用語解説:熊野三山のイロハ

「熊野」の語源 熊野三山 熊野御幸 蟻の熊野詣 熊野古道
熊野九十九王 五体王子 熊野権現 修験道 神仏習合
本地垂迹説 八咫烏 神仏分離令 廃仏毀釈

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「熊野」の語源

 紀伊半島の南部に位置する熊野地方は、黒潮が洗う変化に富んだ海岸線が美しい。加えて、温暖で雨の多い気候は、深い山々に様々な樹木をはぐくんできた。こうした雄大な自然が広がる地域は、神話の昔から様々な神々が住む世界だった。しかし、平城京や平安京に住んだ昔の人々には、紀伊山脈によって都との関係が絶たれた辺境の地に思えた。そこで、この地域を「クマノ」と呼んだ。熊野のクマの語源は、辺境を意味する「隅(くま)」であるとされている。

 また、「クマ」は「カミ」と同じ語で、クマノは「神の野」に通じる地名であるとする説もある。原生林の中にそびえるえる樹齢何百年何千年という巨木、天を突くようにそびえる巨岩、轟音とともに落下する滝など、熊野にはむきだしの自然がある。こうした人知を越えた自然の造形に、古代の人々は畏怖の感情をいだき、自然を崇拝した。熊野三山の原初的な姿は、イチイの巨木やゴトビキ岩という巨岩、および那智の滝を神体として祀っていたという。まことに熊野は神々の住みたまう土地だった。

 温暖と多雨のおかげで、奥深い山々に巨大な樹木が黒々と生い茂る熊野の原生林は、幽暗な雰囲気を醸しだしている。それはあたかも人が死んでから行く冥府のように、古代の人々には思われた。記紀神話では、女神イザナミが赴いた黄泉の国の入り口は熊野にあるとしている。実際、熊野の山々は幽魂が充ち満ちていると感じさせるものがある。そんなところから、昔の人々はここが死者の国であると考え、熊野は隠国(こもりく)、すなわち祖霊がこもっている根の国とも見なした。


熊野三山(くまのさんざん)

 紀伊半島南部の熊野にある本宮(ほんぐう)・新宮(しんぐう)・那智(なち)の3つの聖地をまとめて総称する場合、熊野三山という。

熊野本宮大社
本宮=熊野本宮大社
熊野速玉大社
新宮=熊野速玉大社
熊野那智大社
那智=熊野那智大社
 本宮は熊野本宮大社のことで、和歌山県東牟婁郡本宮町に鎮座し、主神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ。家都御子大神ともいう)である。新宮は熊野速玉大社のことで、和歌山県新宮市に鎮座し、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、熊野結大神ともいう)を主神として祀っている。那智は熊野那智大社のことで、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町に鎮座し、主神は熊野夫須美大神である。

 熊野本宮大社は、樹木崇拝に起源し、熊野早玉大社は巨石崇拝に起源し、熊野那智大社は滝崇拝に起源している。

 熊野三山のそれぞれの社地は、当初からのものではない。本宮はもともとは熊野川・音無川・岩田川の三つの川の合流点にある中洲に鎮座していた。明治22年(1889年)の大水害により被害を受けて近くの高台に遷座し、現在に到っている。新宮は当初1〜2kmほど南に位置する神倉山(かみくらやま)のゴトビキ岩をご神体として斎き祀っていたが、景行天皇の時代に現在地に神々を遷座したという。那智は現在、那智山中腹の高台にあるが、古くは那智の滝の滝つぼ付近にあり、仁徳天皇5年に現在地に遷座されたとの説がある。



熊野御幸(くまのごこう)

 「御幸(ごこう)」とは上皇や女院が外出することをいう(天皇の場合は「行幸(ぎょうこう)」、三后や東宮の場合は「行啓(ぎょうけい)」)。したがって、熊野御幸とは上皇や女院が熊野へ参詣することをいう。最初に熊野御幸を行ったのは10世紀初頭の宇多上皇であり、10世紀末には花山上皇も行ったが、この時期の熊野への参詣はまれだった。

