壬申の乱序曲:翼を着けて野に放たれた虎

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西暦671年(天智10年)

■10月17日 大海人皇子、近江大津宮で剃髪

■10月19日 近江大津宮から飛鳥嶋宮へ

■10月20日 芋ケ峠(おがとうげ)を越えて吉野へ

■12月3日  天智天皇、大津近江宮で崩御す


10月17日 大海人皇子、近江大津宮で剃髪

復元模型
近江大津宮跡復元模型
■671年の冬10月17日のことである。覇業を成し遂げた天智天皇近江大津宮で重い病の床にあった。余命幾ばくもないことを悟った天皇は、大海人皇子(おおあまのみこ)を寝所に呼び寄せた。そして、こう切り出した。「私の病は重いので、皇位をそなたに譲りたいが、受けては貰えないか」と。

■だが、大海人皇子は寝所に入る前に、使者として赴いた蘇我臣安麻呂(そがのおみ・やすまろ)から「注意して返答しなさい」と忠告されていた。天皇の真意は別の所にあると、とっさにその意図を見抜いた大海人皇子は、皇位に就くことを強く辞退した。

■大海人皇子は、皇后の倭姫(やまとひめ)に皇位を授け、自分の代わりに大友皇子(おおとものみこ)を皇太子にすることを勧めた。そして自らは出家して、天皇のために仏事を修行したいと願い出た。天皇の許しを得ると、皇子は直ちに内裏の仏殿の南で髪を切り沙門の姿になった。そして、自邸に帰るや兵器をことごとく官司に差し出した。天皇は使者を派遣して大海人皇子に袈裟を贈ったという。


大友皇子
大友皇子
当初、天智天皇は自分とともに政治に参与してくれた実弟・大海人皇子に皇位を継がせる予定でいたとされている。だが、伊賀国山田郡の郡司の娘で采女(うねめ)だった宅子娘(やかこのいらつめ)に実子の大友皇子が生まれると、これを溺愛した。当時は皇族の娘以外に生ませた皇子は皇位継承権がないとされた。だが、天皇は24歳になった大友皇子を太政大臣に任じた。薨去する年の1月5日のことである。

誰の目にも、天智天皇の真意は大友皇子を後継者とすることにあるのは見えていた。兄に疎んじられることになった大海人は、蘇我臣安麻呂の忠告を待つまでもなく、兄が皇位継承を口にしたとき、我が身が累卵の危うきにあることを十分察知していたと思われる。我が身の危険回避のために皇子が取った対策は、出家隠遁である。


【関連史跡】
 大津市は、2003年10月に全国で10番目の「古都」の指定を受けた。天智天皇の「近江大津宮」がこの地に所在したためである。だが、宮の所在が特定できず、大津宮は長い間”幻の宮”とされてきた。

 『書紀』は、667年3月、中大兄皇子が飛鳥から近江へ都を遷して近江大津宮(おうみおおつのみや)とし、翌年1月に新しい宮で天智天皇として即位したと記す。しかし、672年9月には、壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥に凱旋し、その年の冬に飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を築いた。したがって、この地に「近江大津宮」が存在したのは、わずか5年余りに過ぎない。

 1974年と1978に、大津市内の錦織地域で発掘調査が行われ、古代建物の柱跡や、柵、門、倉庫群、石敷溝などが見つかった。その配列や規模から、この地が大津宮の中心部であることが分かり、1979年に「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定された。現在、発掘跡は埋め戻され、小さな史跡公園になっている。場所は京阪石坂線の「近江神宮前」駅のすぐ近くだ。

大津宮錦織遺跡
史跡近江大津宮錦織遺跡


10月19日 近江大津宮から飛鳥嶋宮へ

■二日後の10月19日、大海人皇子は天皇を見舞い、吉野に入山し仏道修行をする許可を求めた。許可を得るや、直ちに吉野宮(奈良県吉野郡吉野村)へ向けて出発した。一行は逢坂峠を越えて山背に出ると、そのまま宇治に向かった。近江朝の左大臣・蘇我臣赤兄(そがのおみあかえ)、右大臣・中臣連金(なかとみのむらじ・かね)、御史大夫(後の大納言)の蘇我臣果安(そがのおみ・はたやす)など主な政府要人が、宇治川にかかる宇治橋まで一行を見送った。

