宝来山古墳 (垂仁天皇陵)

垂仁天皇陵
第11代垂仁天皇を埋葬したとされる宝来山古墳の遙拝所

メモ

【陵名】垂仁天皇 菅原伏見東陵(すがはらふしみのひがしのみささぎ)
【墳形】前方後円墳
【規模】主全長227m、後円部径123m、前方部幅118m、
【備考】周濠中に小塚が1つ、陪塚が6つある。
【築造時期】5世紀前半
【所在地】奈良市尼ケ辻町字西池
【アクセス】近鉄尼ヶ辻駅から徒歩5分

垂仁天皇を埋葬したとされる宝来山古墳

菅原伏見東陵
宝来山古墳

 近鉄橿原線の「尼ヶ辻」駅から「西の京」に向かう電車で、西の方角を見やると、樹木が繁茂した実に形のよい丘を車窓から眺めことができる。宝来山古墳である。宮内庁はこの古墳を垂仁天皇が埋葬したとされる陵墓に治定し、菅原伏見東陵と呼んでいる。

 「尼ヶ辻」駅で降り、少し歩くと、宝来山古墳の後円部の方に出る。周濠に沿って狭い敷石の道が作られているので、濠を半周すれば前方部の正面に作られた遙拝所に出ることができる。唐招提寺方面からアクセスする場合は、踏切を渡った後、線路沿いの道を進めばよい。

 第11代垂仁天皇は、実在した最初の天皇とされる第10代崇神天皇の第3皇子で、父帝の夢占によって皇太子に立てられたとされる。初め狭穂姫を皇后に立てたが、狭穂彦の反乱鎮定の際に兄を追って狭穂姫は自殺してしまう。次いで皇后に立てたのが日葉酢媛である。日葉酢媛の墓地は佐紀盾列古墳群の中にある。佐紀陵山古墳である。

陵墓表示
宮内庁の陵墓表示

 父帝の時代に始まった全国統一の動きは、この天皇の御代においても継続して進められた。皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)に命じて天照大神を伊勢に祀らせたり、葬儀の際の殉死を禁じ、代わりに人馬をかたどった埴輪を陵墓に立てるようにしたのは、この天皇の時代であると伝えられている。


常世の国へ不老不死の霊菓を探しに行った田道間守の墓

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田道間守の墓

 満々と水をたたえた周濠の中に、陵に寄り添うように小さな島が浮かんでいる。天皇の死を哀しみ、あとを追うように死んでいった田道間守(たじまもり)の墓とされている。『日本書紀』には、次のような伝承を伝えている。

 ある時、天皇は「常世の国へ行って、不老不死の霊菓、非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)を探してくるように」と、田道間守に命じました。常世の国が何処にあったかは不明である。現在の韓国済州島とする説もあるが、根拠はない。非時の香菓とは、現在の橘(たちばな)のことである。なお、命令を受けた田道間守は三宅連の先祖とされている。

 苦難の末やっと常世の国に到達し、田道間守が香菓を持ち帰ったのは、10年後のことである。彼が帰国する1年前に、垂仁天皇は崩御して、その年の暮れこの御陵に埋葬された。不老不死の霊果が間に合わなかったのである。田道間守は泣き嘆いていったという。「ご命令を受けて遠く遙かな国へ行き、万里の波濤を越えて帰国して参りました。常世の国は神仙の国で、俗人がなかなか行ける所ではなく、そのため行ってくるのに10年もかかりました。やっと帰国できたのに、天皇はすでにお亡くなりになり復命することもかないません。手前は生きていても何のためになりましょうや」と。

 田道間守は天皇の陵に参拝し、その前で泣き叫んで死んだ。群臣たちは、これを聞いて皆泣き、その亡骸は陵の傍らに葬った。現在でも、この天皇陵の側には、田道間守が持ち帰ったとされる”みかん”の木が植えられている。


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