 熊野が広くその名を知られるようになるのは、院政の時代になってからで、初代の白河上皇が最初の御幸を行った寛治4年(1090)から4代の後鳥羽上皇までの約100年間に100回近い御幸が行われ、院政期には、上皇の熊野御幸はほぼ年中行事と化した(白河上皇9回、鳥羽上皇21回、後白河上皇34回、鎌倉時代に入って、御鳥羽上皇が28回の熊野御幸が記録されている)。

 熊野参詣コースは東国からは伊勢路、西国からは紀伊路を用いたようで、平安京からは紀伊路だった。その道程は、第一王子の窪津王子(大阪市天満橋付近)を起点に、天王寺と住吉大社を参拝しながら南下し、紀伊田辺から東へ進んで山中に入り、熊野本宮に至る中辺路(なかへち)を進んだ。田辺から、そのまま海岸沿いに南下し、那智や熊野新宮に至る大辺路(おおへち)もあった。道沿いに多数の王子社(熊野三社の末社)が点在していて、そこに詣でながら進んだ。



蟻の熊野詣

熊野にある本宮(ほんぐう)・新宮(しんぐう)・那智(なち)の熊野三山を参詣することを、熊野詣(くまのもうで)という。院政時代、上皇の度重なる熊野御幸をきっかけとして、熊野の名は全国に知れ渡るようになった。その後、 皇室から武士さらには庶民へと熊野信仰が広がり、平安時代末から鎌倉時代にかけて上下貴賤男女を問わず大勢の人々が列をなして熊野に詣でた。

 人々は行きながら浄土に生まれ変わることを目指して熊野三山を目指した。その参詣者の列が、まるで蟻が餌と巣の間を行列を作って行き来する様に見えた。そのため「蟻の熊野詣」とたとえられるようになった。熊野詣がこれほどの隆盛を見たのは、熊野権現が、身分を問わず、また性別を問わず誰でも受け入れてくれる神々だったことによる。



熊野古道

 熊野古道とは、熊野と各地を結ぶ熊野詣の道の総称で、「熊野街道」とも呼ばれた。主なものに、大阪と熊野を結ぶ紀伊路(きいじ、紀路(きじ)ともいう)と伊勢と熊野を結ぶ伊勢路(いせじ)の二つの道が古くからよく知られていた。その他に、高野山から南下して伯母子岳や果無(はてなし)山脈を越えて本宮に至る小辺路(こへち)や吉野から大峰山脈を縦走する行者道を行く大峰奥駈け道もあった。

熊野三山と熊野古道
熊野三山と熊野古道
 紀伊路は、熊野の玄関口・田辺で海岸をたどる大辺路(おおへち)と、山中を東に分け入る中辺路(なかへち)の二手に別れる。平安時代の末から、上皇・女院・貴族、あるいは武士たちが熊野を詣でるのに紀伊路うちの中辺路を利用するようになり、中辺路が熊野詣の公式ルートとなった。

 京都を出発した上皇や貴族たちは、船に乗って淀川を下り、現在の大阪市天満橋の辺りで上陸した。そこが熊野古道紀伊路の始まりだった。天満橋から海岸筋を通り、熊野の玄関口、口熊野といわれた田辺まで南下し。田辺からは中辺路の山中の道を本宮へ向かう。本宮からは熊野川を船で下り、熊野川河口にある新宮に詣る。新宮からは再び徒歩で海岸線沿いを辿り、それから那智川に沿って那智に登っていく。

 那智からの帰途は、再び新宮を経、熊野川を遡行するか、あるいは那智の背後にそびえる妙法山に登り、雲の中をくぐるような大雲取越え・小雲取越えの険路を越えるかして本宮に戻り、再び中辺路を通って都に帰っていく。これが紀路・中辺路ルートである。



熊野九十九王子

 熊野詣のルート、特に紀路・中辺路の道筋には、熊野権現の分身として出現した御子神を祭った「王子(おうじ)」と呼ばれる神祠が、あちこちに祀られていた。御子神を王子と呼んだのは、修験道の影響によるようだ。修験道では、峰中などで修行者を守護する神仏は童子の形をしている。王子はこれらと類似した神仏と考えられた。最初の王子「窪津王子」は、紀伊路の出発点となる淀川河口付近、現在の大阪市天満橋の辺りにあった。そこから熊野三山に至るまでの片道300kmに及ぶ紀路・中辺路の道中に多くの王子が祀られていた。これらの王子をまとめて「熊野九十九王子」と呼んでいるが、九十九は実数ではなく、数が多いことを表している。