■宇治橋は大化2年(646)に法興寺の僧・道登(どうと)によって最初に架けられたと伝えられている。25年前に架けられたこの橋の手前で、大海人皇子の一行は見送りの政府要人たちに別れをつげ、橋を渡っていった。このとき、ある人が「虎に翼を着けて放てり」と言ったという。

■この吉野行きに同行したのは、鵜野讃良皇女(うののささらひめみこ)、草壁皇子(くさかべのみこ)、忍壁皇子(おさかのみこ)、および朴井連雄君(えのいのむらじ・おきみ)をはじめとする40人余りの舎人(とねり=地方出身の近侍の護衛)たちと10人余りの侍女たちであるとされている。一行は、嶋宮で一泊し、強行軍で疲れ切った身体を休めた。

宇治橋
宇治橋

琵琶湖から南に流れ出る瀬田川は、大石地区で西に折れ宇治川と名前を変える。藤原京や平城京の造営の際に、この川を利用して、伐採した材木を筏を組んで流し、いったん巨椋池(おぐらいけ)に出て、そこから木津川をさかのぼり、現在の相楽郡木津町あたりで陸揚げしたという記録がある。大海人たちも川船で宇治川を下ったと考えられないこともない。だが、この川は近江の国と宇治を隔てる山地の間を通るため、その流れは他の河川に類を見ないほど急であった。したがって、上に述べたような陸路を選んだものと推察される。

宇治からは、古北陸道を南下して大和盆地に入り、その後は大和盆地を南北に貫通する「中つ道」を進んだものと思われる。その日の夕方、一行は嶋宮(しまのみや、明日香村島の庄の離宮)に到着した。


嶋宮跡の発掘現場
蘇我馬子の邸宅&嶋宮跡の発掘現場(H16/03/12撮影)
【関連史跡】
 嶋宮(しまのみや)は、蘇我馬子(そがのうまこ)の墓とされる石舞台古墳の西側で、もと高市小学校があった場所に位置していた。蘇我本宗家滅亡の後に馬子の邸宅を宮としたと言われている。嶋宮と呼ばれるようになったのは何時の頃か不明だが、後に草壁皇子(天武天皇の子)の宮となっている。

 1972〜74年に明日香村の島庄遺跡の発掘調査が行われ、底に石を敷いた立派な方形池跡が発見された。さらに、2004年3月には、高市小学校跡地から建物跡が発掘され、一般に公開された。

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10月20日 芋峠(いもとうげ)を越えて吉野へ

芋峠
現在の芋峠

■その日は、雪交じりの冷たい氷雨が降りしきる寒い一日だった。早朝嶋宮を出発した一行は、棚田が美しい稲淵の田園風景には目もくれず、芋峠に続く林間のほの暗い山道を一気に登っていった。

芋峠から見た吉野方面
芋峠から見た吉野方面
■兄の気持ちが変わり、追っ手を差し向けてくるかもしれない。そんな不安に駆られて、昼なお暗い芋峠を一刻も早く越えて吉野へ入りたかった。大海人皇子は、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の哀れな末路を自分の運命に重ね合わせていたに違いない。

■26年前の皇極天皇4年6月、大海人皇子と同じように、古人大兄皇子もまた皇位継承の要請を受けた。だが、その裏でさまざまな政治的な陰謀が渦巻いていた。それを感知した皇子は、皇位継承を辞退し、飛鳥寺の仏殿と塔の間で剃髪し吉野に入山した。

吉野の宮滝
吉野の宮滝遺跡
■しかし、それからわずか3ヶ月後に謀反の告発を受け、朝廷が差し向けた兵によって古人大兄皇子は親子ともども殺害されてしまった。謀反は仕組まれた罠だった。それを仕組んだのは、中大兄皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)その人だった。全く酷似した運命の糸に導かれて吉野に逃れる大海人には、古人大兄皇子と同じ末路をたどってなるものかとの思いが、沸々とわき上がっていたはずである。

