吉野を出て挙兵

目    次

西暦672年

■5月     近江朝廷側の動向を伝える情報が決起を促す

■6月22日 舎人の村国連男依らを先発隊として美濃に派遣する

■6月24日 吉野を出て、山道を伊賀に向かう

■6月25日 高市皇子が大津宮を出奔してくる

■6月26日 美濃不破道の占拠に成功する

■6月27日 大海人皇子、桑名郡家から野上行宮に移る

■6月28日 前進基地「わざみ」で軍事訓練を検閲する

■6月29日 前日に引き続き、終日閲兵にあたる


672年5月 近江朝廷側の動向を伝える情報が決起を促す

吉野の宮滝
吉野の宮があった付近の現状

■『書紀』は、大海人皇子が挙兵した動機を次の2つに求めている。まず、私用で美濃に行っていた舎人の朴井連雄君(えのいのむらじ・おきみ)が重大な情報をもたらした。

■近江朝廷は、美濃と尾張の国司に対して「天智天皇の陵(みささぎ)を造るためにあらかじめ人夫を指定しておけ」と通達し、武器の携行させて人夫を徴用するよう命じているという。美濃には大海人皇子の湯沐(ゆのう、古代の皇子の私領)がある。明らかに大海人方の挙兵を牽制するために、天智天皇陵造営を名目にした募兵の動きがすでに始まっていた。

柴橋からの景観
吉野川に架かる柴橋からの景観(上流)
■別の情報が飛鳥方面からもたらされた。大津京から飛鳥にかけて要所要所に朝廷の見張りが置かれ、さらに、宇治橋の橋守に命じて、大海人の舎人が自分たちの食料を吉野に運ぶのを禁じたという。大海人皇子はさっそく人を派遣して調査したところ、事は真実であることが判明した。

■そこで、皇子は、自分の身に危険が迫っていること知り、周りの者にこう言った。
「余が皇位を辞退して身を引いたのは、ひとり療養につとめ天命を全うしようと思ったからだ。それなのに、今避けることができない災いが迫っている。このまま黙って滅ぼされる訳にはいかない」
そして、今こそ決断の時と考え、皇子はやむをえず吉野を出て戦うことを決意したという。これが『書紀』の言い分である。


柴橋からの景観
柴橋からの景観(下流)
大海人皇子の即位の理由とその正当性をアピールすることを目的に編纂された「天武紀・上」の記述は、そのままを信用することはできない。吉野に翼を着けて放たれた虎がいる。九州に大船団を率いて戦後処理に派遣されてきた郭務宗(かくむそう)がいる。こうした内憂外患を前にして、近江朝廷側が半年以上も何もしなかったとは考えにくい。天智天皇の喪もそこそこに、大友皇子は新しい天皇として即位して国事に当たったと見るのが常識である。

大友皇子の即位は天智天皇の遺言であり、左大臣の蘇我臣赤兄(そがのおみ・あかえ)をはじめ近江朝廷の重臣達が正式に認めた皇位継承であったはずである。『書紀』はそうした事実を隠蔽している。しかし、語るに落ちたほころびは見えている。例えば、672年3月18日に使者を郭務宗のもとに遣わして、先帝崩御を伝えたと記しているが、実際は同時に新帝即位も伝えたはずである。その証拠に、3日後の3月21日には、郭務宗が唐皇帝からの国書と進物を奉っている。喪中で新帝が即位していない状況ならば、国書の提出など行われるはずがない。

『書紀』の記述から一歩離れて当時の情勢を冷静に眺めたとき、大海人皇子の挙兵は、正当に皇位を継承して新帝となった大友皇子に対して、その即位に異を唱える反乱と取られても仕方がない。理由はどうであれ、天皇を死に追いやった戦争行為は大逆罪以外のなにものでもない。後年、天武天皇が史書の編纂を思い立った裏には、その汚名をぬぐい去ることも目的の一つだったと考えられる。


大海人皇子の立場にたてば、兄の死は挙兵の絶好の機会になる。ひとまず吉野に逃れたその日からさまざまな手を打っていたに違いない。例えば:

  • 吉野への脱出しその後も皇子の身辺警護のために残った舎人(とねり)の中には、美濃や三河、伊勢、信濃、甲斐など東国の国司や郡司の子弟が多かった。近江朝廷側が動く前に、大海人皇子はこれらの舎人を本国に走らせ、早い段階から挙兵の準備を進めたはずである。『書紀』は舎人の朴井連雄君が私用で美濃へ行ったと記すが、実際は、水面下で皇子の私領である湯沐(ゆのう)あたりを拠点とした周到な戦争準備を行っていたと見なすべきである。

  • 近江朝廷側を攻略するには、東西から挟み撃ちする戦略が一番効果的である。幸い、筑紫には親交のある栗隅王(くるくまのおおきみ)が昨年6月、筑紫太宰(つくしのかみ)として赴いている。吉備には、やはり親交のある当摩公広嶋(たぎまのきみ・ひろしま)が国司を務めている。皇子が吉野で挙兵すると同時に、この二人が西国から近江を目指して侵攻してくれれば、近江軍の勢力は分散され戦況を有利に導くことができる。大海人皇子は密かに舎人を二人のもとに派遣したにちがいない。

