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| 全国第4位の墳丘規模をもつ造山古墳 (H17/10/01撮影) |
造山古墳
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見 学 メ モ
【所在地】岡山市新庄下 |
前方後円墳とは、江戸時代後期の儒学者・font color=red>蒲生君平が名付けた名称だが、名称の是非はともかくとして、我が国の古墳を代表する独特の形をしている。古墳時代の成立は、実にこの前方後円墳の出現によって特徴づけられている。当時の大王をはじめ各地の首長は己の奥津城に主としてこの墳形を採用した。
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| 造山古墳全景 |
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| 造山古墳の墳丘 |
日本最大の前方後円墳は大阪府堺市の大山古墳(仁徳天皇陵、全長486m)であることは、よく知られている。その他にも、大阪府羽曳野市の誉田山古墳(応神天皇陵、全長420m)、大阪府堺市の石津ヶ丘古墳(履中天皇陵、全長362m)、奈良県桜井市の箸墓古墳(276m)、奈良県橿原市の見瀬丸山古墳(310m)など、200m以上のクラスの古墳の多くは奈良盆地と河内平野に集中して築造されている。そんな中にあって、岡山県岡山市の造山古墳(360m)や岡山県総社市の作山古墳(286m)は、特異な例外である。
造山古墳の築造時期は5世紀の初め頃、人によっては5世紀の前半と推定されている。この時期、河内平野では、皇統譜にしたがって応神・仁徳・履中の各天皇陵に比定されている古墳がこの順に築造されたとされている。だが、考古学的には現・履中天皇陵(石津ヶ丘古墳)は父の仁徳天皇陵(大仙古墳)より古く、5世紀前半頃の築造とされと見なされている。つまり、現在の天皇陵比定は誤りということになる。
とすると、5世紀の前半には、河内と吉備に同等規模の古墳を築造した首長が存在したことになる。石津ヶ丘古墳も造山古墳も、その全長だけをとって比較すればほとんど変わらない。もう一つ、面白い対比が目立つ。大仙古墳の築造は5世紀中頃と考えられ、河内平野では、石津ヶ丘古墳→大仙古墳と時代が下るにつれて墳丘の規模は巨大化している。吉備においては、作山古墳は造山古墳から1世代または2世代後の5世紀後半の墓とされているが、墳丘の規模は造山古墳→作山古墳と時代がさがるにつれて小さくなっている。
こうした対比や変更が何を物語るかは興味あるテーマである。いずれにせよ、同時代にヤマト王権に匹敵する、あるいは対抗できる巨大な権力がこの地に存在したことは事実であろう。そのモニュメントが、”古墳である”と注意されなければ、普通の小山として見過ごしてしまいそうな造山古墳である。
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| 造山古墳の登り口 |
高さ27mの前方部の頂上に荒神社があり、その社の前には石を刳りぬいた石棺の身が置かれている。畿内的な組み合せ式の長持形石棺に似せているが、材質は九州阿蘇山系の凝灰岩で、形態も九州系の石棺に似ているという。形態的には畿内の石棺を意識しながら、吉備と九州の関係の強さを示しているようで、興味深い。蓋の部分は壊れてしまったようだが、その一部が荒神社の裏手にある。
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| 荒神社の前に置かれた石棺の身 |
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| うち捨てられている蓋の一部 |
造山古墳は、まだ学術的な発掘調査が実施されていない。それでも様々なことが分かっている。例えば、低丘陵を切断し土盛や削平などを施して墳形を整えている。墳丘は三段築成で、くびれ部両側に台形の造り出しを設けている。また、墳丘表面には葺き石がふかれ、各段には円筒埴輪がめぐらされている。このほか、楯・靭・蓋・家などの形象埴輪の破片も見つかっている。大正10年(1921)、周辺の陪塚(1−6号墳)とともに国指定史跡となった。
被葬者は、当地域の首長であったと同時に、吉備全域をも統括していた大首長の地位にあったと考えられている。また、造山古墳に次ぐ作山古墳(総社市)、両宮山古墳(山陽町)などの巨大古墳の存在は、吉備が畿内の勢力と肩を並べるほどに強大であったことを示唆している。
この古墳の巨大さは、実際に墳丘上を歩いてみないと分からない。後方部からゆっくりと下っていき、しばらく植林された平坦な部分が続く。だが、後円部の頂上に立つにはかなり急な坂を登らなければならない。後円部の頂上は以外と平坦な原っぱになっていた。豊臣秀吉の毛利攻めの際、毛利方が陣地を築くために頂上を平らにしたためだという。そのとき後円部の周囲に土塁を築き、さらに郭(くるわ)を2カ所と竪堀(たてぼり)を3カ所設けている。
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| 造山古墳の後円部 |
榊山古墳
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| 榊山古墳の後円部 |
造山古墳の前方部の南北方向に、稲穂が色づいた水田が続いている。この水田は造山古墳の周濠の跡と推定されている。その水田の向こう側が幾分小高くなっていて、北側に竹藪が茂っている。そのあたりが榊山古墳の後円部で、前方部は造山古墳と同じ方向に位置している。
造山第2号古墳
平成9年(1997)に、造山古墳群を巡る遊歩道を建設するため発掘調査が行われた。すると、この古墳の南辺、または南側の丘陵斜面に平行に、およそ100本ほどの円筒埴輪と盾型埴輪の列が約35mの範囲にわたって一列に並べられているのが発見された。埴輪の特徴から5世紀後半と考えられ,この古墳が築造されたのは造山古墳よりやや新しい時期と想定されている。 |
造山第4号古墳
埴輪の出土した溝状遺構の位置や向き、周辺の地形などから判断して、この4号古墳はもとは墳長55m程度の前方後円墳、あるいは帆立貝形古墳だったようだ。 |
千足古墳
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| 千足古墳遠望 |
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| 千足古墳の石室入口 |
石室は開口しているが、のぞき込んでも何も見えない。案内板の説明によると、横穴式石室は玄室が長さ3.45m、幅2.5m、高さ2,7mで、板石を持ち送り式に積み上げ、3枚の天井石で塞いでいる。下半部には凝灰岩製切石を四隅に立て巡らし、さらに2枚の障石で内部を二分している。この障石の前面に直弧文、上面に鍵手文が彫刻されている。この石室の構造や、直弧文様は九州西北部の装飾古墳の石室に類似しており、被葬者が北部九州と深いつながりがあったことを示唆している。
今晩の宿舎に当てられたのは「ウェルサンピア岡山」。午後5時に到着して大浴場で汗を流した後、3階の「雪舟」の間でミニ講座が開かれた。このあたりが、一般の観光ツアーとは異なる。正岡先生と松田館長の講義がびっしり1時間続いた。その中で松田館長の児島湾岸の貝塚遺跡の話は特に興味深かった。現在の児島半島は、縄文海進以降は瀬戸内に浮かぶ島だったが、海退期に入った縄文前期中葉以降、沖積作用が進む中で河口付近や沿岸の砂州上、丘陵末端の微高地などに大規模な貝塚が形成され始めたという。現在の児島湾岸周辺には、西日本で最も多く約30カ所の貝塚が集中して営まれたとのことだ。