古代の吉備国(きびのくに)


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在の岡山県は、北部に中国山脈が連なり、地形は緩やかに南に傾斜して瀬戸内にのぞんでいる。そして、東から吉井・旭(あさひ)・高梁(たかはし)の三大河川が南に流れ瀬戸内に注いでいる。県北は盆地や高原が連なり、雨が多く寒さも厳しい。だが、県南は全国的に見ても雨がすくなく温暖である。その県南に広がる広い沖積平野が、吉備の文化を生み、そして育ててきた。

述のように7世紀末から8世紀のはじめに実施された分国によって、この地域は備前・備中・備後・美作(みまさか)に分けられた。それ以前は「吉備国(きびのくに)」と呼ばれていた。この吉備と呼ばれていた地域は旧石器時代から人類が足跡を残している。

生時代の吉備地方は、日本で最も早く稲作が始まった地域のようだ。我が国で稲作が始まったのは、今から2300年前の弥生時代の初期とされている。江南型と呼ばれる稲は紀元前3000年頃には中国大陸の江南地方や雲南地方で栽培されていたとされている。その水稲栽培技術は中国の海岸沿いに北上し、山東半島から朝鮮半島南部を経由して北九州に伝えられた。日本型(ジャポニカ)として北九州で盛んに栽培されるようになった。もちろんその背後には、多くの渡来人の移住があった。

備地方は、稲作のための温暖な気候に恵まれていた。弥生時代初期、この地にやってきた人々は、旭川下流の沖積デルタ地帯に州があちこちに点在し、それを囲むように湿地が広がっているのを見て、稲作を始めた。岡山市にある津島遺跡は、北九州の板付遺跡とともに、日本でもっとも早く稲作がはじまったことを示す遺跡とされている。弥生時代中期には、吉備の各地に稲作が急激に拡大し、吉井川、旭川、高梁川、芦田川の下流デルタ地帯を中心の稲作を中心とする村が形成された。そして、弥生時代の終わりごろには、肥沃な沖積平野の開墾によって、吉備地方に一大文化圏が生まれる。特殊器台特殊壺という吉備特有の土器の出現がそのことを裏付けている。

備地方には、稲作農耕を支えるもう一つの要素があった。吉備は鉄資源にも恵まれていた。中国山地の風化した花崗岩地帯は、多くの砂鉄を含んでおり、当時の「たたら製鉄」の生産量では、吉備は出雲をしのぐ一大産地だったと推測されている。効率の悪い石器に代わって鉄製の鎌や鍬、鋤といった農業土木用具をいち早く普及させたこの地方の農耕は、飛躍的に効率を増加させた。古墳時代の吉備は、こうして得た豊かな経済力で多くの人口を支え、やがて畿内のヤマトに対抗しうる吉備王国の出現を可能にした。

世紀から5世紀にかけて、ヤマトの大王家は吉備一族と政治的な同盟や婚姻関係を結んで、なんとか大和朝廷の配下にこの地域を組み込もうとした。5世紀後半の雄略朝の時代になると、さまざまな策略を用いて吉備王国の解体を進めたと思われる。それを裏書きするような吉備一族の反乱が何回も生じている。そして、反乱を制圧したヤマト政権は部民制や国造制を持ち込んで在地勢力を押さえるとともに、吉備五郡や児島に屯倉を設置してこの地域の支配を強化していった。

の最期の仕上げは、吉備の分国である。7世紀の末に吉備を備前・備中・備後の三カ国に分割し、さらに8世紀のはじめに備前の一部を割いて美作をつくった。



吉備の古代を理解するためのキーパーソン

備路を旅行しようとすれば、是非とも知っておかなければならない人物がいる。史書には大吉備津彦命とか大吉備日子彦命という名で登場する人物である。いずれもオオキビツヒコノミコトと読むが、いささか仰々しい名なので、以下では単にキビツヒコとだけ呼ぶことにしよう。