  • 兄の天智天皇は唐・新羅連合軍の侵略を恐れるあまり、都を飛鳥から近江に移した。だが、倭古京(やまとこきょう)は誰にとっても思い出の地である。ここを押さえることで、近江朝廷側の戦意をくじくことができる。幸い、倭古京には大海人皇子に心を寄せている豪族たちがいる。彼らに決起させて古京を占拠し、そこから連係して近江を攻めれば、朝廷側は軍勢を分散せざるを得ない。

  • 朝廷内部の切り崩しも当然画策したであろう。近江朝廷の政府要人は、いずれも今まで天智の治世を支えてきた仲間である。彼らの中には蘇我臣安麻呂(そがのおみ・やすまろ)のように大海人に好意を寄せている人物もいる。彼らの間で離反者が出れば、近江朝廷は一枚岩ではなくなる(しかし、この工作はどうやら失敗したようである)。

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6月22日 舎人の村国連男依らを先発隊として美濃に派遣する

工事中
大海人皇子の湯沐(ゆのう)があったとされる現在の岐阜県安八郡付近(揖斐川から安八町を望む)

■美濃国の安八磨郡(やはちまのこおり、現在の岐阜県安八郡全域と海津郡の一部)には、大海人皇子の私領である湯沐(ゆのう)があり、その管理者である湯沐令(ゆのうながし)は、多臣品治(おおのおみ・ほむち)が務めている。決起を決意した大海人皇子は、この日最初の手を打った。舎人の村国連男依(むらくにのむらじ・おより)、和珥部臣君手(わにべのおみ・きみて)、身気君広(むげのきみ・ひろ)の三人の美濃派遣である。

■彼らに与えた任務は、多臣品治に機密を打ち明け、美濃の兵を集めさせること、さらに、東国(現在の三重県東部・岐阜県・愛知県・長野県)の豪族たちに触れを出して軍勢を出させ、不破道(ふわのみち)を速やかに塞ぐことだった。不破道は近江と美濃両国の境にあり、東国へ向かう要路である。


『書紀』のこうした記述は、そのまま信用するわけにはいかない。多臣品治と吉野方とは以前から緊密な連絡をとっていたはずである。このとき初めて機密を打ち明けたわけではあるまい。それにしても、大海人皇子が不破道を封鎖せよと指示したことは、すでに以前からこの日のあるのを見越して、十分な戦略を練っていたことを伺わせる。不破は濃尾平野の西端に位置する交通の要衝で、彼の私領がある美濃安八磨郡からも近い。この地を押さえることで、近江朝廷と東国とのパイプを遮断することができる。ちなみに、壬申の乱の翌年、天武天皇はこの地に不破関を置いた。

吉野宮の動きは、近江朝廷側の間諜によってその日の内に大津宮に伝えられたに違いない。近江朝廷側は大海人の吉野脱出をどのように阻むか。琵琶湖の南岸から水口・甲賀を経て拓植(つげ)へ抜ける倉歴道(くらふみち)という道がある。その道を利用して先回りし、大海人皇子の一行の進路を遮ればよい。距離的にも、また道の険阻さからいっても、吉野宮から拓植へ至るより、近江大津から拓植に至る方が速い。もはや出立に一刻の猶予も許されなくなった。皇子はただちに吉野を脱出できるように出発の準備を全員に指示したはずである。

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6月24日 吉野を出て、山道を伊賀に向かう

駅鈴
駅鈴の例
■この日、大海人皇子は吉野を出て、山道を伊賀に向かう。だが、出発に先立って、皇子は実に不可解な行動に出た。倭古京を守衛している高坂王(たかさかのおおきみ)のもとに三人の舎人を遣わして、駅鈴(えきれい)を求めさせたのである。高坂王は立場上この要求を拒否した。

■駅鈴とは、当時官道に配置された駅馬を使用するための公用の鈴である。駅鈴を求めさせた理由が今ひとつ理解できない。『書紀』は、計画の露見を恐れて村国連男依(むらくにのむらじ・おより)たちを美濃から呼び戻すためだったと伝える。だが、すでに賽は投げられた。村国連男依たちはすでに行動を開始している。この期に及んで皇子に決起を躊躇する気持ちがあったとは思えない。

■駅鈴を求めさせたというのは、『書紀』の文飾であろう。おそらく高坂王を説得して味方につけるため、王の腹の探りにいったものと思われる。後に大伴連吹負(おおとものむらじ・ふけい)が決起して倭古京を占領すると、高坂王はすなおに彼の軍門に下っている。近江朝廷の官吏である立場を別にすれば、心情的には大海人皇子を支援していたとも思われる。

