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地元の人々は二つの古墳を水泥双墓古墳と呼んでいる。双墓(ならびのはか)という名を聞いて思い出されるのは、日本書紀に示す皇極天皇元年(642年)この年条の記載である。この年、蘇我蝦夷(そがのえみし)は国中の民を発して雙墓を今木に作り蝦夷・入鹿の寿陵としたという。大和志はこの葛上郡今木雙墓に古瀬・水泥古墳を当てているが、残念ながら考古学の知見はこの推定に合わない。 1996年に橿原考古学研究所と御所市教育委員会の発掘調査によって、水泥南古墳は直径約25mの円墳であり、築造は6世紀後葉とされた。南方向に口を開けた横穴式石室を持ち、石室の長さは約15m、玄室の広さは長さ4.6m、幅2.4m、高さ2.6mである。玄室と羨道にはそれぞれ一基ずつ家型石棺が置かれていた。羨道におかれた石棺の蓋には縄掛けの突起があり、それには蓮の花をかたどった蓮華門が掘られていた。このため調査当時は古墳文化と仏教文化の結合の例として注目された。 |