吉備津神社の正殿・拝殿
備中の一の宮・吉備津神社
備の国は上記のように4カ国に分割されたが、いずれの国の一の宮でも主祭神として祀っているのが、このキビツヒコなのだ。吉備の中山の東麓に鎮座する備前一の宮の吉備津彦神社然り、同じく吉備の中山の西麓に鎮座する備中の一の宮の吉備津神社然り、広島県の備後府中にある備後の一の宮の吉備津神社然り、そして、美作の一の宮も、中山神社と社名は違っているが、祀っているのはやはりキビツヒコである。いずれの神社でも吉備一族の祖神としてキビツヒコを祀られている。こうして見ると、古代の吉備人にとって彼はスーパーヒーローだったようだ。

献史学的には、キビツヒコの事績はそれほど詳しく伝えられているわけではない。『古事記』では、彼は孝霊天皇の皇子の大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)の名で登場する。姉に箸墓古墳の被葬者に比定されているかの有名な倭迹迹日百襲媛(ヤマトトトヒモモソヒメ)がいる。キビツヒコは異母弟の若日子建吉備津彦命(ワカヒコタケキビツヒコノミコト)と協力して吉備国を平定したことになっている。

定の理由として、次のような話が語られている。そのころ、百済の王子と名乗る容貌魁偉の温羅(ウラ)という人物が吉備の国にやってきた。 温羅は新山(総社市)の鬼の城(きのじょう)を居城として悪事を働いて人々を困らせていた。そこで、温羅を征伐するために、キビツヒコは異母弟ととも兵を率いて山陽道を進軍し播磨国に達した。そして、ここを吉備の道口と定め、加古川の畔で神祭りを行なった。こうして吉備国に入り、温羅一族を苦戦の末に退治した。その結果、この地方に平和と秩序がもたらし、キビツヒコは上道臣(かみつみちのおみ)の祖となり、ワカヒコタケキビツヒコは下道臣(しもつみちのおみ)や笠臣(かさのおみ)の祖となったという。

日本書紀』では、キビツヒコは孝霊天皇ではなく崇神天皇の皇子となっている。崇神天皇は治世10年目に朝廷に従わない遠国の平定するため東海・北陸・山陽・丹波の四地方に将軍が派遣した。そのとき、山陽道に派遣されてきたのがキビツヒコである。彼は特に吉備の国の平定のためだけに派遣されたのではない。その後、崇神天皇60年秋7月には、彼は武渟河別(タケヌナカワワケ)と協力して、出雲の国造の祖出雲振根(イズモノフルネ)を誅している。以上が文献上で確認できるキビツヒコに関するすべてである。しかし、この地方の言い伝えでは、キビツヒコは吉備の中山の麓に茅葺宮(かやぶきのみや)を作って住み、吉備国の統治したという。そして、281歳で亡くなると、吉備中山の頂の茶臼山に葬られたという。


「桃太郎」
岡本錦朋氏作成の「桃太郎」
山駅の正面に、昭和46年(1971)に故岡本錦朋氏が製作した「桃太郎」の銅像が建っている。吉備の国は日本五大おとぎばなしの一つ「桃太郎の鬼退治」の舞台になったところである。吉備の鬼の城(きのじょう)を根城にして人々を苦しめた温羅(ウラ)をキビツヒコが退治したという伝承をベースにして、浦島太郎伝説が生まれた。したがって、浦島太郎のモデルはキビツヒコということになる。このキビツヒコ=浦島太郎とする説は、中山の麓の吉備津神社吉備津彦神社を拠点に広まり、やがて人口を膾炙する馴染みのお伽話になっていく。

島太郎の鬼退治の伝承の成立は早く、平安時代の『梁塵秘抄』にすでに吉備の丑寅御崎(うしとらみさき)は鬼が住んでいる恐ろしい所とされている。この鬼は、キビツヒコが吉備を平定するためにヤマトから下ってきたとき、最期まで抵抗した温羅のことである。温羅はもと百済の皇子で、身長は1丈4尺(4.24m)、空中を飛行し、性は凶悪で、「鬼の城」という館に住んで、民衆を苦しめていたという。

ビツヒコは吉備の中山に布陣して温羅と激烈な戦闘が繰り広げた。温羅は遂に捕らえられ、吉備冠者の名をキビツヒコに献じて誅殺される。その首は髑髏となってもなお十三年間唸り止まぬので、吉備津神社の釜殿の地下八尺に埋めたという。この説話は大和による吉備征服の物語であり、どれだけ史実を反映しているかは疑問である。実際は、温羅は人々を苦しめた外来者ではなく、渡来者集団を率いて豊かな吉備の国を作り上げた吉備の国王ではなかったのか。吉備は製鉄の国だった。製鉄技術を伝えたのは、ひょっとすると、温羅を筆頭とする渡来集団だったのかもしれない。一般的な理解では、吉備の製鉄は6世紀後半まで下るとされている。しかし、備後の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかと言われている。