■大海人皇子は、駅鈴が得られない場合を想定して、三人にそれぞれ別の使命を与えた。大分君恵尺(おおきだのきみ・えさか)は、その足で大津へ直行し、高市皇子(たけちのみこ)と大津皇子(おおつのみこ)を救出せよ。黄書造大伴(きふみのみやつこ・おおとも)は大伴連吹負と落ち合い、倭古京占拠の段取りをつけよ。逢臣志摩(おうのおみ・しま)は直ちに吉野に引き返し、高坂王との交渉結果を報告せよ。これが大海人が下した密命だった。


■吉野に戻ってきた志摩は駅鈴が得られないことを報告した。大海人皇子はただちに出発の命令を下した。すでに吉野脱出の準備は整っていた。ただ、馬の手配が間に合わなかったため、徒歩で吉野を脱出することにした。この吉野脱出に従ったのは、鵜野讃良皇女(うののささらひめみこ)、草壁皇子(くさかべのみこ)、忍壁皇子(おさかべのみこ)および舎人の朴井連雄君(えのいのむらじきみ)ら20人余り、侍女たち10人余りである。

■津振川(つふりがわ、現在の津風呂川)まで来たとき、県犬養連大伴(あがたのいぬかいのむらじ・おおとも)らが乗馬を調達して追いついてきた。そこで、大海人皇子は馬に乗った。鵜野讃良皇女と二人の幼い皇子は輿に乗った。


矢治峠方面標識
矢治峠方面標識
実は、大海人皇子の一行がどのルートで吉野を脱出したか不明である。菟田に向かったのだから、津風呂川(つふろがわ)沿いに遡ったことはことは間違いない。常識的に見れば、吉野宮から吉野川の下流へ向かい、津風呂川との合流地点に出たと思われる。

だが、事態は切迫していた。最短のルートを選択したのであれば、吉野川の上流に向かったはずである。吉野川がうんと北流する下矢治の集落あたりに、「お峠」と「矢治峠」という名の峠越えの道がある。壬申の乱の頃にいずれかの峠道を選べば、津風呂川の中流へ出られたであろう。

「お峠」はすでに廃道寸前になっているというので、「矢治峠」越えを体験することにした。下矢治集落のバス停近くの電柱に、「矢治峠・津風呂湖」方面の標識が掲げてある。この峠越えは近畿自然歩道にも指定されているため、それほどの山道でもないと思った。だが、山道へ踏み入ってみて、その急峻さに驚かされた。途中までは傾斜角60度から70度の斜面をジグザグの上り道が続く。ロープ伝いに上らなければならない岩場もある。振り返ると吉野川の流れが文字通り眼下に見えた。

吉野川
矢治峠への道で眼下に見えた吉野川
約20分かかってやっと峠に達した。峠から下り側を見下ろすと津風呂湖が、植林された杉の梢越しに見える。もっとも大海人皇子がこの峠を越えた頃には津風呂湖はなかった。津風呂湖は昭和38年(1963)に津風呂川をせき止めて造られた灌漑用のダムである。湖には遊覧船やボート遊び、釣りのほか湖畔ではハイキング、温泉も楽しめ、湖面に映る景色もまた美しい。

峠からの下りにも同じ時間がかかると仮定した場合、1時間足らずで峠を越えることができる。だが、一行には鵜野讃良皇女を含めて10人近い女性を伴っていた。女連れで急坂が続くこのような山道を越えるのは、かなり勇気がいったであろう。

峠を下って津風呂川の川岸に出ると、大海人皇子たちは現在の国道370号線と同じ津風呂川沿いの道を菟田(うだ、現大宇陀町)を目指した。その途中で県犬養連大伴が乗馬を調達してきた。おそらく、大海人皇子の事前の指示で馬を調達して、吉野川との合流地点から津風呂川沿いに追いかけてきたのであろう。

矢治峠から見た津風呂湖
矢治峠から見た津風呂湖


■飛鳥時代の狩り場として知られる菟田の吾城(うだのあき、奈良県宇陀郡宇陀町)の辺りまで来て、大海人皇子の一行は遅い食事を取った。現在のかぎろひの丘・万葉公園から阿騎野・人麻呂公園にかけての一帯が、当時の菟田の吾城だったとされていて、近くに阿紀神社(あきじんじゃ)がある。この付近には大海人皇子の屯田(みた)があったらしく、屯田司(みたのつかさ)の土師連馬手(はじのむらじ・まて)が食事を用意してくれた。

阿騎野・人麻呂公園
阿騎野・人麻呂公園

■さらに、前進を続けると、大伴連馬来田(おおとものむらじ・まくた)と黄書造大伴(きふみのみやつこ・おおとも)が追いついてきた。馬来田は倭古京の決起を弟の吹負に任せて、自身は大海人皇子を護ろうと、帰任する大伴に同行してきたのである。

甘羅村(かむらのむら)まで来たとき、大伴朴本連大国(おおとものえのもとのむらじ・おおくに)を首領とする20人の猟人と出会った。大伴一族の者たちだったので、馬来田は大国を説き伏せて一行に加わるよう命じた。


