壬辰倭乱・丁酉再乱


 韓国では、豊臣秀吉が引き起こした文禄の役と慶長の役を、それぞれ壬辰倭乱および丁酉再乱と呼ん でいる(これら二つの戦乱を壬辰倭乱の名で総称する場合もある)。 博物館のパンフレットによれば、壬辰倭乱・丁酉再乱とは以下のような戦争だった。

 日本軍は総勢20余万の兵力で1592年4月14日朝鮮に上陸し壬辰倭乱を起こした。釜山鎮城と東莱城を陥落させた日本軍は20日余りでソウルを占拠、それからまた二ヶ月ほどで平壌、咸鏡道地域まで至った。宣祖王は義州に避難し明国に救援軍を要請した。 翌年の1593年1月、明国から救援軍が到着し朝鮮軍と協力して平壌城で日本軍を撃退、以後、戦勢は反転し始めた。また、朝鮮各地で義勇軍が立ち上がり日本軍に莫大な打撃を与えたことだけでなく、海では李舜臣の率いる水軍が連勝を続けていた。だんだん窮地に追い込まれた日本軍は、慶尚道の南海の方に後退し、4年間余りの講和会議を行った。

 しかし、豊臣秀吉の無謀な要求で講和会議が決裂し、1597年再び日本軍が侵略し、丁酉再乱が勃発した。日本軍は全羅道をすぎ稷山まで進んだが、朝鮮と明の連合軍に敗れて再び南海に城を築き立てこもった。そのうち、1598年8月豊臣秀吉が死んで名分無く戦争に動員された日本軍の撤収により7年間に渡った戦争は幕を閉じた。

 

壬辰倭乱で日本軍が全羅道に進出するためにはその関門である晋州城を占領しなければならなかった。1592年10月4日、日本軍は晋州城を包囲したが、城には晋州牧使である金時敏を中心に兵士と民衆が決戦態勢を整えていた。晋州城戦闘は7日間続いたが、晋州兵力と場内の民衆の力が勝り、日本軍はこの城を落とすことができなかった。これを第一次晋州城戦闘という。翌1593年6月、日本の7万の大軍は再び晋州城を包囲し攻撃を開始した。第二次晋州城戦闘の始まりである。晋州城の軍・官・民は総力で防戦したが、チョク石楼の方へ追い込まれた3千余名の兵と6万の城民は城の陥落とともに全滅した。しかし、日本軍の損失も莫大であり、全羅道方面への進出は断念せざるを得なかった。

  この壬辰倭乱や前世紀の日韓併合などで、日本と韓国との国民感情は必ずしも友好的ではない。 今年(2001年)も小泉首相の靖国参拝や教科書問題で、韓国人の対日感情が悪化している。韓国人の反応は日本人からみればいささか過剰すぎる気がする。日本は戦後の50年を平和に過ごしてきたのに対し、韓国は朝鮮動乱後も38度線を挟んで緊迫した時期を過ごしてきた。北朝鮮との関係は最近改善されてきているとはいえ、戦時体制の中にあることに変わりはない。しかし、伝統的的な反日感情の根っこの部分には、この博物館で受けた印象があるといえば言い過ぎだろうか。
 
 博物館前の広場には、高校生や小学生の団体が大勢入館を待っていた。おそらく歴史教育の一環として博物館見学が組み込まれているのであろう。そして、こうした社会環境の中で民族意識の高揚が助長され、隣国に対する猜疑心が植え付けられてゆく。ガイドの説明では、韓国人が一番尊敬する人物は、壬辰倭乱で活躍した李舜臣将軍だそうだ。そして、一番嫌いな歴史上の人物が豊臣秀吉であるという。



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