ころで、桃太郎のお伽話で以前から気になっていることがある。鬼ヶ島に向かう途中にキビ団子を与えて犬、猿、雉を家来としたことになっているが、なぜ、犬、猿、雉だったのか? この疑問を解いてくれたのは、実は雑学に強いメル友である。

二支は年、日、時刻などに使われるが、方角を表すのにも使われる。ただし、北東、南東、南西、北西に該当する十二支はないので、これらの方角はその両側の十二支をとって、北東(丑と寅の中間)は艮(うしとら)、南東(辰と巳の中間)は巽(たつみ)、南西(未と申の中間)は坤(ひつじさる)、北西(戌と亥の中間)は乾(いぬい)と呼んでいる。古来、艮(うしとら、北東)の方角は鬼門とされ、不吉な方向とされてきた。その方角に住む鬼は頭に「牛」の角をはやし、「虎」のパンツをはいている所以である。艮(北東)の反対の方角が坤(ひつじさる、南西)である。この方角の十二支は申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)であるから、鬼を滅ぼすのに協力した家来として、猿と鳥と犬が選ばれたのだという。

っともこの説は、「南総里見八犬伝」の著者として知られる江戸時代の滝沢馬琴が、初の随筆集である『燕石雑志(えんせきざっし)』ですでに述べている説らしい。坤(ひつじさる)の方角であれば、犬ではなくて羊であってもよいような気もするが・・・。羊に比べて犬の方が戦闘的だからだろうか。

とぎ話の下敷きになったキビツヒコの伝承では、犬にあたる人物は吉備津神社の南随審問にキビツヒコの随神として祀られている犬飼建命(いぬかいたけるのみこと)とされている。また雉には鳥飼部と関わりがあったとされる留玉臣命(とめたまおみのみこと)が、猿には足守地域を開発した砂鉄生産集団のリーダーだったと思われる楽々森彦命(ささもりひこのみこと)が当てられている。



古墳時代の吉備

吉備は古墳発祥の地?

生時代後期中葉の頃、吉備地方の中心部で頸の長い特殊な形の壺が作られるようになった。畿内の土器とは明らかに異なり吉備独自のもので、発見地に因んで「上東式土器」と命名された。やがて、この土器が発達して、吉備地方に共通する「特殊器台型土器」やその上に載せる「特殊壺型土器」が誕生した。これらは葬送儀礼の際に死者に対して食物を備えるために、弥生式墳丘墓で用いられたものとされ、吉備独自のものだった。

墳時代に入ると、日本列島では突如、巨大古墳が作られるようになる。古墳時代初期の最古の前方後円墳とされてきた奈良県桜井市の箸墓古墳や橿原市の弁天塚古墳跡などに、吉備で生まれた「特殊器台型土器」や「特殊壺型土器」が配置されていた。これらの土器は埴輪の祖形とされている。

ビツヒコの温羅退治伝承の舞台の一つとなった倉敷市矢部に築かれた楯築遺跡は、古墳の祖形ではなかったかとも思われるふしがある。弥生時代後期中葉に築かれた約40mの円丘と左右に伸びた方形の張り出し部分を持つ墳丘墓だが、「特殊器台型土器」や「特殊壺型土器」を伴い、さらに、墳丘は多量の川原石が敷き詰められていた。2つの方形の一方がなければ、前方後円墳となる。

説では、古墳はまず大和で発生し、各地に広まったとされているが、大和の古墳以前に吉備地方では、すでにその祖形とも推定される墳丘墓を築き上げた勢力がいた。吉備で最初に作られたのは岡山市湯迫(ゆば)の備前車塚古墳が知られている。前方後方墳である。同市津島本町で発見された都月坂1号墳も、全長33mの前方後方墳であるが、この古墳は特殊器台型土器よりさらに新しい文様の円筒埴輪が出土し、埴輪の発生が吉備であったことを示している。