甘羅村は現在の大宇陀町神楽岡(かむらおか)付近である。宇陀川沿いの市街地中央の山際に神楽岡神社がある。それにしても、20名の猟師集団とは数が多い。また『書紀』は偶然出会ったような書きぶりだが、実際は事前に下準備がされていて、合流を指示されていたのであろう。その証拠に、かねて連絡しておいた美濃王(みののおおきみ)もこのとき一行に追いついた。


神楽岡神社
大宇陀町神楽岡(かむらおか)に鎮座する神楽岡神社

菟田郡家(うだのこおりのみやけ)のあたりで、馬50頭を率いた一団と出会った。伊勢から米を運んできた一団である。大海人は彼らから馬を徴発すると、馬の背から米を降ろさせ徒歩の者にあてがった。菟田郡家は今日の榛原駅の西北の西峠付近とされている。


西峠は当時「住坂(すみさか)」とも「墨坂」とも呼ばれていた。後に、7月4日の乃楽山(ならやま)の戦いで敗れた倭古京方面将軍・大伴連吹負(おおとものむらじ・ふけい)はこの地まで敗走して来て、千余の騎兵を引き連れた置始連兎(おきそめのむらじ・うさぎ)の救援軍に遭遇している。

宇陀郡榛原町の西峠付近
菟田郡家があったとされる榛原町の西峠付近



弥勒大石仏別当大野寺
摩崖仏で知られる弥勒大石仏別当大野寺
名張川
名張川
大野(宇陀郡室生村大野)まで来たとき、日が暮れた。近在の集落の垣根を壊し、松明代わりに燃やして夜道を行軍した。

■夜半になって、伊賀の名張郡に入り、駅家(うまや)を焼き払った。そして、伊賀の豪族達に援軍を募集を募った。応じるものは誰もいなかったという。

■名張の横河(名張川)まで来たとき、真夜中にもかかわらず、黒雲が天をたなびいているのが見えた。誰もが怪しんで行軍を続けるのに不安になったため、大海人皇子は自ら卦を行なった。そして、黒雲は天下が分かれるきざしと解釈し、しかも自分が勝利すると宣言した。

■一行はさらに夜道を急いで、伊賀郡(三重県伊賀郡の東部)に入った。伊賀駅家を焼きはらって先へ進むと、伊賀の中山(上野市南部)で一行を待ち受けている者がいた。数百の軍勢を率いた伊賀の郡司たちで、大海人皇子に参軍を申し出た。








▼大海人皇子が吉野を脱出して東国に赴いたとの報告は、24日の内に近江朝廷に持たされたと思われる。すでに深夜になっていたが、大友皇子は群臣を招集し、対応策を諮問した。一人が、速やかに騎馬隊を集めて急追すべきと献策した。だが、この策は容れられず、近江朝廷が取った対応は次の通りだったという。
韋那公磐鍬(いなのきみの・いわすき)、書直薬(ふみのあたい・くすり)、忍坂直大麻侶(おしさかのあたい・おおまろ)らを東国に遣わす。
穂積臣百足(ほずみのおみ・ももたり)・五百枝(いおえ)兄弟、物部首日向(もののべのおびと・ひむか)を倭古京に遣わす。
佐伯連男(さえきのむらじ・おとこ)を筑紫に、また樟使主磐手(くすのおみ・いわて)を吉備国に遣わす。

▼筑紫太宰の栗隅王(くるくまのおおきみ)と吉備国司の当摩公広嶋(たぎまのきみ・ひろしま)は、いずれも大海人皇子と親交があった人物である。二人が大海人皇子の挙兵に呼応して西国で兵を集め、山陽道を攻め上ってきたら、近江朝廷は腹背に敵を受けることになる。事と次第によっては二人を斬り殺せとの密命が、佐伯連男と樟使主磐手に下された。

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6月25日 高市皇子が大津宮を出奔してくる

■夜通し行軍して、明け方に刺萩野(たらの)に着くと、小休止して食事をとった。刺萩野は現在の三重県上野市荒木付近に比定されている。決闘鍵屋の辻の三十六人斬りで有名な剣豪・荒木又衛門の生誕地である。国道163号が服部川に架かる橋の近くに、又衛門生誕地の碑が建っている。
上野市荒木付近
刺萩野の候補地になっている上野市荒木付近

■大海人皇子の一行が積殖(つむえ、伊賀国拓殖)の山口まで来たとき、甲賀を越えてきた高市皇子(たけちのみこ)が合流してきた。


JR関西本線の拓植(つげ)駅
JR関西本線の拓植(つげ)駅
積殖の山口は、JR関西本線の拓植(つげ)駅があるあたりに比定されている。この付近は加太(かぶと)地溝と呼ばれる狭い山間で、北から鈴鹿山脈、南から布引山地が迫っている。平安時代の初めに鈴鹿峠が開かれるまで、拓植(つげ)から加太越えの道は、大和地方と東国を結ぶ重要な道路だった。高市皇子が大津宮から抜け出してきた道は、現在JR草津線が走っていて、拓植駅で関西本線に接続している。