■吉野宮(よしののみや)は飛鳥時代に信仰を集めていた青根ケ峰(水分山、みくまりやま)を真南に見る場所に造営されていた。吉野宮に到着した大海人皇子は、随行してきた(とねり)たちにに対して
「自分と一緒に仏道の修行したいと思うものは留まってもよいが、朝廷に仕えて名をなそうと思うものは引き返せ」
と諭した。最初は誰も帰る者がいなかったが、再度諭すと舎人の半分は退出したという。まるで、忠臣蔵の大石内蔵助が家臣達に籠城の覚悟のほどを試す一場面のようである。


明日香村の飛鳥歴史公園祝戸地区の前を通る県道15号線は、飛鳥川に寄り添うように峡谷へ入っていく。稲淵(いなぶち)あたりの棚田の美しさは飛鳥の風物の一つとして有名だが、栢森(かやのもり)の集落を過ぎると、いよいよ山道にさしかかる。曲がりくねった山道を登り切ると突然視界が開ける。芋峠である。1333年前の冬10月20日、大海人皇子の一行はこの峠を越えて吉野に入った。

芋峠付近の山頂に続く山道
芋峠付近の山頂に続く山道
現在の芋峠越えは、舗装された県道を通って簡単に吉野へ出られる。しかし、曲がりくねった山道であることに変わりはなく、途中一台の対向車にも出会わなかったほど寂しい裏街道である。

峠近くの路傍に「芋峠山頂」方面を示す標識が立っていたので、杉葉に埋もれた山の急斜面を標識に従って上ってみた。獣道のような細い道を上りきった山頂付近には、何もなかった。古代の芋峠越えは山頂を通ったのかと思ったが、どうやら違うようだ。標識は、単に芋峠付近の山頂を示しただけの表示だった。

だが、考え直してみると、壬申の乱当時の芋峠越えの山道も、この山頂への道と大差なかったのかもしれない。飛鳥から吉野へ旅するには、当時の幹線道路だった紀路を利用すれば、はるかに楽だったはずである。しかし、大海人皇子の一行が芋峠越えを選んだのは、一刻も早く吉野へ逃れたいとの必死の思いがあったのであろう。胸突き八丁の山道を登っていく彼らの激しい息づかいが耳元で聞こえるようだ。


後年、身に危険の迫ったことを悟って吉野へ逃れた時を回想して詠んだものと推測されている天武天皇の歌が、万葉集の巻1に記載されている。
 み吉野の 耳我(みみが)の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間(ま)無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道を(巻1-25)
 耳我の嶺はどこの山を指すのか不明であるが、吉野山中の高峰であろうという。天候にも見放されて、雪交じりの雨が降りしきる山道を急ぐ皇子の暗澹たる心境がそのまま伝わってくる歌である。


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12月3日 天智天皇、大津近江宮で崩御す

琵琶湖畔
近江大津宮跡近くの皇子山古墳から見た琵琶湖畔

■稀代の専制君主・天智天皇近江大津宮で崩御した。享年46歳。9月に病気で倒れ長い間病床にあったため、ある程度予想された死ではあったろう。だが、前途多難なときに有能な君主を失ったことに変わりはない。南の吉野には、翼を着けて野に放たれた虎がいる。西の九州には、唐の使人・郭務宗(かくむそう、宗の字は正確にはりっしんべんが付く)が、総計2千人を引きつれ、船47隻で白村江の敗戦処理のために来航していた。来るべき嵐を予感させるように、その日、琵琶湖の水面は波が荒く、湖上は低い雪雲に覆われていたであろう。

■父王の死を覚悟した大友皇子は、10日前の11月23日、大津宮の西殿に飾られた仏像の繍帳の前に5人の要人を侍らせた。そして、天皇の命に従って、大友皇子の政治を結束して盛り立てることを、手に香炉をもって誓わせた。『書紀』はそのときの5名の名前を記録している。左大臣・蘇我臣赤兄(そがのおみ・あかえ)、右大臣・中臣連金(なかとみのむらじ・かね)、および御史大夫の蘇我臣果安(そがのおみ・はたやす)、巨勢臣人(こせのおみ・ひと)、紀臣大人(きのおみ・うし)である。