 古墳時代から「まがね吹く吉備」として著名だった鉄の生産地

『古今集』には次の一種が載っている。
●真金ふく 吉備の中山 帯にせる 細谷川の おとのさやけさ (1082)
真金ふく」は吉備にかかる枕詞であるが、和歌に詠われるほど、吉備は古くから鉄の産地として知られていた。実際、鉄はは吉備の特産だった。飛鳥時代から奈良時代にかけての都城遺跡から出土した木簡がそのことを証明している。当時、鉄と鍬(くわ)を都に納めていた国は、美作・備前・備中・備後の4カ国だけである。

化した花崗岩が多い中国山地は、砂鉄が豊富であり、その砂鉄から鉄を採取する技術は「たたら製鉄」という。この技術も吉備地方は全国の先進地であり、出雲とならんで鉄の一大産地だった。我が国の鉄の生産がいつ頃から始まったのかは、まだ明確ではない。

和28年(1953)に行われた棚原町の月の輪古墳の発掘調査で、墳頂から鉄滓(てつさい)が発見され、遅くとも5世紀の中頃にはすでにこの地方で製鉄が行われていたことが明らかになった。

後の小丸遺跡は、弥生時代後期後半(3世紀)の製鉄遺跡ではないかと言われている。だが、まだ定説下していない。弥生時代にすでに鋳鉄技術は列島に伝わっている。鉄鉱石ではなく砂鉄を原料とした製鉄が弥生時代に始まっていてもおかしくない。発掘が進めば、吉備地方の製鉄の開始時期は5世紀以前にさかのぼる可能性はあるだろう。

備の製鉄は6世紀後半以降は箱形炉による生産がさかんになり、上記のように「まがね吹く吉備」とよばれるようになる。箱形炉とは長辺側に台状の高まりをもち、短辺側に溝をともなう炉のことで、長辺側に鞴(ふいご)が置かれ、高みから原料・燃料を投入して溝の排滓する方法が用いられた。この場合、製鉄炉の原料には鉄鉱石が用いられ、朝鮮半島から導入された新しい技術だったと考えられている。こうした製鉄炉の遺構が各地で発見されている。有名なものに総社市で発見された千引きかなくろ谷遺跡がある。

備における鉄生産の伝統は、その後も長く歴史に引き継がれてきた。岡山県の長船町は「備前長船」の名で知られる数々の名刀を中世に生み出している。

 全国に向けた塩の供給地だった吉備地方

器時代や縄文時代の人々は野生動物から有機塩を摂取していたため、とくに塩分を取る必要がなかった。だが、米食中心の弥生時代になると、塩は生活になくてはならないものになった。

代の製塩法は、土器に濃い海水を入れ、煮沸して結晶塩を得る土器製塩だった。そのために使用された土器は、出土地の岡山県牛窓町の師楽遺跡(しらくいせき)の名をとって師楽土器と呼ばれている。

戸内海沿岸ではすでに弥生時代から塩つくりが始まっていた。古墳時代にはいると土器製塩は瀬戸内内海沿岸に広がりを見せるとともに、特定の場所に集中するようになる。この時期には専業集団による塩作りが行われたと見られ、吉備地方では、岡山県の牛窓、児島、倉敷、広島県福山の松永など各地で製塩遺跡が発見されている。

のように、生活の必需品となった塩の一大生産地だった吉備は、全国に向けた塩の供給地であり、さらに各地への製塩技術の供給地でもあった。当然のことながら、鉄製品と同様に吉備王国の発展に寄与したことは容易に想像できる。

 吉備の発展のもう一つの要因は瀬戸内海の制海権の掌握

代人の感覚では、交通といえば道路や鉄道をイメージしがちである。だが、陸の大部分が深い森林に覆われていた古代においては、道路網はまだ発達しておらず、主要な交通路は海であり川であった。人々は舟で海や川を行き来した。当時の川は、我々が想像する以上に水量が豊かだった。

備地方は、北の山地から南の瀬戸内に流れる4大河川があった。吉井川、旭川、高梁川、そして芦田川である。これらの川は瀬戸内沿岸と内陸部を結ぶ重要な交通路だった。そして、瀬戸内海は、人や物や情報が行き交う海上交通の大動脈であり、そのほぼ中心にある吉備は、海上交通権や海上交易権を掌握し、また吉備の優れた造船技術や航海技術は、吉備王国を出現させる大きな原動力になった。

