喜光寺(きこうじ) 行基が創建した法相宗別格本山

喜光寺
喜光寺の本堂

メモ

【山号】清涼山
【開基】行基
【宗派】法相宗
【本尊】阿弥陀如来(重要文化財)
【所在地】奈良市菅原町508 0742-45-4630
【アクセス】近鉄橿原線「尼ヶ辻」駅から徒歩12分

東大寺大仏殿の参考にされた本堂

本堂
「試みの堂」と呼ばれる本堂

 喜光寺は阪奈道路の脇にある。奈良市街へ向かう車の場合、左の車窓から喜光寺の本堂を眺めて、何となく見覚えのある建物だなと感じた人も多いだろう。そのはずだ。喜光寺の本堂は、東大寺大仏殿のミニチュア版である。実際は逆で、行基(ぎょうき)が東大寺を造営するにあたり、喜光寺の本堂を参考にしたとする伝承がある。そのため、この本堂は、大仏殿の「試みの堂」として知られている。

 寺伝によれば、養老5年(721)、行基(668-749)が元明天皇の勅願で創建したと伝えられ、菅原道真の生誕地である菅原の里にあることから"菅原寺"とも呼ばれたという。菅原道真を祀る菅原天満宮とは、道路を挟んで反対側の住宅街の中にある。


「小僧行基」が建立した寺

 しかし、創建の実情は寺伝とはすこし違うようだ。行基は、王仁(わに)の後裔とされる西文(かわちのあや)氏の一族・高志氏の出で、15歳のとき出家し、道昭を師とし法相宗に帰依した。37歳のとき民間布教を始めたが、平城遷都の過酷な労働から逃亡した者たちが行基のもとに集まり私度僧になった。このため、朝廷は「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧している。霊亀3年(717)のことである。

 こうした弾圧にもかかわらず行基は布教を続け、養老5年(721)には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、平城京に住む官人層や商工業者などにまで信者を広げていった。だから、この時代の行基に元明天皇が勅願で造寺を命じたとは考えにくい。行基の影響力を無視し得なくなって、薬師寺の師位僧として行基を認める方針を朝廷がとったのは、天平12年(740)頃である。

喜光寺の境内に咲く紅梅
喜光寺の境内に咲く紅梅

 天平13年(741)の恭仁京遷都を境に、行基とその弟子たちは新京造営・大仏建立といった政府の事業に参加するようになった。そのため、聖武天皇は行基への傾倒を深め、紫香楽遷都直後の天平17年(745)正月には、異例の大僧正に任じている。また天平20年(748)には菅原寺に参詣している。そのとき本尊が不思議な光を放ったことを喜び、天皇は寺名を「喜光寺」と改名させたという。翌年の1月、行基は聖武天皇に戒を授け、2月に菅原寺の東南院で遷化した。時に82歳(一説には80歳)。

 喜光寺の境内には、極楽浄土の花として蓮が栽培されており、その数は約二百種にも及ぶという。蓮の開花は6月下旬から8月上旬とのことで、この寺を訪れた日は残念ながらその美しい姿を眺めることはできなかった。その代わりに見事が紅梅が迎えてくれた。


穏やかな表情の本尊と笑みをたたえた両脇侍

 喜光寺は室町時代の明応8年(1499)に火災で焼失した。その後、天文13年(1544)に再建されたのが、現在の本堂である。単層、寄棟造りで、薬師寺の金堂や両塔と同様に裳階(もこし)を付けた復古建築で、重要文化財に指定されている。現在、この本堂には平安時代に造像された像高2.33mの阿弥陀如来像(重文)が本尊として祀られている。木彫り寄せ木作りの仏像であるが、顔の表情が実に静かで穏やかである。

 両脇には観自在菩薩と勢至菩薩を従えている。いずれも像の高さが1.6mほどの座像で、南北朝時代に作られた作品である。堂内に入って近くで拝観できないのが残念だが、本尊と同様に表情の穏やかな仏像である。穏やかと言うより、笑みを浮かべている。微笑を浮かべた仏像とは、珍しい。眺めているだけで、こころを和ませてくれる仏様である。

勢至菩薩 阿弥陀如来 観自在菩薩
勢至菩薩 本尊の阿弥陀如来 観自在菩薩

境内の仏像群

 喜光寺の境内は、花も多いが石仏も多い。本堂の横には釈迦初転法輪像がある。その前には、当山の住職がインド仏跡巡礼を行った際に、ブッタガヤの聖地にある仏足石を前正覚山の石に写して持ち帰った仏足石が置かれている。

釈迦初転法輪像の横に、不動明王や観音菩薩、地蔵菩薩、阿弥陀如来など47体の石仏が置かれている。いずれも江戸時代に造られたもので、境内に散在していたもの一カ所に集めて奉安しているという。

釈迦初転法輪像 石仏群
釈迦初転法輪像 石仏群


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