安楽寺(あんらくじ)


前10過ぎ、畝傍御陵前のアパートを出発する。橿原市の久米町で県道133号線(戸毛久米線)に入り、千塚資料館がある川西交差点に出る。さらに曽我川に沿って南下し、JR和歌山線の掖上駅の案内板で巨勢の道を確認したあと、線路に沿ってさらに南に進む。133号線が国道309号線とぶつかり、曽我川を渡ると、そこは近鉄吉野線の葛駅の近くである。たまたま行き会った老人に安楽寺の道を確認したら、寺とは逆方向に進路を取ろうとしていた。309号線を富田林方面に向かえば、道路脇に安楽寺の道標が立っているという。老人の懇切な説明のおかげで、途中で道に迷うこともなく安楽寺に着くことができた。

落内の曲がりくねった道を抜けると、山の登り口の台地に真言宗葛城山安楽寺が建っている。左手には「御霊神社」の扁額を掲げた石の鳥居がそびえていて、本殿への参道が 一直線にのびている。周りを見渡すと民家の屋根がちょうど目線の高さにある。一見したところ何処の谷あいの村落でも見かける檀家寺と鎮守の森といった感じで、辺りをぴり っと引き締まった静寂が漂う。

の縁起によれば、安楽寺の創建は古い。聖徳太子の創建で、後に葛城臣に下賜した寺院であるという。この辺りには「上の門」や「蓮池」、「下の坊」といった寺院に関する 地名が多く、開基当初は大伽藍を擁して葛城古道の東域にその偉容を誇っていたと思われる。しかし、秀吉の検地、江戸中期の大火などで堂宇のほとんどを失ってしまったとのことである。

えてみれば、この辺りは巨勢一族の本拠地である。何故この地に葛城臣に与えたとする伝承を持つ寺院が存在するのかという疑問が生じる。聖徳太子の頃実在したと思われる 人物に、葛城臣烏那羅(または小楢)がいる。587年に蘇我馬子が物部守屋を討った際、馬子側に加担した人物である。その後、崇峻4年(591)に新羅討伐の大将軍の一人として筑紫にも赴いている。また伊予風土記によれば、聖徳太子が伊予の温泉に赴いたとき、恵慈法師とともに太子に随行した葛城臣もこの人物とされている。

と言えば塔が付き物であるが、安楽寺の塔は少し離れた別の谷間にあるという。そこに行くには、いったん集落の中に入り、途中から別の道を登らなければならない。塔というからには誰もが重層の建物を想定するが、石段の上に建っているのは初層だけの奇妙な建物である。したがって、案内板の説明にも「塔」ではなく「安楽寺塔婆」と記してある。建築当時は三重の塔だったが、延宝年間に上部二層を失って初層だけが残った。その零落した最下層に宝形屋根を取り付けたものが現在の姿である。縁と飛檐捶(ひえんすい)は失っているが、その他はほぼ原型をとどめていて、三手先斗きょうを持った本格的な塔婆建築で古風な手法が残されているという



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