唐招提寺(とうしょうだいじ) 鑑真和上が建立した律宗総本山

南大門
唐招提寺の南大門

メモ

【山号】律宗 大本山
【開基】鑑真
【宗派】律宗
【本尊】慮舎那仏座像
【所在地】奈良市五条町13-46 0742-33-7900
【アクセス】近鉄西の京駅から徒歩10分

我が国最初の律寺として建立された律宗総本山

 唐招提寺へ行くには、近鉄橿原線「西の京」駅で降りるのが良い。このあたりは、今でこそ奈良の郊外といった感じだが、平城京に都が置かれた時代は、右京五条二坊と呼ばれた。言ってみれば、首都の中心街のような場所で、平城京を代表する2つの大寺院が至近距離に甍を列べていた。薬師寺と唐招提寺である。いまでも往時の条坊内にあったと思われる古びた道が、この二つの寺院を結んでいる。薬師寺の与楽門からこの道をまっすぐ北へ歩けば500mほど先で唐招提寺の西脇門に行き当たる。

 往時、右京五条二坊には新田部親王の旧邸宅が建っていた。受戒の師を求める聖武天皇の懇請に答えて天平勝宝6年(754)に来朝した唐の鑑真和上は、天平宝字3年(759)にその邸宅を賜って「唐招提寺」を建立した。寺号の”招提”とは、御仏のもとで修行する人たちの場という意味だそうだ。戒律を軸として教学に励む我が国最初の寺という意味で「建初律寺」とも称したという。


”若葉して御目(おんめ)の雫拭(しずくぬぐ)はばや”

 唐招提寺の境内には、上の句の碑が立っている。俳人・松尾芭蕉は貞享5年(1688年)の春に唐招提寺を訪れ、鑑真大和上の像と対面したときこの句を詠んだ。『笈の小文』には、「招提寺鑑真和上来朝の時、船中70余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹き入りて、終に御目盲(しい)させたまふ尊像を拝して」と記している。

鑑真和上像
鑑真大和上像

 唐揚州の大明寺の高僧・鑑真は、12年間の苦難の末、6回目の渡航でやっと来日を果たした。彼の強靭な意志と強い使命感には、ただただ頭が下がるばかりだが、厳しい航海により鑑真の視力は完全に失われていた。彼をそこまで突き動かした背景には、何があったのだろうか。

 平城京遷都後、我が国では仏教は隆盛の一途をたどっていたが、それと平行して僧尼令に違反する僧尼の数が鰻登りだった。それに加えて、勝手に僧になる私度僧(しどそう)も増えていた。そのため、朝廷は唐の受戒制度や戒律の研究の必要性を痛感していた。当時の中国仏教界では、登壇受戒して具足戒を受けなければ僧尼とは認められなかった。

 天平5年(733)、第9次遣唐使派遣の際して、僧・栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)、玄朗(げんろう)の3人は、受戒師の招請の任を舎人親王から要請された。

 唐に渡った3人の僧は、求法しながら受戒師の招請にあたった。彼らの要請で、天平8年(736)にインド僧・菩提セン那と唐僧・道センが来航した。しかし、少なくとも三師七証の10僧が受戒には必要であり、彼らはさらに諸州を巡り渡海してくれる僧を探した。天平14年(742)、揚州の大明寺で鑑真に出会い、日本への僧の派遣を要請した。鑑真はすでに高名な僧であり、すでに55歳に達していた。鑑真は弟子たちに渡航希望者を募った。しかし、誰も申し出るものがいなかった。そこで、鑑真は一言『これ仏法の為なり、なんぞ命惜しからむ』と自ら渡海を決意した。

 それからの12年間に及ぶ苦難の日々は、井上靖の小説「天平の甍」に詳しい。5回企てられた渡海の試みは、それを願わない弟子たちの妨害や難破でことごとく失敗した。結局、第10次遣唐船の帰国のときに密出国し、暴風波濤に逢いながらも天平勝宝5年(753)10月薩摩に漂着した。鑑真が平城京に入ったのは翌年の2月で、すでに67歳に達しており、渡海の苦労で失明していた。

