672年5月 近江朝廷側の動向を伝える情報が決起を促す
■『書紀』は、大海人皇子が挙兵した動機を次の2つに求めている。まず、私用で美濃に行っていた舎人の朴井連雄君(えのいのむらじ・おきみ)が重大な情報をもたらした。 ■近江朝廷は、美濃と尾張の国司に対して「天智天皇の陵(みささぎ)を造るためにあらかじめ人夫を指定しておけ」と通達し、武器の携行させて人夫を徴用するよう命じているという。美濃には大海人皇子の湯沐(ゆのう、古代の皇子の私領)がある。明らかに大海人方の挙兵を牽制するために、天智天皇陵造営を名目にした募兵の動きがすでに始まっていた。
■そこで、皇子は、自分の身に危険が迫っていること知り、周りの者にこう言った。
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6月22日 舎人の村国連男依らを先発隊として美濃に派遣する
■美濃国の安八磨郡(やはちまのこおり、現在の岐阜県安八郡全域と海津郡の一部)には、大海人皇子の私領である湯沐(ゆのう)があり、その管理者である湯沐令(ゆのうながし)は、多臣品治(おおのおみ・ほむち)が務めている。決起を決意した大海人皇子は、この日最初の手を打った。舎人の村国連男依(むらくにのむらじ・おより)、和珥部臣君手(わにべのおみ・きみて)、身気君広(むげのきみ・ひろ)の三人の美濃派遣である。 ■彼らに与えた任務は、多臣品治に機密を打ち明け、美濃の兵を集めさせること、さらに、東国(現在の三重県東部・岐阜県・愛知県・長野県)の豪族たちに触れを出して軍勢を出させ、不破道(ふわのみち)を速やかに塞ぐことだった。不破道は近江と美濃両国の境にあり、東国へ向かう要路である。
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6月24日 吉野を出て、山道を伊賀に向かう
■駅鈴とは、当時官道に配置された駅馬を使用するための公用の鈴である。駅鈴を求めさせた理由が今ひとつ理解できない。『書紀』は、計画の露見を恐れて村国連男依(むらくにのむらじ・おより)たちを美濃から呼び戻すためだったと伝える。だが、すでに賽は投げられた。村国連男依たちはすでに行動を開始している。この期に及んで皇子に決起を躊躇する気持ちがあったとは思えない。 ■駅鈴を求めさせたというのは、『書紀』の文飾であろう。おそらく高坂王を説得して味方につけるため、王の腹の探りにいったものと思われる。後に大伴連吹負(おおとものむらじ・ふけい)が決起して倭古京を占領すると、高坂王はすなおに彼の軍門に下っている。近江朝廷の官吏である立場を別にすれば、心情的には大海人皇子を支援していたとも思われる。 ■大海人皇子は、駅鈴が得られない場合を想定して、三人にそれぞれ別の使命を与えた。大分君恵尺(おおきだのきみ・えさか)は、その足で大津へ直行し、高市皇子(たけちのみこ)と大津皇子(おおつのみこ)を救出せよ。黄書造大伴(きふみのみやつこ・おおとも)は大伴連吹負と落ち合い、倭古京占拠の段取りをつけよ。逢臣志摩(おうのおみ・しま)は直ちに吉野に引き返し、高坂王との交渉結果を報告せよ。これが大海人が下した密命だった。 ■吉野に戻ってきた志摩は駅鈴が得られないことを報告した。大海人皇子はただちに出発の命令を下した。すでに吉野脱出の準備は整っていた。ただ、馬の手配が間に合わなかったため、徒歩で吉野を脱出することにした。この吉野脱出に従ったのは、鵜野讃良皇女(うののささらひめみこ)、草壁皇子(くさかべのみこ)、忍壁皇子(おさかべのみこ)および舎人の朴井連雄君(えのいのむらじきみ)ら20人余り、侍女たち10人余りである。 ■津振川(つふりがわ、現在の津風呂川)まで来たとき、県犬養連大伴(あがたのいぬかいのむらじ・おおとも)らが乗馬を調達して追いついてきた。そこで、大海人皇子は馬に乗った。鵜野讃良皇女と二人の幼い皇子は輿に乗った。
■飛鳥時代の狩り場として知られる菟田の吾城(うだのあき、奈良県宇陀郡宇陀町)の辺りまで来て、大海人皇子の一行は遅い食事を取った。現在のかぎろひの丘・万葉公園から阿騎野・人麻呂公園にかけての一帯が、当時の菟田の吾城だったとされていて、近くに阿紀神社(あきじんじゃ)がある。この付近には大海人皇子の屯田(みた)があったらしく、屯田司(みたのつかさ)の土師連馬手(はじのむらじ・まて)が食事を用意してくれた。
■さらに、前進を続けると、大伴連馬来田(おおとものむらじ・まくた)と黄書造大伴(きふみのみやつこ・おおとも)が追いついてきた。馬来田は倭古京の決起を弟の吹負に任せて、自身は大海人皇子を護ろうと、帰任する大伴に同行してきたのである。 ■甘羅村(かむらのむら)まで来たとき、大伴朴本連大国(おおとものえのもとのむらじ・おおくに)を首領とする20人の猟人と出会った。大伴一族の者たちだったので、馬来田は大国を説き伏せて一行に加わるよう命じた。