高市皇子は、遅くても6月24日の夕方には大分君恵尺(おおきだのきみ・えさか)から大海人皇子が吉野を脱出したことを知らされたと思われる。それと同時に、大津皇子と一緒に大津宮を出て伊勢で合流せよとの指令が伝えられたはずである。皇子はその夜の内に大津宮を脱出し、甲賀山中を駆け抜け6月25日早朝、積殖の山口で大海人皇子の一行に合流している。しかし、何故か大津皇子の到着は一日遅れた。


■伊賀を抜ける道は、山道とは違って平坦で進みやすい野道であるが,敵から身を隠す木々はない。さらに、伊賀(三重県上野市)の東部は大友皇子の母の地(現大山田村)である。いつ敵に襲われるかも分からず、緊張の連続だったに違いない。

■伊賀と伊勢との間には大山と呼ばれた加太(かぶと)峠がある。しかし、国境の加太峠といっても、標高は310mにすぎない。名阪国道は加太トンネルで山地を抜けるが、平行して走る国道25号線は、それまでの平野の端に遠望していた山並みが近づいたあたりから曲がりくねった山道に入っていく。国道沿いに大規模な採掘現場があり、砕石した石を運ぶダンプの往来で埃っぽい道が続く。道はやがてJRの陸橋の下を抜け、さらにその先の昔の街道の面影が残る加太北在家の集落へと続いている。

加太峠越え
採掘石を運ぶダンプの往来が激しい国道25号線の加太峠越え

■国道25号線にかかる大和橋まで来ると、かっての関宿が遠望でき、やっと加太峠を越えてきたことが実感できる。やがて左手から鈴鹿峠を越えてきた国道1号線に合流する。このあたりは鈴鹿越えの東海道と加太越えの大和街道の分岐点で、江戸時代の東海道53次の第47番目の宿場町として栄えた関宿の西の端にあたることから、西追分(にしおいわけ)と呼ばれている。西追分から関宿の東の入口にあたる東追分までの旧東海道沿いの町並みは現在重要伝統的建物保存地区に指定されている。

関宿の保存地区
明治時代の中頃の面影を残す関宿の街並み

■大海人皇子の一行も、伊賀国司からの追っ手がかかることを気にしながら、必死で加太峠を越えたはずである。当時の峠越えは現在の国道のルートとは異なっていたとする説がある。現在の関町加太北在家の東にある加太神武(かぶとじんむ)から加太川の南岸の山道を進み、関町古厩(ふるまや)へ出たという。この道は名阪国道の関トンネルの上を行く険路である。いずれにせよ、加太峠を越えて伊勢の国の鈴鹿郡(三重県鈴鹿郡関)に入って、ようやく安堵の表情が全員の顔に浮かんだ。さらに吉報が彼らを待っていた。鈴鹿郡家の前で、彼らを迎える一団がいるというのである。

■一団は伊勢国司・三宅連石床(みやけのむらじいわとこ)、介三輪君子首(すけみわのきみ・こびと)、湯沐令(ぬようながし)の田中臣足麻呂(たなかのおみ・たりまろ)、高田首新家(たかたのおびと・にいのみ)たちだった。そこで、大海人皇子は彼らに500の軍勢を集めさせて、鈴鹿の山道の守りを固めさせた。


鈴鹿郡家はどのあたりに位置していたのか不明である。しかし、JR関駅から東南方向の鈴鹿川の南岸に位置する「古厩(ふるまや)」で、古代駅制の鈴鹿駅の遺跡が発掘されていることから、鈴鹿郡家もその近辺にあったものと推定できる。また、奈良時代に美濃の[不破関]や越前の[愛発の関]と共に三関の一つとされた「鈴鹿の関」の中枢は、現在の鈴鹿川北岸ではなく南岸にある「古厩」付近だったと推定されている。


川曲の坂下(かわわのさかもと、三重県鈴鹿市山辺付近か)で日が暮れた。鵜野讃良皇女(うののささらひめみこ)が疲れていたので、しばらく御輿を留めて休憩することにした。雨模様の天候だった。夜間行軍を続けたが、雷雨に見舞われ寒さも加わったため、三重郡家(みえのこおりのみやけ)に着くと、家を一軒焼いて暖を取った。

夕暮れ時の鈴鹿山脈
鵜野讃良皇女も眺めたであろう夕暮れ時の鈴鹿山脈(JR川曲駅付近で撮影)

■夜半に鈴鹿関の司からの使者が来て、山部王(やまべのおおきみ)や石川王(いしかわのおおきみ)らが服属するためにやってきたので関に留めていると伝えた。二人を呼び寄せるために、大海人皇子は路直益人(みちのあたい・ますひと)を派遣した。


吉野宮から鈴鹿までの距離は概算で80kmはある。大海人皇子の一行は、女性を連れてこの山道を二昼夜に満たない時間で踏破したことになる。律令制下の駅馬を用いた飛駅便の速度は一日約160kmとされている。いかに速いスピードで吉野脱出を敢行したかが分かる。

