蘇我馬子の塚(そがのうまこのつか) 椿の大樹の下に建つ多層塔



蘇我馬子の塚
蘇我馬子の塚

 太子町に蘇我馬子の墓があると聞いて、訪れてみる気になった。『日本書紀』の推古紀や舒明紀の記述から、明日香村にある石舞台古墳が馬子の墓であると言われていることは先刻承知している。だが、王陵の谷と称される磯長谷には、用明天皇、推古天皇、聖徳太子など蘇我系皇族の陵が点在する。蘇我馬子の霊を祀る遺跡が一つぐらいあっても不思議ではない。


【所在】大阪府南河内郡太子町向小路
【アクセス】叡福寺前の西方院から左へ200m



凝灰岩を6個積んだ供養塔


 道を挟んで叡福寺の境内とは反対側にある西方院から、民家の間の狭い小径を左へ200mほど行くと、小径の北側にある見事な枝振りの椿の木が目に入る。木の根本は、正面が生け垣でおおわれたおよそ5m四方の空き地になっていて、その中央に凝灰岩を6個積み重ねた石塔がある。土地の人々が古くから蘇我馬子の墓と言い伝えてきた塔である。

 蘇我馬子は聖徳太子と同じ時代を生きた人物である。当時最大の豪族であり天皇家よりも強大な力を誇った蘇我氏の当主である。大臣(おおおみ)として、聖徳太子とともに国の政治をリードした。仏教受容に熱心であり、我が国最初の本格的な寺院である飛鳥寺を建立したのも馬子である。『日本書紀』によれば、この飛鳥時代の最大の実力者が死んだのは、推古34年(626)5月(法王帝説では推古35年6月)とされている。馬子の墓は一族総掛かりで桃原(現在の奈良県高市郡)に造営したと伝えられている。

 しかし、蘇我氏の本貫地が河内国の石川であるとする説があるくらい、蘇我氏と河内飛鳥との関係は深い。この付近にも蘇我氏に連なる人々が住んでいたであろう。馬子を死を悼むあまり、彼の供養塔をこの場所に建てて祀っていた可能性がないとは言えない。だが、本人の死から1380年近い歳月が流れ去った今となっては、真実はすべて闇の中である。