に、平家がその繁栄を築くことができたのは、備前守(びぜんのかみ)に任ぜられていた平正盛とその子の平忠盛が、瀬戸内海の海賊を討ち、かれらを平氏の武士団として編成するとともに、彼らの海運技術を活用して、大陸の宋との貿易を活発に行って巨万の富を築くことができたため、とされている。

 吉備の巨大古墳:造山古墳、作山古墳、両宮山古墳

生時代以来、吉備地方は鉄と塩の生産、および瀬戸内海の制海権を握ることで、いち早くまとまりのある政治社会を形成した。古墳時代になると、吉備一族は大王家と密接な婚姻関係(*)を通じて同盟や軍征で重要な役割を果たし列島内部で大王家に匹敵する政治的地位を占めるようになる。

世紀前半になると、吉備地域の巨大古墳として造山古墳(つくりやまこふん、岡山市新庄下、墳長360m)と作山古墳(つくりやまこふん、総社市三須、墳長286m)が相次いで造られる。全国的にみても、造山古墳は4番目、作山古墳9番目の規模をほこる。吉備全体をおさえていた、いわば吉備大王ともいうべき人物の墓と思われる。なかんずく造山・作山古墳の被葬者は、吉備南部の総社平野から旭川西岸までの地域を「支配した首長とみられ、下道臣(しもつみちのおみ)こそふさわしい。

れに続く時期になると、同時期に宿寺山古墳(しゅくてらやまこふん、 山手村宿、墳長120m)と両宮山古墳(りょうぐうざんこふん、赤磐郡山陽町、墳長192m)が造られて、中心勢力が2つに分かれたことを暗示している。

らに、5世紀末から6世紀初めの時期になると、100mを越すような大規模な古墳はまったく造られなくなる。

(*)景行天皇・日本武・応神天皇・仁徳天皇・雄略天皇・舒明天皇はそれぞれ吉備出身の女性を妃としている。吉備一族は大王家にとって政治的同盟あるいは人質を取る対象として重要視しされていた。だが、吉備出身の女性が生んだ皇子が大王になった例は皆無である。

 吉備の意地を示す横穴式巨石墳

備勢力は近畿の大王勢力と対立し、これと抗争するが、やがて敗れてその支配下に組み込まれる。だが、6世紀中葉の段階でも、花崗岩の巨石を用いて築いた石室をもつ横穴式巨石墳を造営していて、巨大な権力が在地で保持されていたことを示している。ここで、横穴式巨石墳とは、吉備郡真備町の箭田(やた)大塚古墳、総社市のこうもり塚古墳、および岡山市の牟佐大塚古墳の3つをいう。その墳形と規模は以下の通り。

古墳名墳形全長石室玄室長玄室幅築造時期
箭田大塚造出し付円墳径46m19.1m8.4m3.0m6世紀中期
こうもり塚前方後円墳径100m19.4m7.7m3.61m6世紀中期
牟佐大塚円墳径30m以上18.0m6.0m2.8m6世紀末〜7世紀初

れらの横穴式巨石墳の被葬者は、当然その地域の有力者とみて間違いない。こうもり塚はその所在地から、造山・作山古墳の被葬者の後裔であり、下道臣の族長であろう。牟佐大塚は、その所在地からみて両宮山古墳につながる系譜の族長と思われ、上道臣と考えられる。箭田大塚も下道臣の一氏族の墓の可能性がある。



吉備氏(きびし)の反乱伝承

生後期にいち早くまとまりのある政治社会を形成し、古墳時代には畿内の大王陵に匹敵する巨大古墳を造営した吉備勢力は、それ故大王権力と厳しく対立して反乱を繰り返し敗北する。『日本書紀』は吉備一族がヤマトの大王に反抗したとする次の三つの伝承を伝えている。いずれも雄略天皇に関わることとして記されている。