■これら政府の中枢にいた要人たちは、後の壬申の乱でいずれも大友皇子に荷担していることに注目してよい。誰一人として大海人皇子方に寝返っていないのは、『書紀』の筆法はどうであれ、当時の人心は近江朝廷側に正義があると見ていたと考えてよい。彼らの視点に立てば、吉野で挙兵した大海人皇子は「逆賊」ということになる。


天智天皇陵の参道
天智天皇陵の参道
天智天皇陵遠望
天智天皇陵遠望
■12月11日、新たに設営された殯宮(もがりのみや)で、大友皇子が喪主となって盛大な葬儀が営まれた。天智天皇の危篤および崩御の際に皇后の倭姫(やまとひめ)はじめ、石川夫人額田王(ぬかたのおおきみ)らが詠んだ歌が万葉集巻2に納められている。そのいくつかを紹介しよう。

天の原 ふりさけ見れば 大君の 御寿(みいのち)は長く 天(あま)足らしたり 倭姫 (巻2-147)
【意味】大空を仰いで見れば、大君の御命は長久に天いっぱいに充ち満ちてる。
青旗の 木幡(こはた)の上を かよふとは 目には見れども 直(ただ)に逢はぬかも 倭姫 (巻2-148)
【意味】山科の木幡のあたりを御魂(みたま)が通っておられると目には見えるけれども、もはや直接には天皇にはお会いできないことよ。
かからむと かねて知りせば 大御船(おおみふね) 泊(は)てし泊りに、標結(しめゆ)はましも 額田王 (巻2-151)
【意味】こうなるだろうと前から分かってのだったら、天皇のお乗りになる舟の泊まっている港にシメを張って、大御舟をとどめて、天皇が天路へ旅立たれないようにするのだったのに。
(注)意味は、岩波書店発行の日本文学大系「万葉集1」による。


天智天皇陵
山科にある天智天皇陵

■不思議なことに、天智天皇を埋葬した御陵の名も場所も『書紀』に記載されていない。ただ、万葉集にされた額田王の長歌(巻2-155)に「山科の鏡の山」とあることから、『延喜式』は山科山陵を墓所としているにすぎない。一方、『扶桑略記』は、天智天皇が山科に行幸した際に山林に入ったまま還御せず、崩所が不明であるとする一説を載せている。病死したのではなく、山科に猟に出かけ行方不明になってしまったというのである。作家の井沢元彦氏は、この説をもとにして1990年に「隠された天皇」という歴史推理小説を上梓した。その中で、天智天皇は暗殺されたのであり、犯人は大海人皇子としている。推理小説としては面白いが、はたしてどうであろうか。


吉野の宮に身を引いた大海人皇子は、実兄の訃報をどのような気持ちで聞いたであろうか。芋峠を越えて吉野に入った日から翌年の5月まで、『書紀』は大海人方の動静を一切伝えていない。

しかし、近江大津宮には、人質同然に残してきた高市皇子(たけちのみこ)や大津皇子(おおつのみこ)がいた。今は兄の妃になっているが、かっては大海人皇子の妃だった額田王や、額田王との間に設けた娘で今は大友皇子の妃となっている十市皇女(といちのひめみこ)がいた。十市皇女は近江朝廷内部の情報を鮎の腹に詰めた手紙で父に知らせていたとの伝承が残されている。事の真相はどうであれ、何らかのルートで近江朝廷の動向が逐一大海人皇子の耳に届いていたと見るのが自然である。

さらに、身の安全のために出家隠遁を口実にしたにすぎない大海人が、何もしないで半年以上も仏道修行に励んでいたとは、とても思えない。『書紀』の筆法は、近江朝廷方の不穏な動きを察知してやむを得ず挙兵したという筋書きになっている。しかし、吉野に入ったその瞬間から、挙兵の準備にとりかかったと考えるべきであろう。事前の十分な準備期間がなければ、短期間に数万の兵を集めることなど不可能だ。


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