4世紀:三国時代の到来と伽耶諸国の成立紀元306年、中国大陸では反乱軍によって都・洛陽が陥落し、西晋王朝が倒れた。その後、華北の地は五胡と呼ばれる異民族が入れ替わり立ち替わり短命王朝を建て、乱れに乱れた時代へと入っていく。その影響はすぐに朝鮮半島に現れた。漢民族の植民地だった楽浪郡と帯方郡は、後ろ盾を失って孤立無援の状態に陥った。この機を捉えて、高句麗は313年に楽浪郡を、その翌年には帯方郡をそれぞれ占領した。こうして、漢代以来数百年におよぶ中国漢人王朝による朝鮮支配は終わり、朝鮮半島南部の三韓と呼ばれた時代も終止符を打った。
ところが、弁韓と呼ばれていた洛東江流域の諸地域だけは、百済や新羅のような統一国家が形成されずに小国群が残っていた。後世に加耶諸国と総称される国々である。加耶諸国が小国分立の状態だった理由として、山地、丘陵、沼沢が多い地理的条件や、大国に隣接していなかった国際環境などが指摘されている。特に地形的な制約は大きな要因になっていたと考えられる。小さな盆地とか洛東江の支流に形成された平野を単位に、それぞれの小国が存続した。 伽揶に存在した国々加耶諸国の「加耶」は朝鮮半島南部の諸小国の汎称である。古書の中では伽揶(かや)、伽耶(かや)、加羅(から)、加良(から)、駕洛(から)、任那(みまな)などさまざまな別名で表されている。朝鮮語ではヤとラが通用するため、カヤであろうとカラであろうと同じとされている。『三国志』魏志倭人伝に見える狗邪韓国の「狗邪(くや)」もカヤと同じと考えられる。 だが、加耶の用法には広義と狭義の二通りがある。広義の加耶は上記のように朝鮮半島南部にあった諸小国全体を指す。その範囲は時代により変動する。一般には洛東江下流域が中心だが、ときには中流域まで及ぶこともあった。狭義の加耶は、たとえば六加耶などの特定の国を指す。ちなみに、六加耶とは、以下の国々をいう。
その他に、卓淳(とくじゅん、現在の大邱、または昌原地方)、非火(ひか)(または比自■(火+本))(現在の昌寧)、多羅(たら、現在の陝川)、己■(さんずい+文)(こもん、現在の蟠岩・南原)、帯沙(または多沙)(現在の河東)なども加耶の構成国だった。 ところで、古代の我が国では「加耶」を「任那(みまな)」と呼んでいた。一般に言われているように、朝鮮半島南部の諸小国の汎称ではなく、本来は朝鮮や中国の史料が示すように、金官の国名の別称である。「任那」という表記は、我が国の史書独自のものではない。「広開土王碑」には、永楽10年(400)、新羅に進軍した高句麗軍が、王都の倭軍を追い払い「任那加羅」まで追撃したと記す。「真鏡大師宝月凌空塔碑」には、「大師の先祖は任那の王族・・・」とあり、任那は金官を指している。この碑は924年に慶尚南道の昌原の鳳林寺に建てられたもので、現在はソウルの景福宮内にある。『三国史記』の強首(きょうしゅ)伝にも「任那加良人」という表現が出てくる。その他に、倭の五王が要求した都督諸軍事の称号の中に「任那」が見えることは、よく知られている。 現在の金海市近辺は金官伽耶の故地である。その遺跡としては、金海大成洞(キメテソンドン)遺跡、金海良洞里(キメヤンドンニ)遺跡、東莱福泉洞(トンネポクチョンドン)遺跡などが知られている。これらの遺跡の発掘調査の成果として、狗邪韓国が金官伽耶になった時期、すなわち三韓時代から三国時代への画期が、3世紀中葉から末頃だったことが考古学的に明らかになった。 三韓時代から三国時代への画期の証しこの画期を如実に示しているのが、金海地方の墓制の変化であり、墓から出土する陶質土器と特定鉄器である。 弁韓すなわち狗邪韓国の時代に行われていた木棺墓(もっかんぼ)が、金官伽耶の時代になると木槨墓(もっかくぼ)に変わってくる。木棺墓時代は、支配者の墓も一般大衆の墓も、大きさはほぼ同じで、いずれの墓も墓域が区別されておらず、平地に互いに混在していた。せいぜい支配者と被支配者の副葬品に質の格差が認められた程度である。 だが、木槨墓の段階になると、墓域は平地から丘陵に移り、支配者層の墓は最も立地条件のよい丘陵の稜線部に築造されるようになる。これに対し、被支配者層の墓は丘陵の斜面にバラバラに築かれていて、墓域が明確に分離されるようになった。さらに、支配者層の墓は被支配者層のそれとは比べものにならないほど大型化し、副葬品埋納の専用施設を持つ墓まで登場してくる。 一方、木槨墓からは騎乗用の甲冑、馬具類、各種の鉄製武器類が大量に普遍的に埋葬されるようになった。また、木槨墓からは殉葬の風習も確認されていて、この時代には比較的大規模な征服戦争が行われたことを想像させる。金海大成洞遺跡は狗邪韓国の都だったところで、共同墓地に隣接して環濠集落があった。だが、木槨墓が登場してくると、丘陵全体が共同墓地となり、環濠集落は大成洞遺跡から600〜700mほど離れた鳳凰台と呼ばれるかなり高い丘陵に移っている。すなわち、集落と共同墓地が区分され、環濠集落が高地性集落に変わっていった。
