李舜臣(イ・スンシン)将軍


李舜臣の経歴

李舜臣の銅像
李舜臣の銅像
李舜臣(1545 - 1598)は、李氏朝鮮中期に活躍した漢城(現、ソウル)出身の水軍の将である。文禄・慶長の乱で、豊臣秀吉率いる日本軍を相手に活躍した救国の名将軍として、韓国では国民的英雄である。

■1576年、武科に合格して軍人となると、女真族との戦いなどで活躍する。

■1591年、全羅左道水軍節度使に昇進する。

■1592年、文禄の役(壬辰の倭乱)では、水軍を率いて加藤清正、九鬼嘉隆ら豊臣秀吉による日本の侵攻軍を海上で破る。これにより、日本軍の補給路を断ち、全羅道より西への進出を防いで戦局転換に大きな役割を果たした。日本軍の撤退後、軍功によって忠清・全羅・慶尚三道水軍統制使に任命された。しかし、敵の謀略戦術で慶尚右道水軍節度使の元均らに中傷されて失脚する。

■1597年、慶長の役(丁酉の倭乱)では一兵卒として従軍する。元均が巨済島の海戦で敗死すると、再度水軍統制使を命じられ、9月15日、鳴梁海峡で日本水軍を撃破する。

■1598年12月、麗水沖の戦いで、島津義弘らの軍に勝利する。しかし、撤退する日本軍を追撃中に、流れ弾に当たって戦死。このとき、自分の死を隠して戦いを続行するよう、部下に遺言したと伝えられている。

■死後、忠武公の名を贈られた。護国の英雄「李舜臣」を称える銅像は韓国の何処にでもある。



鳴梁(ミョンラン)の大勝利

梁海峡は、李舜臣将軍の3大海戦中の一つである鳴梁大捷を得た場所として知られている。1597年9月15日、李舜臣は船12隻を率いて豊臣水軍と対峙し、鳴梁海峡の地形と早い流速を利用した戦術で130隻を撃破した。

舜臣は、戦略によって日本水軍の船を右水営に誘い込んだ。穏やかだった潮が突然引潮に変わった瞬間、日本水軍の船は潮流に押されて自然と海に押し出された。鳴梁海峡の地形を知らず突き進んできた日本水軍は右往左往し、先を争って狭い鳴梁海峡を通過して逃げようとした。李舜臣は予め海に仕掛けておいた鎖を引き上げて退路を遮断した。そして混乱する日本水軍に総攻撃をかけ130余りの船を沈めたという。

の勝利によって朝鮮水軍はいったんは奪われた韓半島沖の制海権を再び奪い返した。豊臣軍はこの敗戦で補給難の状態に陥った。そこに太閤病死の報が届き、ついに撤退を余儀なくされた。



竜頭の亀甲船(コブッソン)

亀甲船
亀甲船
に補給路を頼る日本軍に対して、その水軍を次々と撃破して制海権を握り、豊臣秀吉の朝鮮征伐の夢を打ち砕いたのは、李舜臣将軍の率いる水軍が用いた亀甲船(コブッソン)だったと言われている。では、亀甲船とはどのような軍船だったのだろうか。

舜臣将軍と共に海戦に参加した甥の李芬が残した「李舜臣行録」によれば、亀甲船の大きさは、当時の主力戦艦である板屋船とほぼ同様だった。ただし、甲板を上板で覆い、その上板全体にナイフの歯を上向けにした様な刃が林立してあった。そのため、足の踏場が無いので、敵が乗り移ることはできなかった。前方には竜頭を作り、その口の下に銃口があった。銃口は竜尾にもあり、さらに左右にもそれぞれ6個の銃口があった。このため、船の形が亀に似ており、亀甲船と名付けられた。

闘のときは、草のむしろなどを上板の刀の上にかぶせてカモフラージュした。それとも知らずに敵兵が飛び込んで来ると、刀に刺さって死んだ。敵船が亀甲船を包囲した場合は、前後左右の銃口からいっせいに砲火を浴びせることができた。亀甲船の形は細長い流線形で、速い速度が得られるようになっており、また安定度が高く、上部を装甲で覆っており、弓矢や鉄砲による攻撃を一切受け付けなかったという。

甲船は李舜臣の創意によるものではなかった。李朝初期の太祖の時代、倭寇対策のために亀甲船を建造して臨津江に浮かべたことがあったという。だが当時のものは、あまり実戦向きではなかったのと、費用が嵩んだために、次第に忘れられてしまった。李舜臣は亀甲船の必要性を説き、船の改良を重ねて、それを利用した。亀甲船の船団を率いて、緒戦から4ヶ月間に300隻余りの日本水軍の艦船を葬り去って、戦局を転換させる重要な役割を果たした。



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