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6月26日 美濃不破道の占拠に成功する

■この日の朝、伊勢の朝明(あさけ)郡の迹太川(とおかわ、現在の朝明川)のほとりに至ったとき、大海人皇子は小休止を命じた。そして、自分自身は迹太川のほとりに立って伊勢の海のはるか彼方にある天照大神を祀る社を遙拝したという。

朝明川の河口
迹太川(現在の朝明川)の河口


大海人皇子が朝明川(あさけがわ)のほとりに立って、天照大神を祀る伊勢神宮を遙拝したとする『書紀』の記述には、何となく作為を感じる。『書紀』の編纂者は、天皇家と伊勢神宮との強い結びつきの端緒を強く読者に印象づけるために、こうした演出を施したのではないのか。

伊勢神宮と天皇家の結びつきが強くなるのは天武・持統朝以後とされている。特に天武天皇の時代は、伊勢神宮の地位が飛躍的に向上したときとされている。壬申の乱に勝利した翌年の天武2年(673)、これまで途絶えていた斎王の制度を確立させ、大来(大伯:おおく)皇女を斎王として伊勢神宮に奉仕させたことはよく知られている。

天武6年(678)には、伊勢、大倭、住吉、紀伊の四カ所の大神に幣を奉じている。だが、この頃伊勢神宮で祀っていたのは伊勢大神であり、伊勢地方の守護神としての性格を残していたとされている。天武10年(682)になって初めて皇祖の御魂を祀ったことが『書紀』に記されている。やっと天照大神が皇祖神として祀られるようになったということだろうか。文武天皇3年(699)になって初めて伊勢大神宮という呼称が『書紀』に登場する。

天武天皇の遺志を継いだ持統天皇の存命中に、伊勢神宮は皇室の宗廟としての基礎を固めたとされている。式年遷宮が始まったのは持統天皇2年(688)のこととされている。さらに、内宮の社殿配置は持統天皇が造営した藤原宮の殿舎配置と相似しているという。


■大海人皇子が迹太川で伊勢神宮を遙拝したその直後に、路直益人(みちのあたい・ますひと)が戻ってきて、鈴鹿関に来たのは山部王、石川王ではなく、大津皇子だったことを告げ、皇子の一行を伴った。大津宮に残して気になっていた高市皇子のみならず大津皇子も無事逃げ出してきて再会できたため、大海人皇子の喜びはひとしおであった。

■これから朝明郡家(あさけのこおりのみやけ、現在の三重郡朝日町縄生付近か?)に向かおうとしていたとき、村国連男依が駅馬に乗ってかけつけてきた。そして、美濃の軍勢3000人を集め、不破の道をふさいだと報告した。不破道は鈴鹿(すずか)道とともに交通の要所で、ここを抑えることで都と東国とが遮断された。このことの戦略的な意義は大きい。東国に対する大海人皇子の優位さは決定的となり、極論すれば壬申の乱の趨勢はこの時点で決したと言っても良い。

■大海人皇子は、一行を引き連れて朝明郡家に入った。そして、高市皇子大津皇子村国連男依らと今後の作戦会議を開いた。その結果、高市皇子を不破に遣わし、軍事を監督させることにした。また、舎人の山背部小田(やましろべの・おだ)と安斗阿加布(あとの・あかふ)を東海道に、稚桜部五百瀬(わかさくらべの・いおせ)と土師連馬手(はじのむらじ・うまて)を東山道にそれぞれ派遣して軍兵を募らせることにした。


天武天皇社の境内
天武天皇社の境内
桑名市鍋屋町の伝馬公園の南に、全国で唯一の天武天皇を祀る神社がある。社名もずばり天武天皇社である。由緒書きでは、大海人皇子が桑名に駐泊したことにちなみ建立されたとしている。古くは新屋敷の地にあったが、寛永12年(1635)新屋敷が武家屋敷とされたため、鍋屋町南側に移転され、さらに現在の鍋屋町北側に移されたという。祭神として、天武天皇の他に持統天皇と高市皇子を祀っている。

明治天皇が東京に行幸された時、当社のことを聞こし召され、明治2年6月14日に"伊勢国桑名郡本願寺村地内に鎮座する天武天皇社は旧跡の義につき、永世湮滅これ無きよう、同所取り締まり中の藩において取り計らうべし”との沙汰を下されたという。


■彼らの出発を見送った後、大海人皇子は桑名郡家(くわなのこおりのみやけ)に向かい、そこで宿営した。吉野を発って三昼夜で約140kmの行程を進んできたことになる。桑名郡家は現在の桑名市の北部にある蛎塚(かきづか)新田付近にあったのではないかと推測されているが、確証はない。蠣塚新田は、西半分は丘陵地、東半分は平地に位置する静かな集落地である。揖斐川沿いの沖積平野を東に見下ろす標高9m丘陵の端には、弥生時代後期から鎌倉時代にかけての蠣塚貝塚の遺跡がある。集落の奥の潅漑用ため池のそばに、縣(あがた)神社が鎮座している。
蠣塚新田・縣(あがた)神社
桑名郡家候補地の一つ蠣塚新田にある縣(あがた)神社


