西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん) 3世紀に築かれた四隅突出墓6基が形作る日本版「王家の谷」

出雲弥生の森
西谷墳墓群史跡公園「出雲弥生の森」

 見 学 メ モ

【所在地】出雲市大津町字西谷 史跡公園「出雲弥生の森」内
【遺跡】四隅突出型墳丘墓6基など
【築造時期】弥生時代後期
【アクセス】出雲市駅から一畑バス(寿生病院・一畑車庫行き) 寿生病院入口下車徒歩5分。または、出雲市駅より徒歩約20分。


4月29日にオープンした西谷墳墓群史跡公園「出雲弥生の森」


標識
生時代後期後半の3世紀、出雲平野を見下ろす西谷丘陵に、布団を掛けたこたつの形の四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゆつがたふんきゅうぼ)中心とする墳丘墓群が築かれた。この墳丘墓群が発見されたは、今から50年前の1953年である。西谷丘陵の開発中に、現在の4号墓の墳丘付近で大量の土器が発見され、この一帯が遺跡であることが初めて確認された。

掘調査によって、この遺跡の墳丘墓の数は27基にも達し、その他に土塊墓(どごうぼ)および石棺墓(せっかんぼ)5基も確認され、「西谷古墳群」と命名された。特に注目されているのが、西側と北側の丘陵に築かれた6基(1〜4、6、9号)の四隅突出型墳丘墓である。3号墓や9号墓は突出部分を含めると50mにもなる巨大なものであり、全国的に見ても、弥生時代最大級の王墓として注目されている。そのため、当時の出雲地方の統率者たちの奥津城であったと考えられている。

案内図
「出雲弥生の森」案内図
根大学の考古学研究室は1983年から10年間かけて、墳墓群の中の3号墓を学術調査をした。そして、棺に供えられた300個以上の土器や墓上施設の存在などを発見し、この墳墓が王墓としての性格を持っていたことを明らかにした。こうした成果が基になって、この遺跡は2000年に国史跡に指定された。

根大学からバトンタッチを受けた出雲市教委は、引き続き調査を継続し、並行して整備を進めてきた。そして、西谷3号墓と4号墓を巡る園路など施設の一部が完成したため、今年の緑の日に史跡公園「出雲弥生の森」をオープンした。今年度中に芝生公園なども整備される予定で、公園に付随して古代出雲王墓館を建設する計画も持ち上がっているとのことだ。

伊川と神門川に挟まれたこの付近は、多くの王墓が集中するところとして知られている。たとえば神門川の東には日本最大級の家型石棺を出土した今市大念寺古墳(いまいちだいねんじこふん)や、精美な石室を持つ上塩治((かみえんや)築山古墳など、西出雲に君臨した王の墓がある。神門川の西には、妙蓮寺山古墳や放れ山古墳など、王を補佐したと思われる有力者が眠る古墳もある。

回訪れた西谷古墳群は、史跡公園「出雲弥生の森」園として整備されたばかりで、オープンしてちょうど一週間後である。開園を祝う横断幕が公園入口にまだ掲げられたままになっていた。昼時だったので、作業員たちは駐車場横の休憩所で食事を取っていた。見学できるのかと聞くと、「いいですよ」との返事が返ってきた。できたばかりの階段を上っていくと、4号暮が発掘調査中で青いシートで覆われていた。



布団を掛けたコタツの形をした四隅突出型墳丘墓


西谷3号墓
西谷3号墓
角い墳丘の角が奇妙に張り出した形をしているため、布団を掛けたこたつの形にも例えられる四隅突出型墳丘墓は、出雲地方を中心として山陰で多く造られた弥生時代の墳丘墓である。この形の墳丘墓が初めて見つかったのは、島根県瑞穂町の順庵原遺跡においてであり、1969年のことだった。その後、安来市の仲仙寺古墳群などからも発見され、1970年に四隅突出型墳丘墓と命名された。

の特異な形をした墳丘墓は、四隅を突出させ、周りを貼石で覆っているのが特徴で、墳丘上で祭祀を行った跡も検出されている。このため、青銅器を祭祀に使用していた時代が終わり、首長の死に際して執り行われる新しい祀りの場として、今からおよそ1900年前の弥生中期に、中国山地で発生したとされている。