■菟田郡家(うだのこおりのみやけ)のあたりで、馬50頭を率いた一団と出会った。伊勢から米を運んできた一団である。大海人は彼らから馬を徴発すると、馬の背から米を降ろさせ徒歩の者にあてがった。菟田郡家は今日の榛原駅の西北の西峠付近とされている。
■夜半になって、伊賀の名張郡に入り、駅家(うまや)を焼き払った。そして、伊賀の豪族達に援軍を募集を募った。応じるものは誰もいなかったという。 ■名張の横河(名張川)まで来たとき、真夜中にもかかわらず、黒雲が天をたなびいているのが見えた。誰もが怪しんで行軍を続けるのに不安になったため、大海人皇子は自ら卦を行なった。そして、黒雲は天下が分かれるきざしと解釈し、しかも自分が勝利すると宣言した。 ■一行はさらに夜道を急いで、伊賀郡(三重県伊賀郡の東部)に入った。伊賀駅家を焼きはらって先へ進むと、伊賀の中山(上野市南部)で一行を待ち受けている者がいた。数百の軍勢を率いた伊賀の郡司たちで、大海人皇子に参軍を申し出た。
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6月25日 高市皇子が大津宮を出奔してくる■夜通し行軍して、明け方に刺萩野(たらの)に着くと、小休止して食事をとった。刺萩野は現在の三重県上野市荒木付近に比定されている。決闘鍵屋の辻の三十六人斬りで有名な剣豪・荒木又衛門の生誕地である。国道163号が服部川に架かる橋の近くに、又衛門生誕地の碑が建っている。
■大海人皇子の一行が積殖(つむえ、伊賀国拓殖)の山口まで来たとき、甲賀を越えてきた高市皇子(たけちのみこ)が合流してきた。
■伊賀を抜ける道は、山道とは違って平坦で進みやすい野道であるが,敵から身を隠す木々はない。さらに、伊賀(三重県上野市)の東部は大友皇子の母の地(現大山田村)である。いつ敵に襲われるかも分からず、緊張の連続だったに違いない。
■伊賀と伊勢との間には大山と呼ばれた加太(かぶと)峠がある。しかし、国境の加太峠といっても、標高は310mにすぎない。名阪国道は加太トンネルで山地を抜けるが、平行して走る国道25号線は、それまでの平野の端に遠望していた山並みが近づいたあたりから曲がりくねった山道に入っていく。国道沿いに大規模な採掘現場があり、砕石した石を運ぶダンプの往来で埃っぽい道が続く。道はやがてJRの陸橋の下を抜け、さらにその先の昔の街道の面影が残る加太北在家の集落へと続いている。
■国道25号線にかかる大和橋まで来ると、かっての関宿が遠望でき、やっと加太峠を越えてきたことが実感できる。やがて左手から鈴鹿峠を越えてきた国道1号線に合流する。このあたりは鈴鹿越えの東海道と加太越えの大和街道の分岐点で、江戸時代の東海道53次の第47番目の宿場町として栄えた関宿の西の端にあたることから、西追分(にしおいわけ)と呼ばれている。西追分から関宿の東の入口にあたる東追分までの旧東海道沿いの町並みは現在重要伝統的建物保存地区に指定されている。
■大海人皇子の一行も、伊賀国司からの追っ手がかかることを気にしながら、必死で加太峠を越えたはずである。当時の峠越えは現在の国道のルートとは異なっていたとする説がある。現在の関町加太北在家の東にある加太神武(かぶとじんむ)から加太川の南岸の山道を進み、関町古厩(ふるまや)へ出たという。この道は名阪国道の関トンネルの上を行く険路である。いずれにせよ、加太峠を越えて伊勢の国の鈴鹿郡(三重県鈴鹿郡関)に入って、ようやく安堵の表情が全員の顔に浮かんだ。さらに吉報が彼らを待っていた。鈴鹿郡家の前で、彼らを迎える一団がいるというのである。 ■一団は伊勢国司・三宅連石床(みやけのむらじいわとこ)、介三輪君子首(すけみわのきみ・こびと)、湯沐令(ぬようながし)の田中臣足麻呂(たなかのおみ・たりまろ)、高田首新家(たかたのおびと・にいのみ)たちだった。そこで、大海人皇子は彼らに500の軍勢を集めさせて、鈴鹿の山道の守りを固めさせた。
■川曲の坂下(かわわのさかもと、三重県鈴鹿市山辺付近か)で日が暮れた。鵜野讃良皇女(うののささらひめみこ)が疲れていたので、しばらく御輿を留めて休憩することにした。雨模様の天候だった。夜間行軍を続けたが、雷雨に見舞われ寒さも加わったため、三重郡家(みえのこおりのみやけ)に着くと、家を一軒焼いて暖を取った。
■夜半に鈴鹿関の司からの使者が来て、山部王(やまべのおおきみ)や石川王(いしかわのおおきみ)らが服属するためにやってきたので関に留めていると伝えた。二人を呼び寄せるために、大海人皇子は路直益人(みちのあたい・ますひと)を派遣した。