 前津屋(まえつや)の反乱

略天皇7年(463)8月の条に吉備下道臣・前津屋(さきつや)が天皇を呪詛した話を載せている。雄略天皇の宮廷に「官者(とねり)」として仕えたいた吉備弓削連・虚空(おおぞら)は、所用があって古郷に帰ると、前津屋は自分のもとに留めて返さなかった。そこで、雄略天皇は身毛君・丈夫(むげのきみ・ますらお)という美濃の豪族を派遣して虚空を連れ戻らせた。

ってきた虚空は次のような報告をする。「前津屋は小女を天皇に、大女を自分に見立てて相撲をさせ、小女が勝つとこれを殺した。さらに小さな雄鶏を天皇に見立てて毛を抜き翼を切り、大きな雄鶏を自分見立てて鈴や蹴爪を付けて戦わせ、小さな鶏が勝つとこれを殺した」

相撲や闘鶏は雄略天皇に叛意を抱いた前津屋がその勝敗を占ったものである。これを聞いた雄略天皇は、早速先制攻撃をかけ、物部の兵士30人を派遣し前津屋をその一族70人を皆殺しにした。

空は吉備に本拠を置く弓削部の長であり、本来ならば吉備の大首長である前津屋に従属する中小首長の一人であるが、当時大首長と中小首長の間に一定の対立関係があったことを伺わせる。その原因は造山・作山の造営だろう。その造営に中小首長層はかなりの費用と労働力の提供をもとめられた。吉備の大首長の支配から相対的に自立を得ようとするならば、政治的に上位にあるヤマトの大王と結びつこうとする動きがあり、雄略はその対立関係を利用して、吉備地方の支配を拡大した事実を物語として語ったものと思われる。

 田狭(たさ)の反乱

二の反乱伝承は雄略7年のこの歳条に記されている。吉備上道臣・田狭(たさ)は、宮廷で自分の妻の稚媛(わかひめ)が魅力的な女性であると自慢していた。これを聞いた雄略天皇は、田狭を「任那国司」に任じて国外に追いやり、稚媛を奪った。任地でこのことを知った田狭は新羅に入る。

略天皇は、新羅への攻撃を田狭と稚媛の間に生まれた弟君(おとぎみ)と吉備海部直・赤尾に命じる。このとき弟君に百済から技術者を連れてくる任務も付け加えられる。弟君らは百済から新羅を攻撃しようとするが果たせず、百済の技術者をあつめて大島にとどまっていた。田狭は大島にいる息子の弟君に使いをおくり、父子で朝鮮半島南部を押さえて雄略との関係を絶つことを勧める。これを知った弟君の妻の樟媛は夫を殺して田狭の計画を防いだ。

上は『日本書紀』本文の記述であるが、不自然さが目立つ。分注では、田狭の妻は葛城襲津彦の子の玉田宿禰の娘の毛媛(けひめ)であり、雄略は毛媛の美しいことを聞いて田狭を殺して毛媛を奪った、としている。一般にはこの分注の記述に、より信憑性があるとされている。

 星川(ほしかわ)皇子のクーデター

日本書紀』は清寧即位前記で、田狭の妻だった稚媛と雄略天皇の間に生まれた星川皇子の次のような話を載せている。雄略の死後、稚媛は星川を大王位につけようとして、星川にクーデターを勧める。星川は諸国からの貢ぎ物を収容する大蔵を占領するが、雄略の寵臣だった大伴室屋(おおとものもりや)や東漢掬(つか)らに包囲されて、星川は焼死してしまう。

備上道臣らは星川皇子のクーデターを聞いて水軍を率いて駆けつけるが、時すでに遅く星川は焼死したことを聞いて引き上げる。しかし、清寧天皇は吉備上道臣らの行動を責め、その支配する山部を奪った。



制圧されていく吉備国 − 白猪屯倉(しらいのみやけ)の設置

世紀から5世紀中頃にかけて、畿内に成立したヤマト王権は強大な吉備勢力に手こずった。敵対して征服するよりも政治的同盟や婚姻関係を通して懐柔する道を選んだようだ。だが、5世紀も後半の雄略朝の時代になると、政治的均衡は敗れ、畿内勢力が圧倒してくる。そのことを裏書きするのは、おそらく上記の反乱伝承であろう。