▼この日の夜、東国に向かった近江朝廷側の韋那公磐鍬(いなのきみ・いわすき)らが不破に入ろうとした。しかし、大海人皇子方の伏兵に、書直薬(ふみのあたい・くすり)と忍坂直大麻侶(おしさかのあたい・おおまろ)が捕らえられてしまった。これを見た磐鍬は恐れをなして逃げ帰ったという。


式内社尾津神社
「多度」駅近くに鎮座する式内社尾津神社
現在の桑名市街の大部分は、当時は湿地帯か海面下にあった。したがって、桑名郡家の所在地はもっと内陸部に求めなければならないが、現在までのところ、その遺跡は特定されていない。

上記の蠣塚新田の他にもいくつかの候補地が挙げられている。その一つに、多度町戸津付近がある。戸津は、聖武天皇の東国巡幸のとき石占頓宮(いしうらのかりみや)が営まれた土地である。付近には延喜式東海道伊勢国の駅家である「榎撫駅(えなつのえき)があった。当時は木曽川、長良川、揖斐川がこの辺りでは合流していて、榎撫駅は尾張国の馬津駅(現津島市)と水路で結ぶ古代交通路の要衝だった。榎撫駅は多度町北小山にある式内社・尾津神社付近に所在したと言われている。現在の近鉄養老線の「多度」駅近くである。



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6月27日 大海人皇子、桑名郡家から野上行宮に移る

野上行宮跡
野上行宮跡(推定地)

■この日、不破にいる高市皇子から使者が来た。桑名は最前線の不破から遠く、作戦指導に支障を来すため、不破近くまで出御されたいとの要請だった。鵜野讃良皇女(うののささらひめみこ)ら家族を桑名に残し、数名の舎人を従えて大海人皇子は不破へ向かった。


揖斐川の河口に位置する桑名から野上あるいは不破までは、大海人がどのルートを取ったか『書紀』に記載されていない。いろんな説が出されているが、最短距離を選ぶなら、桑名を出発して南濃に至り、そこから養老山地に入り、栗原・表佐(おさ)・宮代と北上すれば、野上までは全長約40km、約4時間で到達することができる。


不破郡家(岐阜県不破郡垂井町宮代)に到着するころ、尾張国司・小子部連鉗鉤(ちいさこべのむらじ・さひち)が尾張で徴発した2万の兵を率いて帰属してきた。大海人皇子は鉗鉤の労をねぎらい、兵士を直ちに各所に部署するように命じた。

■大海人皇子が不破郡家から野上(関ヶ原町野上)へ向かう途中で、前線本部のある和ざみケ原(JR東海道線関ヶ原駅付近)から高市皇子の迎えにきて、東国へ募兵に向かおうとしていた近江朝廷側の使者を昨夜捕らえたと告げた。

■野上に到着すると、大海人皇子は全軍の指揮を高市皇子に一任することを宣し、軍事指揮権を委譲した象徴として、鞍馬を高市皇子に授けた。大海人皇子は野上に行宮(かりみや)を設けた。



工事中
野上行宮付近
大海人皇子が野上行宮(のがみのかりみや)としたのは、尾張宿禰大隅(おわりのすくねおおすみ)の私邸である。『続日本紀』には、皇子が挙兵したとき、大隅が密かに近江を抜けだし私邸をはらい清めて行宮として提供したと記録されている。尾張大隅は、大海人皇子を育てた大海氏の同族であり、早い段階から皇子を支援してきたと思われる。

現在、野上行宮跡とされる場所が国道21号線沿いの畑の奥にある。国道脇のレストランで史跡の場所を尋ねると、店の主人が親切に教えてくれた。しかし、不案内な土地では、一度聞いただけではなかなか目的地にたどり着けない。結局、近くにある浄土真宗の真念寺でもう一度道を尋ねることになった。応対に出てきた初老の奥さんは、野上行宮のことを良く知っていて、史跡のある方向を指し示し、近道をするために寺の畑を通り抜けなさいとまで言ってくれた。畑を抜けると、寺の墓地に続く小径がある。その小径を入っていくと、墓地の奥に「野上行宮跡」の案内板が立っていた。案内板の奥の雑草が生い茂った野原あたりに、行宮があったようである。


■その夜、野上地方に雷鳴がとどろき豪雨が降った。大海人皇子が祈り占って「天神地祇の神々よ、我々を加護するなら、直ちに雷雨をやめたまえ」と言うと、雷雨は止んだという。


「壬申紀」では、この種の説話が随所に盛り込まれている。名張の横河では、真夜中にもかかわらず黒雲が天をたなびいたので、大海人皇子は自ら卦を行なって、天下分け目の戦いで自分が勝利する兆しであると宣言した。7月7日には、倭古京防衛軍の中にいた高市県主許梅(たけちのあがたぬし・こめ)が神懸かりして、神武天皇の山稜に馬と種々の兵器を奉れとの託言があった。


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6月28日 前進基地の「和ざみケ原」で軍事訓練を検閲する

