡号が送られたのは、それから85年余り後の延喜21年(921)のことである。その弘法大師空海が弘仁6年(815)に八十八カ所に霊場を開いたとされている。だが、空海の事績を見る限り、弘仁6年前後は高野山の開創に忙しく、四国を訪れた形跡は、後述の讃岐の満濃池修復に出向いた以外は見あたらない。 弘法大師空海が八十八カ所に霊場を開いたというのは、史実ではない。多くの寺は、大師入定後の平安末期に大師信仰の隆盛に伴って霊場として定められていったものである。室町時代には、ほぼ現在の八十八カ寺となったとされている。
八十八という数の由来には様々な説がある。煩悩の数とも、浄土の数とも、男女と子供の厄年を合わせた数とも言われている。八十八カ寺の分布は、阿波が23、土佐が16、伊予が26、讃岐が23で、それぞれは発心の道場、修行の道場、菩提の道場、涅槃の道場と名付けられている。 |
「般若波羅密多心経」の読み方と意味「般若心経」は、玄奘三蔵が唐代に翻訳したもので、『大般若経』600巻の内容の精髄を抜き出し260文字にまとめた、いわばダイジェスト版のようなもの。般若心経の「心」の字はそのことを表している。 正しくは「般若波羅蜜多心経」と言う。般若波羅蜜多は、サンスクリット語で「般若=プラジュニャー(最高の智慧)」・「波羅ム=ハラム(彼岸=悟り)」・「イ多=イター(渡る)」で「彼岸へ渡るための智慧」の意味であるという。これに「心=フリダヤ(核心)」が加わって、「プラジュニャーパーラミターフリダヤスートラ」(スートラ=経=教え)つまり、「悟りをひらくための智慧を説いた教え、その核心」という意味になる。 この経典は「空」の境地を説いていて、何事にもこだわりのない心のことで、悟りにもこだわるな、煩悩の克服にもこだわるな、と教えている。煩悩の克服や悟りにこだわると、それが執着になってしまい、かえって悟れない結果になってしまう。こだわりをすべて捨てれば、おのずから空の境地がひらけ、彼岸=悟りへ到達できると説く。 玄奘訳が依ったとされる『般若波羅蜜多心経』のサンスクリット語本の写本が、推古天皇17年(609)に中国から日本に伝えられ法隆寺に保管されてきた。 仏説摩訶般若波羅密多心経
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