五体王子

 九十九王子の中で、とくに格式が高いとして崇敬されてきた藤白王子(海南市)、切目王子(南部町)、稲葉根王子(上富田町)、滝尻王子(中辺路町)、発心門王子(本宮町)の5つを、「五体王子」という。



熊野権現

 熊野三山は本地垂迹説を受け入れたことで、霊験あらたかな「熊野権現」が生まれた。「権現」とは、権現とは、仏・菩薩が神に形を変えて現れることであり、時にはその神そのものを指すこともある。本地垂迹説では、本宮の主神の家都美御子神は阿弥陀如来、新宮の速玉神は薬師如来、那智の牟須美神は千手観音をそれぞれ本地とみなした。「三所権現」とは、熊野三山のこうした主神のことである。

 家津美御子神は来世での往生を約束してくれる阿弥陀如来であり、速玉神は衆生の苦しみや病を癒す薬師如来であり、牟須美神は現世でのご加護を約束してくれる千手観音である。その結果、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落(ふだらく)浄土の地であり、熊野全体が浄土の地とみなされるようになった。

 そして、本宮極楽浄土が来世の救済を、新宮浄瑠璃浄土が過去世の罪悪の除去を、那智補陀落浄土が現世の利益を受け持つという三位一体の信仰システムが形作られた。特に阿弥陀如来を本地とし、阿弥陀の極楽浄土と見なされた本宮の社殿は「証誠殿(しょうせいでん、念仏者の極楽往生を証明する社殿の意)」と呼ばれ、そこに参詣すれば浄土への往生が確実になるとされた。

 しかも、熊野三山は、それぞれの主神を合わせ祀ったために、その霊験は格段に高まった。熊野三山に参詣すれば、過去の罪悪は解消され、現世のご利益も来世の極楽往生もすべて約束される。これほど有り難い信仰は他にない。こうして熊野三山は上皇から庶民まで幅広い層の人々から信仰の聖地として圧倒的な支持を得ることになった。

 後に、天照大神などを迎えて全部で12の神を祭るようになり、三所権現は「熊野十二所権現」と呼ばれるようになる。



修験道

 日本古来の山岳信仰に、神道や外来思想の仏教・道教などを取り入れたもので、日本各地の霊山を修行の場として、過酷な苦行を行い、超人的な験力をたくわえて衆生の救済を目指す実践的な宗教をいう。熊野から吉野にいたる大峰山系は、修験道の開祖と仰がれる役行者(えんのぎょうじゃ、役小角)が開いた修行の場であり、数多くある霊山の中心とされている。修験の語源は「修行して迷いを除き、験徳をあらわす」ことから来ている。修験者は山に伏して修行するところから「山伏」とも呼ばれる。

 修験道の祖とされる役行者は、7世紀末から8世紀初め頃実在した呪術師である。葛城(かつらぎ)山にすんで呪力を身につけ、鬼神を自由に使って水をくませたり薪をとらせたりした。もしも命令を聞かなければ、呪力によって鬼神をしばりつけて身体の自由をうばったという。文武天皇3年(699)に、妖術をつかって民衆をまどわしていると、弟子の韓国広足(からくにのひろたり)から訴えられたため、伊豆に流刑となった。



神仏習合(しんぶつしゅうごう)

 今日では、神様は神社、仏様は寺院と、はっきり区別されている。だが、明治政府が明治元年(1868)に神仏分離令(しんぶつぶんりれい)を公布し、神社の中から仏教的色彩を排除するまでは、神社と寺院の区別が必ずしも明確でないことが多かった。