開山御影堂
開山御影堂

 天平勝宝6年(754)4月、鑑真は大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇らに菩薩戒を授けて「大和上」の称号と賜った。また、大仏殿の西に戒壇院を築いて登壇受戒の制度を整えた。来日して6年を経た頃、東大寺戒壇院を退き、天平宝字3年(759)にこの地に律院を設けた。そして、この寺に住むこと4年、天平宝字7年(763)5月6日、76歳をもって示寂した。

 弟子たちは、師の大往生を予知して、鑑真和上の乾漆夾紵像(かんしつきょうちょぞう)を造った。この寿像は境内の開山御影堂に安置され、毎年6月6日(命日の旧暦5月6日を新暦の6月6日に当てる)を中心に前後3日間開扉されている。



十年の歳月をかけて行なう平成の大修理

金堂
平成大修理前の金堂
金堂を覆う巨大な仮設の覆屋根
金堂を覆う巨大な仮設の覆屋根

 天平様式に再建された南大門から一歩境内に入ると、エンタシスの膨らみを持つ円柱の列に支えられた大棟の金堂が、行く手を遮るように立ちはだかっているはずだった。我が国最大の天平建築であり、天平金堂の唯一の遺構である国宝の金堂は、その豊かな量感と美しい姿で、訪問者を一気に1200年の昔へ誘ってくれるはずだった。だが、目に飛び込んできたのは、金堂を覆う巨大な仮設の覆屋根である。

 平成7年(1995) の阪神大震災を契機に建物全体を調査したところ、柱の傾き、梁や垂木のたわみなどが著しく、直ちに修理する必要があることが判明した。そして、平成12年(2000)から10年計画で金堂の解体修理を行なうことになった。

 堂内には、中央に本尊の盧舎那仏座像、左右に千手観音、薬師如来の大きな立像が立ち並び、これらの像を守るように梵天や帝釈天、四天王立像が奉安されていた。しかし、平成15年3月現在、これらの仏像はすでに搬出されて保存修理を受けている。今年の暮れには金堂の解体が終わって、来年の10月頃から組み立てが開始されるとのことだ。予定では、平成21年(2009)8月に金堂平成大修理落慶法要が行われることになっている。それまでは、あの雄大な金堂や諸仏の姿にはお目にかかれない。



平城宮の唯一の遺構 : 東朝集殿を移築した講堂

講堂
弥勒如来を安置する講堂

 仮設の覆屋根の入り口で、唐招提寺を紹介するビデオを見た後金堂の裏に回ると、そこには金堂によく似た講堂が建っている。平城宮の東朝集殿を760年代初めに移築した建物で、唯一の宮殿遺構である。移築に際しては、屋根を切り妻から入母屋に改めただけで、大部分は元の形のまま移したと伝えられている。ただ、鎌倉時代に解体修理が行われ、建物の外観は鎌倉建築風に改められたとのこと。講堂の中には、本尊の弥勒如来座像を中心に、持国天と増長天を左右に配して安置されている。

 唐招提寺には、他にも見るべき建物が多い。講堂の東には、鑑真が将来した仏舎利を奉安したとの由緒を持つ舎利殿(鼓楼)、南北に桁行19間の礼堂・東室、経蔵と宝蔵として使われた2つの校倉(あぜくら)、さらには唐招提寺のトルソと呼ばれる如来形立像(重文)をはじめ破損仏10数体が収蔵している新宝蔵などがある。一方、講堂の西側には、三師七証(さんししちしょう)によって僧の授戒を行なう戒壇が設けられている。礼室と校倉の間を奥に登ったところには、鑑真大和上像を奉安する開山御影堂がある。

瓊花
御影堂の庭に咲く瓊花

 御影堂の供華園には、瓊花(けいか)という花が咲く。鑑真の故郷である中国揚州の花だそうだ。ガクアジサイに似た花である。スイカズラ科の小木で、直径3センチぐらいの白い花が八輪、円を描くように咲く。開花は4月下旬から5月上旬で、この時期だけ御影堂の門が開かれ瓊花を観賞できる。

 唐招提寺の魅力はなんと言っても、これらの堂宇が醸し出す古刹としての閑静さと落ち着きであろう。ここには薬師寺境内のような華やかさはない。その代わりに時空を越えて伝わってくる清浄な天平時代の香りがある。           



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