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6月26日 美濃不破道の占拠に成功する■この日の朝、伊勢の朝明(あさけ)郡の迹太川(とおかわ、現在の朝明川)のほとりに至ったとき、大海人皇子は小休止を命じた。そして、自分自身は迹太川のほとりに立って伊勢の海のはるか彼方にある天照大神を祀る社を遙拝したという。
■大海人皇子が迹太川で伊勢神宮を遙拝したその直後に、路直益人(みちのあたい・ますひと)が戻ってきて、鈴鹿関に来たのは山部王、石川王ではなく、大津皇子だったことを告げ、皇子の一行を伴った。大津宮に残して気になっていた高市皇子のみならず大津皇子も無事逃げ出してきて再会できたため、大海人皇子の喜びはひとしおであった。 ■これから朝明郡家(あさけのこおりのみやけ、現在の三重郡朝日町縄生付近か?)に向かおうとしていたとき、村国連男依が駅馬に乗ってかけつけてきた。そして、美濃の軍勢3000人を集め、不破の道をふさいだと報告した。不破道は鈴鹿(すずか)道とともに交通の要所で、ここを抑えることで都と東国とが遮断された。このことの戦略的な意義は大きい。東国に対する大海人皇子の優位さは決定的となり、極論すれば壬申の乱の趨勢はこの時点で決したと言っても良い。 ■大海人皇子は、一行を引き連れて朝明郡家に入った。そして、高市皇子、大津皇子、村国連男依らと今後の作戦会議を開いた。その結果、高市皇子を不破に遣わし、軍事を監督させることにした。また、舎人の山背部小田(やましろべの・おだ)と安斗阿加布(あとの・あかふ)を東海道に、稚桜部五百瀬(わかさくらべの・いおせ)と土師連馬手(はじのむらじ・うまて)を東山道にそれぞれ派遣して軍兵を募らせることにした。
■彼らの出発を見送った後、大海人皇子は桑名郡家(くわなのこおりのみやけ)に向かい、そこで宿営した。吉野を発って三昼夜で約140kmの行程を進んできたことになる。桑名郡家は現在の桑名市の北部にある蛎塚(かきづか)新田付近にあったのではないかと推測されているが、確証はない。蠣塚新田は、西半分は丘陵地、東半分は平地に位置する静かな集落地である。揖斐川沿いの沖積平野を東に見下ろす標高9m丘陵の端には、弥生時代後期から鎌倉時代にかけての蠣塚貝塚の遺跡がある。集落の奥の潅漑用ため池のそばに、縣(あがた)神社が鎮座している。
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6月27日 大海人皇子、桑名郡家から野上行宮に移る
■この日、不破にいる高市皇子から使者が来た。桑名は最前線の不破から遠く、作戦指導に支障を来すため、不破近くまで出御されたいとの要請だった。鵜野讃良皇女(うののささらひめみこ)ら家族を桑名に残し、数名の舎人を従えて大海人皇子は不破へ向かった。
■不破郡家(岐阜県不破郡垂井町宮代)に到着するころ、尾張国司・小子部連鉗鉤(ちいさこべのむらじ・さひち)が尾張で徴発した2万の兵を率いて帰属してきた。大海人皇子は鉗鉤の労をねぎらい、兵士を直ちに各所に部署するように命じた。 ■大海人皇子が不破郡家から野上(関ヶ原町野上)へ向かう途中で、前線本部のある和ざみケ原(JR東海道線関ヶ原駅付近)から高市皇子の迎えにきて、東国へ募兵に向かおうとしていた近江朝廷側の使者を昨夜捕らえたと告げた。 ■野上に到着すると、大海人皇子は全軍の指揮を高市皇子に一任することを宣し、軍事指揮権を委譲した象徴として、鞍馬を高市皇子に授けた。大海人皇子は野上に行宮(かりみや)を設けた。
■その夜、野上地方に雷鳴がとどろき豪雨が降った。大海人皇子が祈り占って「天神地祇の神々よ、我々を加護するなら、直ちに雷雨をやめたまえ」と言うと、雷雨は止んだという。
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6月28日 前進基地の「和ざみケ原」で軍事訓練を検閲する■この日、大海人皇子は野上行宮から前進基地のある和ざみケ原に赴き、高市皇子の司令のもとに行われている軍事訓練を検閲している。この頃、和ざみケ原には、東国(美濃・尾張・三河・甲斐・信濃方面)からの兵が集結しつつあったと思われるが、その数は不明である。
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6月29日 前日に引き続き、終日閲兵にあたる■昨日に続き、大海人皇子が野上行宮から和ざみケ原がやってきて、終日閲兵にあたった。 ■この日、大海人皇子は高市皇子に命じ、出撃の日が近いことを全軍に告げさせた。だが出陣命令は下知されていない。
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