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| 出雲大社正面の大鳥居 |
見 学 メ モ
【所在地】島根県簸川郡大社町杵築東195 |
車で出雲平野の田園地帯を駆け抜ける平成16年5月6日午前9時、「宍道湖(しんじこ)SA」から見下ろす宍道湖は鏡のように静かで、上空には雲一つない青空が広がっていた。ゴールデンウイークが終わるのを待ちかねたように早朝4時起きして、南阪奈自動車道・近畿自動車道・中国自動車道・米子自動車道・山陰自動車道を乗り継いでここまで来た。マイカーの走行距離表示を見ると、342km。昨日までの高速道路の渋滞情報がまるで嘘のように、どの自動車道も前後に車影がほとんどなく快適なドライブだった。この先、「宍道(しんじ)IC」で高速道路を降り、出雲平野を横切って「出雲大社」に向かう。 「宍道SA」から出雲大社までは約37kmの道のりである。「宍道IC」で高速道路を降りてからの道順が心配だった。だが、要所要所に道路標識が出ていて、方向音痴の筆者でも道に迷うことはない。気がつくと、県道161号線(斐川出雲大社線)を走っていた。この道は出雲平野の中央を東西に横切る道路である。車窓には広大な沖積平野の水田地帯が広がっている。途中で斐伊(ひい)川に架かる北神立橋を渡るとき少し坂道にかかるが、その他の場所では全く大地の凹凸を感じさせない。田植えが終わったばかりの稲田は、豊かな秋の収穫を約束しているようだ。 この付近の平野は神門(かんど)川と斐伊(ひい)川が縄文時代の終わり頃、氾濫を繰り返しながら稲作に適した潟湖や沼を河口に築いていったとされている。斐伊川は鳥取・島根県境に位置する船通山(せんつうざん)に源を発する全長153kmの一級河川である。途中で赤川などの支川を合わせながら北流し、出雲平野を東に流れ宍道湖に流入する。だが、現在の流路は江戸時代以降のものだ。それ以前は神門川とともに西に流れて神門の中海(今の神西湖)に注いでいたという。
現在の島根県は、かっての出雲、岩見、隠岐の3つの国から成り立っている。その中で、出雲地方は平板な山陰の海岸線に突き出た島根半島が、中海と宍道湖を懐深く抱き込んだお馴染みの地形をしている。この大地には、旧石器人も縄文人も弥生人もその足跡を残している。特に弥生時代には大いなる発展があったようだ。弥生時代を象徴する遺跡として、斐川町の神庭荒神谷遺跡、加茂町の加茂岩倉遺跡、そして弥生時代終わり頃から古墳時代にかけての出雲市の西谷古墳群の名がよく知られている。本日の予定では、これらの遺跡を見学するつもりである。 |
縁結びの神・大国主大神を祀る神社神々の国・出雲に来て、先ず参拝すべきは、やはり出雲大社であろう。一般には”イヅモタイシャ”と呼び慣れているが、正確には”イヅモオオヤシロ”がこの神社の正式名称だ。縁結びの神として知られるオオクニヌシノカミ(大国主神)を祭神として祀っている。 大鳥居をくぐって一歩神域に足を踏み入れると、両脇から太い枝を張った樹齢何百年という老松の参道が長々と続く。直立している幹などほとんどなく、幾分傾き加減の巨木が立ち並ぶ参道も趣があってよい。松並木が終わるあたりで左右を見ると銅像が見える。右が幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)を拝祭する大国主神の像、左が因幡の白兎を救った大国主神の像である。
出雲大社の荒垣内配置
ところで、出雲大社では拝殿と神楽殿に巨大な注連縄の張られている。しかし、その張り方が普通の神社とはまったく逆になっている。日本では、古くから左(向かって右)の方が上位で尊いとしてきた。神社でも同じである。社殿から見て左側、すなわち参拝者から見て右側が上位である。このため、一般の神社の注連縄を見ると、参拝者から見て向かって右側から綯(な)い始め、向かって左側で綯い終わる。だが、出雲大社では正反対で、注連縄の綯い始めは向かって左となっている。作家の伊沢元彦氏は、その理由を「出雲大社は大怨霊オオクニヌシノカミを封じ込めた神殿である」ためとしている(『逆説の日本史 1古代黎明編』)。