■この日、大海人皇子は野上行宮から前進基地のある和ざみケ原に赴き、高市皇子の司令のもとに行われている軍事訓練を検閲している。この頃、和ざみケ原には、東国(美濃・尾張・三河・甲斐・信濃方面)からの兵が集結しつつあったと思われるが、その数は不明である。


和ざみケ原は、古代に見える地名で関ヶ原一帯に比定されている。『書紀』の記述による限り、大海人軍の本営は野上に置かれ、和ざみケ原は兵士たちの駐屯地だったようだ。
工事中
石田三成が陣を張った笹尾山から見た関ヶ原

桃配山
徳川家康の最初の陣地・桃配山
大海人皇子の行宮があったとされる「野上」から「関ヶ原(和ざみケ原)に向かう国道21号線沿いに、小さな小山がある。「桃配山(ももくばりやま)という。慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の合戦で、徳川家康が最初の陣を置いた場所として知られている。現在山頂に2つの岩があり、家康が作戦会議を開いた折にテーブルと腰掛けに使用したという。桃配山という一風変わった名称に関して、次のような伝承が残されている。

大海人皇子が不破の野上の行宮に入った日、野上郷をはじめ不破の人々が皇子を慰めようと、よく色づいた山桃を三方に載せて献上した。行宮に着くが早いか桃で出向かえられ、しかも賞味してみるとなかなか味も良かったので、皇子は近郷近在の桃をすべて買い上げ、戦場における魔よけの桃として、軍団兵士全員に一つずつ配らせた。桃を貰った兵士たちの士気は大いに高まり、連戦連勝して壬申の乱で勝利した。この桃の奇縁によって、桃を配ったところを「桃配山」とか「桃賦野」と呼ぶようになったという。

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6月29日 前日に引き続き、終日閲兵にあたる

■昨日に続き、大海人皇子が野上行宮から和ざみケ原がやってきて、終日閲兵にあたった。

■この日、大海人皇子は高市皇子に命じ、出撃の日が近いことを全軍に告げさせた。だが出陣命令は下知されていない。


この日の朝、飛鳥では大伴連吹負(おおとものむらじ・ふけい)が数十騎を率いて出撃し、奇襲攻撃で倭古京を占拠した。壬申の乱は倭古京でまず戦端を開いたのである。

和ざみケ原にいる大海人軍が出陣を開始したのは7月2日になってからである。予定していた兵の数がなかなか集まらなかったのか、それとも倭古京の戦いの帰趨を眺めていたのか、全軍が動き出すのはずいぶんと遅れた。


【関連史跡】不破関(ふわのせき)
西暦672年6月26日の朝、大海人皇子が朝明郡家(あさけのこおりのみやけ)に赴こうとしていたとき、美濃に派遣していた舎人(とねり)の村国連男依(むらくにのむらじ・おより)が駅馬で駆けつけ、こう奏上した。
「美濃の軍勢3000人を集め、不破の道をふさぐことができました」
大海人皇子は男依の手柄をほめ、壬申の乱での勝利を確信した一瞬である。

不破は、濃尾平野の西の端に位置し、北を伊吹山の山地、南を養老および鈴鹿の山地に挟まれた峡谷である。近江国から美濃に入った東山道は、国境のこの狭い山峡を抜けて行かねばならず、まさに交通の要衝であった。この地を抑えることで大津・京と東国との連絡を遮断することができる。

壬申の乱の後、この地に不破関が設けられた。不破関は鈴鹿関および愛発関とともに、古代には三関と呼ばれたが、その設置時期は必ずしも明確ではない。『三関要記』では天武天皇元年(672)3月としているが、『帝王編年記』では、天武天皇2年(673)7月としている。不破関は天智天皇の時代に成立したとする説もある。

不破関復元模型
不破関復元模型が示す内郭部(不破関資料館パンフより)

不破関資料館
不破関資料館
三関が警備的機能と軍事的機能を兼備するものとして法的に確定されるのは、大宝令(701年制定)によるとされている。発掘調査の所見からも、不破関の創建は7世紀末から8世紀初頭とされ、8世紀中葉には畿内および国衙建築の影響を受けた造営または改造が行われたと推定されている。

国家の非常事態に備えるために設置された不破関だったが、その維持に大きな負担がかかったためか、早くも延暦8年(789)に廃止されてしまった。そのため、その規模や構造は全く不明のままだった。昭和49年(1974)から52年(1977)にかけての発掘調査によって、ようやく概要がほぼ明らかになった。

不破関跡
不破関資料館近くにある不破関跡
不破関は藤古川を見下ろす台地の端に位置し、急な崖を西限とし、北・東・南の三方を土塁で囲んでいた。その大きさは北限土塁が460m、東限土塁が432m、南限土塁が112m。ほぼ中央部を東西方向に東山道が通り、その道に接して北側に関の中心である内郭があった。

上記の発掘成果を展示する目的で設置された不破関資料館が関ヶ原町松尾21−1に開館している。この資料館では、関の歴史の解説や発掘品が展示してあり、不破関を知るための好個の歴史館である。 。



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