秋篠寺(あきしのでら) 既成の宗派宗旨に偏しない単立宗教法人

秋篠寺の本堂<
秋篠寺の本堂

メモ

【山号】
【開基】僧正善珠大徳
【宗派】単立宗教法人(昭和24年以降、既成のいかなる宗派宗旨にも偏せず)
【本尊】薬師如来(重要文化財)
【所在地】:奈良市秋篠町757   0742-45-4600
【アクセス】:近鉄西大寺駅北口から北西方向へ徒歩1.2km。近鉄西大寺駅北口からバス。「秋篠寺前」下車すぐ。

光仁天皇の勅願で建立された奈良時代最後の官寺

南門
秋篠寺の南門

 徒歩で秋篠寺を訪れる場合、近鉄西大寺駅の北口から西北方向へバス通りを進めばよい。10分ほどで県営競輪場の前に出る。競輪場前の観光バス駐車場に秋篠寺方面への標識が立っている。標識の矢印の方向に進めば、秋篠寺の南門前に着く。秋篠寺は閑静な住宅街の奥にある。

 秋篠寺は伎芸天のおわす寺として有名であるが、寺伝によれば創建は古い。奈良時代も終わりに近い宝亀7年(776)、光仁天皇の勅願で善珠僧正が薬師如来を本尊とする寺を造営したのが始まりとされている。一説には、それ以前に秋篠氏の氏寺がすでに当地に営まれており、光仁天皇が善珠僧正を招いて勅願寺に変えたともいう。

境内の小径
南門から続く境内の小径

 寺が完成したのは平安遷都が行われた頃で、当時は金堂や東西両塔など主要伽藍を備えた大寺院だった。平安時代は真言密教道場として隆盛を極めたが、保延元年(1135)に兵火を被り、伽藍の大部分を焼失してしまった。

 鎌倉時代以降、現本堂の改修など復興造営に尽くしてきたが、往年の姿を取り戻すことなく明治時代を迎え、廃仏毀釈によって寺域の大半を失った。現在は、自然のままに茂る樹林の中に千古の歴史を秘めて、本堂を中心にわずかの堂宇がたたずむばかりである。

 秋篠寺は当初法相宗の寺として建立された。平安時代以後は真言宗に転じ、明治初年に浄土宗に属した。しかし、昭和24年以降は単立宗教法人として、既成のいかなる宗派宗旨にも属していない。


東洋のミューズと讃えられた伎芸天を安置する本堂

静かに佇む本堂(国宝)
静かに佇む本堂(国宝)

 受付をすませて一歩境内に入ると、単純素朴な中にも均整と落ち着きを見せる御堂が、梅の木越しに見えてくる。国宝の本堂である。桁行5間、梁間4間、瓦葺き、寄せ棟造りのこの建物は、創建当時は講堂として建立された。金堂が保延元年(1135)の兵火で焼失ししたため、鎌倉時代に講堂の大修理を行って、以後本堂と呼んできたという。

 したがって鎌倉時代の建物とすべきであるが、奈良時代の建築様式の伝統を受け継いでいる。少し離れた正面の喫煙所に腰を下ろして、この建物をじっくり眺めるのもよい。純和様の静かなたたずまいを見せている本堂を包むように、ゆったりとした時間が流れて行くのがわかる。

 本堂の中は薄暗い。太く古ぼけた柱も黒ずんだ白壁も、室内の空気までも煤けて年代を感じさせる。そんな中で、正面に一列に並べられた仏像たちだけは、それぞれスポットライトが照射されて浮かび上がっている。ほとんどの寺院では、本尊などを拝観できても、仏像が厨子の中に安置されていたり、かなりの距離からしか見られない場合が多い。だが、ここでは、手が触れられるほど間近で、しかも淡い光を浴びて仏像の表情や彫像に輪郭がはっきりと見れるのはありがたい。

伎芸天
伎芸天

 仏像は左から、五大力菩薩、伎芸天、地蔵菩薩、十二神将、月光菩薩、本尊の薬師如来、日光菩薩、十二神将、不動明王、帝釈天、愛染明王の順に並んでいる。これらの仏像はほとんどが重要文化財の指定を受けている。本来は帝釈天と対をなす梵天像も陳列されているはずだが、博物館へ出張陳列中とのことで見あたらなかった。

 これらの仏像を一通り見終わった後、もう一度拝観したくて足が向くのは、やはり伎芸天像の前である。この仏像は天平時代に造顕されたもので、頭部は乾漆造り、体部は寄せ木造りという変則的な彫像である。兵火などで胴体以下が破損してしまったため、その部分を鎌倉時代に木彫りで補ったものと考えられている。

 右手を胸のあたりまで持ち上げて軽く印を結び、香に焼けたふっくらとした顔を少し右に傾けながら伏し目がちに見下ろす眼差しは、まるで像の前に救いを求めて佇む衆生を優しく包むようだ。堀辰雄氏はこの伎芸天を「東洋のミューズ」と呼んで讃美したが、その気持ちもわかるような気がする。

 本堂の横には明王堂がある。秘仏の大元帥明王(たいげんみょうおう)を本尊として安置している。開扉は毎年6月6日だけだそうで、今回は拝観できなかった。鎌倉時代の木彫りの2メートル近い立像で、体中に多くの蛇を絡ませて憤怒の形相で立っている姿は、絵はがきで見るかぎりでも迫力がある。


秋篠は、秋篠氏が土師部として栄えた土地柄

 秋篠寺を一歩でると、秋篠(あきしの)の語感通りに、昔の大和の名残を今に伝える閑寂なたたずまいが、周りには多い。この付近は、陶土と良水に恵まれた土地柄だったようだ。古代から、秋篠氏が有力な土師部(はじべ)として栄えたと伝えられている。今でも寺の西南に「秋篠窯」があり、陶芸家の今西方哉(まさや)氏が翠篁釉(すいこうゆう)を施した美しい焼き物を焼いておられる。


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