参拝者の拝礼の仕方を見ていると、社頭で2回おじぎをして、4回柏手を打ち、さらに一回おじぎをしている。つまり、「二礼、四拍手、一拝」が出雲神社の作法なのだ。ほとんどの神社では二拍手が決まりのようなものだが、ここでは4回も拍手しなければならない。
八足門からは、正面の楼門が邪魔になって、「大社造り」と呼ばれる我が国最古の建築様式で建てられた巨大な本殿を見ることができない。本殿の巨大さを実感するには、瑞垣の外に沿って右か左に回らなければならない。右へ行っても左に行っても、境内の端に長い社殿が建っている。右にあるものを東の十九社、左にあるものを西の十九社という。 我が国では、旧暦の10月を通常「神無月(かんなづき)」と呼んでいる。10月10日に全国の神々が出雲大社に集られ、10月11日から17日までいろいろな神議りを行わうため、出雲以外では神々が不在になるためである。東と西の十九社は、出雲に集まった神々の御旅社、つまり宿舎であり、八百万の神の遙拝所を兼ねている。なお、出雲ではこの月を「神有月(かみありつき)」と呼ぶそうだ。 |
国造りの神・オオクニヌシ(大国主)
このことから、ヤマトタケルが実在の個人名ではなく、国土平定に活躍した多くの英雄たちの伝説をモデルに創造された架空の人物とされるように、オオクニヌシノカミの場合も、それぞれの神名を持った地方の国造りの神がいたが、記紀編纂の時点でそれらが一つの神格に統合されたのではないかという説がある。その証拠に、オオクニヌシノカミは福の神、縁結の神、農耕神、医薬の神などさまざまな神格を持ち、古くから信仰を集めている。 不思議なことに、国譲りの舞台となる出雲の伝承を多く記した『出雲風土記』には、オオクニヌシノカミという名の神は登場しない。『出雲風土記』ではオオクニヌシノカミは「所造天下大神(天の下造らしし大神)」という美称で表され、オオナモチノミコト(大穴持命)と呼ばれている。それどころか国譲りの神話にも触れていない。『出雲風土記』で有名なのはヤツカミズオミツヌノミコト(八束水臣津野命)の「国引き神話」である。 記紀神話では、オオクニヌシノカミは「因幡の白兎」で語られるように、当初は心優しい青年として描かれる。異母兄の八十神にいじめられ2回も殺されるが、天つ神や母神のお陰で蘇生し、異母兄たちの迫害を逃れるため、父・スサノヲノミコトのいる根の堅州国(ねのかたすくに)に行くことを勧められる。 根の国では、スサノヲノミコトから様々な試練を科せられるが、オオクニヌシノカミに一目惚れしたスセリヒメ(須勢理毘売)の助けを得て、その都度辛抱強く試練に耐えて逞しくなっていく。そして、最後にスサノヲノミコトが眠っている隙に、スセリヒメを背負い、宝物の生太刀(いくたち)・生弓矢(いくゆみや)・天の詔琴(のりこと)を携えて逃げ出した。そして、生太刀と生弓矢で八十神たちを追い払い、自ら鋤や鍬を執って未開の山野を開拓して国造りに励んだ、人々には農耕の方法を教へ、人々が病氣やその他の災厄からのがれるために医薬や禁厭の法を授け、温泉を創めるなどして、人々の生活が豊かになるようにした。 オオクニヌシノカミが苦労して開拓し経営している葦原中国(あしはらなかつくに)を、乱暴にもアマテラスオオミカミは「我が子のアメノオシホミミ(天忍穂耳)が統治すべき国であるから、譲り渡せ」と言い出した。ずいぶん酷い話しだが、皇孫がこの国を支配する理由付けを最大の目的とした『古事記』や『日本書紀』であれば、仕方がない物語の展開である。国土譲渡交渉のために様々な天つ神が派遣された。 最初に派遣されたのは、アメノホヒノカミ(天菩比神)だった。ところが、この神はオオクニヌシノカミに媚びへつらって三年たっても復命しなかった。次に派遣されたのは、アメノワカヒコ(天若日子)である。この神はオオクニヌシノカミの娘のシタテルヒメ(下照比売)を娶って、葦原中国を我が物にしようと企んで、八年たっても復命しなかった。様子を見に天降りした雉の鳴女(なきめ)は射殺され、その矢は天の安河まで届いた。
