水泥南古墳(みどろみなみこふん)


水泥(みどろ)南古墳 後1時、国道309号線を離れて県道215号線(古瀬小殿線)に入る。水泥古墳は、この県道の吉野口駅方面とは反対方向にある古瀬の集落の中にある。水泥古墳と称する古墳は、実は二基ある。水泥南古墳と水泥北古墳と呼んでいる古墳で、いずれも立派な横穴式石室が掘られている。南古墳は巨勢道に面しているが、北古墳は100mほど北の西尾東治氏の邸宅の中にある。両古墳とも昭和36年(1961)に国史跡に指定された。

元の人々は二つの古墳を水泥双墓古墳と呼んでいる。双墓(ならびのはか)という名を聞いて思い出されるのは、日本書紀に示す皇極天皇元年(642年)この年条の記載である。この年、蘇我蝦夷(そがのえみし)は国中の民を発して雙墓を今木に作り蝦夷・入鹿の寿陵としたという。大和志はこの葛上郡今木雙墓に古瀬・水泥古墳を当てているが、残念ながら考古学の知見はこの推定に合わない。

996年に橿原考古学研究所と御所市教育委員会の発掘調査によって、水泥南古墳は直径約25mの円墳であり、築造は6世紀後葉とされた。南方向に口を開けた横穴式石室を持ち、石室の長さは約15m、玄室の広さは長さ4.6m、幅2.4m、高さ2.6mである。玄室と羨道にはそれぞれ一基ずつ家型石棺が置かれていた。羨道におかれた石棺の蓋には縄掛けの突起があり、それには蓮の花をかたどった蓮華門が掘られていた。このため調査当時は古墳文化と仏教文化の結合の例として注目された。



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