石山貝塚(いしやまかいづか) 瀬田シジミの貝殻を中心とする日本最大級の淡水貝塚

石山貝塚の碑
石山寺の駐車場から東大門に向かう途中にある石山貝塚の碑

 見 学 メ モ

【所在地】滋賀県大津市石山寺1丁目1-1
【出土品】瀬田シジミやタニシなど、2mの貝層
【アクセス】 JRびわこ線石山駅下車。京阪電車の石山坂本線に乗り換え、京阪石山寺駅下車後、徒歩10分。
<バス> JRびわこ線石山駅下車。京阪バス石山団地行き、大石行き、外畑方面行きに乗り約10分。石山寺山門前バス停下車後すぐ。
<車> 京都方面からは名神高速道路瀬田西I.C.より、名古屋方面からは名神高速道路瀬田東I.C.より、宇治方面からは京滋バイパス石山I.C.より。


石山貝塚がある西国第13番札所・石山寺


石山寺の東大門
瀬田川に面して建つ石山寺の東大門
来、天下の名勝としてその名が知られている石光山石山寺は、大津市南端の伽藍山の麓を流れる瀬田川の畔に位置する。境内の高台には月見亭があり、そこから瀬田川の清流を見下ろす眺望は美しい。特にここから眺める月は素晴らしく、「石山の秋月」は近江八景の一つにもなっている。

ともとこの地は、奈良時代に東大寺建立のため琵琶湖周辺の山々から切り出された材木の集積地であり、造東大寺司の一部として石山院という役所が設けられた。東大寺の建立にあたっていた良弁(ろうべん)僧正は、東大寺完成後の天平宝字5年(761)、石山院に本堂や諸堂を建てて整備拡張し、寺とした。それが石山寺の創期とされている。

世紀末、聖宝僧正が座主のとき、真言密教寺院となり、現在は西国第13番札所とされている。国の重文に指定されている本尊の如意輪観世音菩薩半跏像は、自然の岩盤の上に安置された秘仏で、33年に一度だけ開帳される。次回の開帳は2024年とのことだ。なお、石山寺境内には、国の天然記念物に指定された硅灰石(けいかいせき)の岩があり、この寺の名もこの硅灰石に由来すると言われている。

安時代、石山寺は京に近い観音霊場として歴代天皇や藤原氏などの貴族の参詣・参籠など、いわゆる物見遊山を兼ねた「石山詣で」が盛んに行われた。寛弘元年(1004)、紫式部が石山寺に参籠し、瀬田川の対岸から昇る月を眺めながら「須磨の巻」を書いたという伝承は有名である。彼女が筆を取って源氏物語を書いている様子を示す人形が、本堂の右隣にある「源氏の間」に置かれている。

宝の本堂は永長元年(1096)に再建された建物である。天正元年(1573)、時の将軍・足利義昭が織田信長と争ったとき、この石山寺に布陣したため、本堂は戦火に見舞われた。しかし、慶長5年(1600)には修復されて現在に至っている。その他に、国宝の多宝塔や、蓮如上人の遺跡である蓮如堂など、多数の文化遺産がある。

は、石山寺の東大門の近くに、瀬田シジミやタニシを中心にした淡水産の貝塚としてはわが国最大級の石山貝塚がある。



瀬田シジミの貝殻を中心とする日本最大級の淡水貝塚

案内板
大津市教育委員会が立てた案内板
山寺の東大門の南約50mのところに、「史跡 石山貝塚」の標識が立っており、その横に大津市教育委員会が立てた案内板がある。駐車場から東大門に向かう途中の左手に位置し、うっかりすると植え込みのために気づかすに通り過ぎてしまうかもしれない。

塚とは、縄文時代の人々が食べた貝の殻が捨てられて堆積したものをいう。石山貝塚は今から7000〜8000年前の縄文時代前期に作られたものである。案内板に記された解説によると、この貝塚が発見されたのは昭和15年(1949)。翌年の昭和16年から昭和34年(1959)にかけて合計6回の発掘調査が実施され、その結果、東西約20m、南北約50m、最も厚いところで2mの厚さをもつ貝層が堆積していることがわかった。

石山式土器
石山式土器
積していた貝の殻は、この場所が琵琶湖の湖岸や瀬田川の河口に近いことから容易に想像できるように、セタシジミやタニシなどの淡水産の貝殻であり、淡水産貝塚としては、この貝塚は日本で最大規模を誇る。堆積された貝殻は7層に分かれていた。各層からは押型文土器を始め、人骨、磨製石器、角斧など特色がある遺品が出土した。人骨は五体の手足を折り曲げた屈葬人骨として発見され、その中の一体は貝殻の首飾りをつけていたという。最上層から出土した刺突文のある深鉢土器の一群は「石山式土器」と命名され、縄文時代早期(約8000年前)を代表する土器とされている。

ジミは古代から琵琶湖周辺の人々の貴重な蛋白源だった。貝類の他にも、猿やイノシシ、鹿などの獣、および鯉、フナなどの魚の骨も数多く出土していて、当時の縄文人にとってこの地は住みよい環境の場所だったようだ。彼らの居住空間は、おそらく貝塚の背後にある石山寺の境内あたりにあったのであろう。付近には、京阪電鉄石山寺駅近くに縄文時代の「蛍谷(ほたるだに)貝塚」がある。

思議なことに、この貝塚から出土した遺物はほとんど縄文時代早期のもので、その後のものはほとんど発見されていない。つまり、前期以降は急激に人々がいなくなってしまったようだ。その理由として、瀬田川下流の鹿跳付近の川底が流水で削られ、琵琶湖の排水量が変化し、その結果、魚貝類が激減し、縄文人は他へ移っていったと推測されている。




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