西谷3号墓復元模型
西谷3号墓復元模型
1800年前ごろになると、山陰や北陸各地で築かれるようになり、出雲勢力が日本海を通じて山陰から北陸にかけて連合を組んだとされている。この頃から四隅の墳丘には巨大なものが見られるようになった。特に、出雲市の西谷墳墓群と安来市の荒島墳墓群(あらしまふんぼぐん)では、巨大な四隅突出型墳丘墓が集中して築かれている。しかし、やがてヤマト勢力に押されて、古墳時代初頭には消滅してしまった。

伊川を眼下に臨む丘陵上にある西谷3号墓は、弥生時代の終わりごろに造られた東西40m、南北30mの巨大な四隅突出型墳丘墓である。島根大学考古学研究室によって発掘調査によって、この墳丘墓に8人以上の人物が葬られていることが分かった。中でも、墳丘の中央に並ぶように掘られた2つの埋葬施設は特に大きく、この埋葬施設の上から葬儀のお祭りに使われたと考えられる土器が多量に出土した。これらの土器には、地元の出雲地域で作られた土器以外に、岡山や北陸地方の特徴を持つ土器が全体の1/3も含まれていたという。

に特殊器台や特殊壷と呼ばれる祭儀用の土器は王墓にしか使われないものだが、こうした土器も西谷3号墓で見つかっている。そのことによって、被葬者が岡山県の吉備地方と強い関係を持ち、周辺地域と盛んに交流をもっていたことが証明される。古代の出雲は西日本でも有数の有力な“クニ”だった。

西谷9号墓は、東西42m、南北35m、高さ4.5mの方形部に突出部が付く我が国最大の四隅突出型墳丘墓で、突出部を含めると50mを超える規模になると推測されている。貼石や石列は存在するようだが、発掘調査が行なわれていないため、詳細はわかっていない。今年の1月、同じ出雲市内の青木遺跡から、山陰地方では初めての最古形式の四隅墓が見つかった。最古級から最大までの墳丘簿がこの地に存在するため、四隅墓の歴史をたどることも可能となってきたとされている。



日本版「王家の谷」を形作る墳墓群


西谷4号墓の発掘現場
西谷4号墓の発掘現場
西谷3号墓の墳丘の上に立つと、丘陵の麓を斐伊川が流れ、その先に出雲平野が広がっている。弥生時代の出雲平野は、東の宍道湖(しんじこ)が西に大きく迫り出し、西の神西湖(じんざいこ)は北東に大きく広がっていた。また、現在宍道湖に流れ込んでいる斐伊川(ひいかわ)の本流は、西流して神西湖に流れていた。

の頃、平野部では大規模な集落があちこちに点在していたことが分かっている。環濠集落として知られる下古志遺跡(しもごし)を中心とした古志遺跡群や矢野遺跡を中心とした四絡遺跡群など数多くの遺跡が発見されているためである。

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第4主体における墓上祭祀想像図
(島根大考古教室HPより)
西谷墳墓群は出雲平野に向かって南から派生する丘陵に位置している。3号墓の最も中心となる第4主体部では、大きな土壙(どこう)の底に棺を置いて埋めた後、その上に4本の巨柱を用いた施設が建てられていたこと確認された。柱に囲まれた棺の真上にあたる場所では、朱の付いた丸い石が御神体のように置かれており、丸石の周りには砂利が敷かれていた。その上からは約200個体にものぼる大量の土器がかたまって出土した。これらの出土品から、当時の第4主体上では、亡き首長を埋めた上に4本柱の施設を建て、その中央に置いた赤い丸石を敬いながら、多くの参列者達が飲み食いをしていた様子が伺える。

くの丘陵地には大量の青銅器埋納で知られる神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡や加茂岩倉(かもいわくら)遺跡など、出雲地方を代表する弥生時代の遺跡が密集していて、これらの遺跡とともに、古代出雲が最も光り輝いた時代を象徴する重要遺跡であり、日本版「王家の谷」に喩えられている。



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