陶質土器は三韓時代の瓦質土器文化の基盤の上に、中国の磁器窯法、すなわち登り窯という新しい窯法を受け入れて朝鮮半島南部で作りだされた特有の土器である。その発生地域は、金官伽耶を含む嶺南南部地域であった可能性が非常に高いとされ、ここで発生した陶質土器文化は新羅や百済に広まり、さらに5世紀前半には我が国にも伝えられ、須恵器として出現するようになる。5世紀中葉に百済から陶工が渡来する前に、加耶系陶工が渡来し、技術伝搬が行われたと推察される。 鉄は、現代生活の中の石油のようなものである。当時の生活、あるいは国家成立の上で、鉄は非常に重要な要素を占めていた。鉄器文化は、加耶を代表する文化であり、その最も代表的なものが、鉄素材である鉄ていである。上で述べたように加耶地域での鉄生産の始まりは紀元前1世紀とされていて、鉄ていの先行形態である板状鉄斧が、木棺墓からも見つかっている。3世紀中葉以降の木槨墓では、大型の板状鉄斧や鉄ていが大量に埋納されるようになり、4世紀中葉には板状鉄斧から鉄ていに完全に移り変わったとされている。 こうした鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとする加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。たとえば、金海大成洞遺跡からは4世紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっていたことを伺わせ、政治的・軍事的色彩の濃い政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。 日本の考古学会では、弥生時代の中期から後期にかけての鉄剣や鉄矛はほとんど朝鮮半島からの舶載品だろうと見なしている。弥生時代の後期、すなわち紀元1世紀以降になると鉄器を作る鍛造の技術が発達して、農具や工具を作り出せるようになる。しかし、鉄を精錬する技術はまだ未発達で、鉄または鉄素材は弁韓地方と倭との交易によって入手していたとされている。 加耶地域で出土する日本系遺物
さらに興味深いのは、金海大成洞遺跡からの日本系出土品は近畿地方のそれと深く関わっているのに対して、金海良洞里遺跡から出土するものは北九州を中心とする弥生後期のものである。つまり、両遺跡からの出土品には違いがある。このことは、狗邪韓国時代は倭との交渉は北九州が相手だったのに比べ、金官伽耶の時代になると対象地域が畿内に変わったことを明確に示している。
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5世紀: 高句麗の南下と加耶諸国の中心勢力の交代広開土王の顕彰碑によれば、399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通したため、広開土王は百済を討つため平譲まで進軍してきた。ちょうどそのとき新羅から使者が来て、「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としてしまった。どうか高句麗王の救援をお願いしたい」と申し出た。そこで、広開土王は新羅救援軍として5万の大軍を新羅へ派遣したという。4世紀末の400年のことである。