世紀の後半になると、ヤマト政権は本腰を入れて吉備勢力の制圧に乗り出した。『日本書紀』に記された白猪屯倉児島屯倉の設置は、吉備勢力が支配する地域にクサビを打ち込み、支配体制の強化の現れと解したい。

倉とは大王の建物(施設)が存在する一画を指す表現である。だが、その実態は倉庫や土地、および土地を耕作する専業農民を含むという。しかも、米穀の確保といった農業経営に関わるものに限らない。港湾など交通の要衝におかれた政治的・軍事的色彩の濃いものや、製塩・製鉄などヤマト大王権力が必要とする物資調達のためのものも含まれる。徳川幕府が各地に設置した天領のようなものと思えばよい。

教が伝来したことで知られる欽明朝は、その晩年に未曾有の出来事が起きる。欽明天皇23年(562)、新羅によって朝鮮半島南部の加耶諸国が併合され、ヤマト朝廷が持っていた権益のすべてを失った。このことは単に外交の失敗だけにとどまらない。ヤマト朝廷の地方豪族に対する支配権の相対的低下でもあった。

が、これを千載一遇のチャンスと捕らえて統一的な支配体制の強化に乗り出した氏族がいた。政界を主導し始めた新興勢力の蘇我氏である。蘇我本宗家の稲目は瀬戸内海ルートの重要性を認識し、吉備の勢力を押さえ込む政策を打ち出した。それが吉備国内での屯倉設置である。

備国内に設置した屯倉のことは、『日本書紀』の欽明天皇16年(555)に初めて出てくる。この年の7月、大臣・蘇我稲目(そがのいなめ)と穂積磐弓(ほづみのいわゆみ)を現地に派遣して、吉備五郡に白猪屯倉(しらいみやけ)をおいたとある。翌欽明17年(556)にも稲目が吉備にやってきて、児島郡に屯倉を設置した。このとき、屯倉の経営にあたる田令(たつかい)に、葛城山田直・瑞子(みずこ)を任命している。

猪屯倉が置かれた吉備五郡とはどこを指すのか、定説はない。ただ、後の時代に白猪臣大足や白猪臣證人といった人物が、白猪から大庭に改姓していることから、大庭郡などがあった吉備北部の美作地方を指すとする見方がある。そうであれば、吉備における砂鉄の一大生産地を押さえて、この地の産鉄と鉄資源を獲得するねらいがあったと思われる。

方、児島屯倉は児島郡の児島湖側、現在の岡山市宮浦あたりであろうとされている。吉井川と旭川が児島湾に注ぐ内界の要津で、ヤマト朝廷は瀬戸内海の制海権を押さえるとともに、瀬戸内沿岸の塩業や造船技術、航海技術の獲得を狙ったものとされている。この屯倉の設置で、吉備の海人族は「海部」としてヤマト朝廷のもとに組織下された。

の後も、吉備の屯倉の記事は、『日本書紀』に頻出する。欽明天皇30年(569)の正月には、王辰爾(おうじんに)の甥の胆津(いつ)を吉備に派遣して、屯倉の耕作にあたる田部を編成するため田部の丁籍(ちょうせき)を作らせている。同年4月、胆津は白猪田部の壮丁を調べて戸籍を作り上げた。その功績によって胆津に白猪史(しらいのふひと)の姓を与え、田令の瑞子の副に任命している。

達3年(574)年10月には、蘇我馬子が直接吉備国に乗り込んで、白猪の屯倉と田部を増やしている。翌年の2月、馬子は大和に戻り、屯倉のことを復命している。

我稲目とその子の蘇我馬子は、大和朝廷において大臣(おおおみ)の任にあった人物である。いわば、政府の総理大臣がわざわざ吉備にまで赴いて、屯倉の設置と拡大に陣頭指揮をとっている。その意図するところは自明であろう。上記のように、鉄資源や瀬戸内海の制海権を奪って、吉備勢力を削減することに他ならない。それでも、この時期に、箭田(やた)大塚古墳こうもり塚古墳牟佐大塚古墳といった横穴式巨石墳を築くことができる勢力が吉備に存在したことは驚きである。


【参考文献】岡山県の歴史(山川出版社)、図説岡山県の歴史(河出書房新社)、吉備の古代史(門脇禎二著、NHKブックス)、吉備王国残照(高見 茂著、東京経済)

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