 神仏習合は、日本固有の神祇信仰と仏教が混ざり合い、独特の行法・儀礼・教義を生み出した宗教現象である。だが、異なった文化同士が交流するこうした現象は一般的なことで、中国でも仏教と道教が習合して、寺院に神がまつられ、道観に仏が祭られた。我が国でも、6世紀に伝来された仏教が国内に普及していく過程で、次第に神道との融和をはかるようになり、また、神道の側でも仏教との融和をはかるようになった。

 神と仏を同体と見て一緒に祀る信仰行為が奈良時代から始まっている。その端緒をなすのが、神宮寺の出現である。霊亀年間(715 - 717)の越前国気比神宮寺や、養老年間(717 - 724)の若狭国若狭彦神宮寺の建立は、その先駆けとされている。仏教の菩薩号を神名につけて八幡大菩薩と唱えて、神仏の融合調和をはかることも行われた。

 神仏習合という宗教行為を理論づけしたのが、「本地垂迹説」である。本地垂迹説では、仏や菩薩がもともとの本体であり、人々を救うために仮に神の姿をとって現われたのだと説いた。すなわち、本体である仏や菩薩を”本地”といい、仮に神となって現われることを”垂迹”という。ちなみに「権現」とは、仏や菩薩が仮(権)に神の形で現れたものという意味である。

 その後、千年以上のもの長い間神祇と仏教との複雑な混淆・折衷が続けられてきた結果、神仏両宗教と日本の歴史的風土に最も適合した形へと変化して、独自の習合文化を生み出した。しかし、明治元年に神仏分離令が出されて神社付属の社僧は復飾させられ、宮寺制は解体して習合体制は終わりをつげた。



本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)

 神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)という信仰行為を、理論付けし、整合性を持たせた思想で、仏や菩薩がもともとの本体であり、人々を救うために仮に神の姿をとって現われたとする考え方をいう。本地垂迹説では、本体である仏や菩薩を本地といい、仮に神となって現われることを垂迹という。「権現」とは、仏や菩薩が仮(権)に神の形で現れたものを指す。

 6世紀に伝来された仏教は、日本国内に普及していく過程のなかで、次第に神道との融和をはかるようになり、また、神道の側でも仏教との融和をはかるようになった。そうした流れのなかで、神の本体は仏であるという考え方が生まれた。  簡単に云えば、本地垂迹説は、日本各地に祭られている神々とは、仏教の仏たちが仮の姿で現われたものと説いているが、これを神社側の視点に立って説明すれば、神々はそのままでは俗世に姿を現すことができないので、仮に仏の姿に変えて現れ、衆生の苦しみや病を癒してくれるのだという。こうした説は平安中期ごろから流布しはじめ、中世には概ね日本人の感覚として定着していった。

 熊野では、神仏が習合するのも早く、12世紀前半には、三所権現の本地仏を、本宮は阿弥陀仏、新宮は薬師如来、那智は千手観音とし、家津御子(けつみこ)神、速玉(はやたま)神、夫須美(結)神は、本地がそれぞれ仮の姿をとって現れたものと考えるようになった。


【注】  熊野三山の略縁起では、それぞれの主神を記紀神話と結びつけて、家津御子神をスサノオノミコト、速玉神をイザナギノミコト、夫須美神をイザナミノミコトの別名であるとしている。しかし、こうした同定は江戸時代の終わり頃出てきた新しい説で、古来からのものではない。



八咫烏(やたがらす))

三本足の八咫烏
三本足の八咫烏
熊野牛王宝印
熊野牛王宝印
 三本足の八咫烏は、熊野神の使いで、太陽の化身とされている。熊野では、カラスのことを「権現ガラス」とか「烏牛王」と親しみをこめて呼んでいる。熊野本宮大社では、1月7日に太陽の蘇りを表す「八咫烏神事」が行われる。

 『日本書紀』は、初代の神武天皇が熊野から大和国に攻め入ったとき、熊野山中で道に迷われたが、そのとき天照大神の使いとして道案内をしたのが、八咫烏だったと記す。八咫烏の先導を得た天皇は、険しい山を越えて大和軍の背後を襲い、大和を平定すると橿原に宮殿を築いたとされる。その後、神武天皇の道案内をした八咫烏は、石に姿を変えたと伝えられている。熊野那智大社の社殿前には八咫烏像がある。