顕彰碑の碑文の性格を考えれば、国境に満ちていたとする倭軍の規模や派遣された5万の高句麗軍の記事などは、割り引いて考えなければならない。だが、一定の史実を背景とした記述であろうとされている。この頃の加耶諸国は、侵入してきた高句麗軍を反撃するほどの強力な軍事力と緊密な協力関係があったことが分かる。 だが、5世紀の前葉になると、金官加耶の丘陵の稜線に築かれてきた王墓が急に中断され、その後はこれらの王墓が破壊されその上に小型墳が造られるという現象が生じている。これは加耶地域の中で金官伽耶があった金海地域だけに見られる特別な現象である。他の加耶地域では5世紀中葉から、支配者の墓として竪穴式石室をもつ壮大な円墳が築かれるようになるのとは、極めて対象的である。このことがどのような歴史的事実をはらんでいるのかは、非常に興味深い。 高句麗の攻勢と勝利、倭と結んだ金官加耶の敗北、大成洞古墳群の5世紀前葉からの衰退とは、何らかの関係があると思われる。高句麗の武力を伴う脅威は新羅を越えて加耶に及んだ。こうした高句麗や新羅の外圧に対して、3つの可能性が指摘されている。金海加耶の支配者集団が解体し、他の政治集団に吸収された、加耶の北の方の大加耶あるいは伴跛(はひ)へ移住した、または倭へ移住した、の3つである。 加耶諸国の発展段階は4世紀から5世紀前半段階と、5世紀後半から滅亡する562年に至る6世紀前半の段階に大きく分けることができる。洛東江の流域に割拠する加耶の諸国が成立するのは、5世紀の前半を中心とする時期だろうと想定されている。5世紀後半になると新羅勢力が西の方へ進んでくる。その影響で倭国と最も緊密な関係にあった金官加耶などが衰退し、代わって北の大加耶(伴跛国・はへ・慶尚北道高霊)が有力となる。470年代には、この大加耶を盟主に、加耶北部から西部にかけての諸国が連盟を結成する。この大加耶連盟は、はやくから倭国と友好関係にあった金官・安羅・卓淳などの加耶南部諸国とは一線を画し、別個の政治勢力を構成していた。479年に大加耶国王の荷知(かち)が南朝の斉に初めて朝貢し、柵封されている。 加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。五世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加耶との交流が始まった。須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。しかし、五世紀後半になると、おおむね高霊を中心とした大加耶圏に求められるようになると言う。 この時期、加耶諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは、ヤマト朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。 |
6世紀: 加耶諸国の滅亡5世紀末になると、武力をともなった百済の勢力が加耶諸国に侵入してきた。加耶諸国は新羅やヤマト朝廷などに仲介を求めてきた。一方、百済はヤマト朝廷に五経博士などを送ってきて、加耶諸国西部の領有を国際的に認めさせようとした。 『日本書紀』によれば、512年、百済は任那にある四つの県の割譲を倭国に要求してきたという。この地域は百済と国境に接する半島南部の西海岸沿いの地域である。物部氏の頭領だった物部麁鹿火(もののべのあらかい)はこの任那割譲に反対したが、継体天皇擁立を推進した大伴金村(おおとものかなむら)は「百済が要求する地域は倭国にとってあまりに遠方すぎ、影響を及ぼすのは困難である。しかし百済にとっては地続きの好地だから、ここで百済に好餌を与えておけば、先々の両国関係を良好に維持することにも繋がる」と主張し、権力にものを言わせて四県を百済に割譲してしまったとされている。 この処置は他の加耶諸国に大きな衝撃を与え、倭国に対する不信感が一挙に高まり、加耶諸国は高霊加耶を中心に、新羅と同盟を結んだ。新羅はこれを契機に積極的に勢力を拡大して、525年には、洛東江中流域を沙伐州(さばつしゅう)として軍政を敷き百済と対立するようになった。こうして、百済と新羅に夾まれた加耶諸国は両国の草刈り場の様相を呈してきた。新羅、百済の勢力が強まるにつれ、金海の金官加耶をはじめとする南部地域が弱まり、加耶諸国は自衛のために高霊の大加耶を中心とする連盟を作ってこれに対抗した。 連盟体制下では、加耶諸国の支配者層の代表が集まって外交・軍事の実務を協議した。しかし各国の利害が対立し、親百済派と親新羅派が生じて連盟体制内部に混乱が生じた。その混乱を巧みに利用して新羅が勢力を広げ、532年には金海加耶などを、562年には高霊加耶を中心とする残余の勢力を併合してしまった。しかし、新羅は併合した諸国を直接支配するのではなく、支配者の一部を留めて旧制度による支配を認め、大半の支配者層は王都に移住させて、新羅の支配者層に組み入れるという方策をとった。 |