 神武天皇東遷の時、烏に化けて天皇を熊野から大和へ道案内したのは、実は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)だった。大和を平定した後の論功行賞で、神武天皇はその功に対して厚く報償したという。そのときから賀茂建角身命を八咫烏(やたがらす)と称するようになった。『日本書紀』では、八咫烏の子孫が山城国の葛野に住む鴨県主(かものあがたぬし)であるとしている。

 熊野三山の護符は、図案化された八咫烏が厚手の和紙に墨色で刷られていて、「熊野牛王宝印(くまのごおうほういん)」と呼ばれている。牛王宝印は霊験あらたかなお守りで、あらゆる災いを除き病を平癒する護符と崇められている。その他に、裏に誓いの言葉を書いて虚偽のないことを誓う起請文としても使われてきた(源義経が兄頼朝に対する忠誠を牛王宝印に託した、あるいは秀吉が臨終の床で秀頼に対する忠誠を牛王宝印を使って約束させたという)。

 古典落語「三枚起請」では、吉原の遊女が「年季があけたら、あなたのところに行きます」という誓約書を牛王宝印の裏に書いて3人の好きな男に送った話を題材にしている。



神仏分離令(しんぶつぶんりれい)

 江戸時代に檀家制度・寺請制度をもとに幕藩権力の一翼を担っていた仏教寺院に代わって,国家公認の宗教として神道を置き,神社を“国家ノ宗祀”としての体裁を整えるため、明治政府によって出された一連の法令のこと。明治政府は、そのよりどころを天皇の存在に求めた。そして、天皇は日本国を造った天照大神の子孫であり、神を祀ることは、神につらなる天皇を敬うこととと同じく重要なことと考えた。神の子孫である天皇の存在と外来の仏の存在とが渾然一体となった状況は、そのまま放置しておくわけにはいかなかった。

 そこで、慶応4年(1868)の3月、明治政府は神仏混淆を禁止し、寺院と神社を分離するように命じる神仏判然令を出した。この通達は、復古神道の影響下で天皇の神聖化を目的としたもので、手始めにまずお寺と神社を明確に分離し、中世以来の神仏習合の状態を改める意図で出されたものである。具体的には、神主を兼任していた僧侶に対して還俗を命じ、仏像を以って神体とすることを禁じ、神仏混淆的な神号・神体を一掃することを命じた。その後も、菩薩号などの仏教的神号の禁止、神主は仏教に係わらないことなど、次々に通達が出された。

 しかし、政府の意図を越えて神仏分離令は破壊的な広がりを見せ、全国的な廃仏毀釈運動を起こした。江戸時代に大きな顔をしてきた僧侶たちに反感を覚えていた民衆の多くが、神仏判然令を「寺を廃し仏像は破壊せよ」と拡大解釈して、寺を襲撃する事態が全国各地で起きた。その結果、この時期に多くの寺が壊され、ずいぶん多くの貴重な仏像が、破壊されたり、海外に流出した。



廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

 明治維新政府は王政復古、祭政一致を目標とし、神社を国家統合のための機関にしようと意図した。そのためには、伝統的な神仏習合の信仰形態を一掃し,国家神道としての体裁を整える必要があり、慶応4年(1868)の3月、明治政府は神仏混淆を禁止し、寺院と神社を分離するように命じる神仏判然令を出した。その結果、寺院や仏像、仏具などの破壊活動が全国的におこなわれた。こうした破壊活動を廃仏毀釈という。

 江戸時代に檀家制度により威勢をふるっていた仏教に対して、民衆は強い反感を抱いていた。彼らはまた、地位の低い神官や僧侶から収奪されつづけていた。そうした背景があって、民衆は、神仏判然令を「寺を廃し仏像は破壊せよ」と拡大解釈し、徹底的な廃仏毀釈運動を展開した。破壊活動のあまりの激しさに、明治政府はこの運動の行き過ぎを禁止する通達を出さねばならないほどだった。寺院の破却は明治8年(1876)ごろまでつづき、地域差はあるが、半分近くの寺院が廃絶され、数多くの古文書や文化財が失われた。