このときのオオクニヌシノカミの返答が変わっている。「自分からは答えられない。代わりに息子たちの意見を聞いてくれ」と直接回答するのを避けた。息子のコトシロヌシノカミ(事代主神)は、美保の崎で釣りをしていたところを呼び戻され、意向を訊ねられると、「承知しました。この国は天つ神の御子に奉りましょう」と答え、その後、なぜか乗ってきた船を踏み傾けて青葉の芝垣に変化させ、その中に隠ってしまった。 もう一人の息子のタケミナカタ(建御名方)は、力比べを申し出たが、タケミカヅチノカミに負けて、諏訪まで逃げてしまった。追いかけてきたタケミカヅチノカミに殺されそうになった彼は、命乞いをして「私はこの諏訪を離れてはどこにもいきません。葦原中国は天つ神の御子に献上しましょう」と答えた。 再び出雲に戻ったタケミカヅチノカミは「そなたの息子は天つ神の御子の仰せに従うと言っている。ところで、そなたの考えはどうなのか」とオオクニヌシノカミに訊いた。今一度意向を聞かれたオオクニヌシノカミは、国譲りに同意せざるを得なかった。ただし、条件を付けてこう言った。「この葦原中国はことごとく献上いたしましょう。ただ、私の住むところは、天つ神の御子が皇位を継がれる立派な宮殿のように、地底の盤石に宮柱を太く立て、大空に千木を高々にそびえさせた神殿を造っていただけるなら、私は幽界に隠退しましょう」 稲 佐が浜に立てば、目の前に辨天島とそこに立つ鳥居と小祠が目に入る。稲佐が浜の近くには、「屏風岩」と呼ばれる岩がある、この岩陰でオオクニヌシとタケミカズチが国譲りの交渉を行なわれたという。さらに、日御碕に向う途中の海岸にある「つぶて岩」は、タケミナカタがタケミカヅチと力くらべをし、稲佐が浜から海に向って投げられた岩であるといわれている。 上 に述べた「国譲り神話」には決定的な矛盾がある。葦原中国が平和裡に天つ神に譲られたのであれば、オオクニヌシノカミは平和外交の相手側の当事者として賞賛をもって高天原に迎えられるべきで、幽界に立ち去る必要はない。幽界に退いたということは、殺されたとも解釈できる。この神話の背景にあるのは、国土統一を続ける大和朝廷軍と古代出雲国との間の壮絶な戦いではなかったか。敗者となった出雲国の国王は責任を取って自害したか、あるいは大和朝廷軍によって殺された。そうした死者の呪いは大きい。その巨大な呪いを封じ込めるために、途方もない神殿を建ててその中に死霊を押し込めたとする、上記の井沢氏の怨霊封じ込め説はかなり説得力があるように思われる。 |
「雲太、和二、京三」『古事記』や『日本書紀』が伝える記紀神話によれば、オオクニヌシノカミ(大国主神)が葦原中国(あしはらなかつくに)を天つ神に譲る代償として、天つ神の御子が住む宮殿と同じように立派な神殿を造営してくれるならば、自分は遠い幽界に隠退しようと申し出て、その合意の上で造営された神聖な神殿とされている。神殿は地底の盤石(ばんじゃく)に宮柱を立て、大空に千木(ちぎ)を高々とそびえさせた建物だったという。出雲大社の言い伝えでは、神殿の高さは上古には32丈(約96m)もあったという。 上古の32丈という途方もない高さは、ちょっと信用する気になれないが、平安時代には16丈(約48m)の神殿が建っていたという。天禄元年(970)に源為憲(みなもとのためのり)が書いた『口遊(くちずさみ)』という本に、当時の日本の三大建築物が「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」として記されている。これは、所在地を姓として大きさの順を表したもので、「雲太」は出雲太郎の略で、出雲大社の本殿を指している。同様に、「和二」は大和二郎の略で東大寺大仏殿を、「京三」は京三郎の略で京都の大極殿を表している。
しかし、古代出雲大社本殿の巨大さを伝える資料は、他にもあった。出雲国造千家家に伝えられてきた建築平面図とも言うべき『金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』である。その図面によれば、柱の太さが1丈(3m)もあり、しかも9本の柱はそれぞれ、3本の木を鉄の輪で1つに束ねってあって、まさに異様とも言える巨大さだった。それに加えて、前面に描かれた引橋の長さが1町(約109m)と記されている。常識的には、100mもの長さの階段が必要な建物など、現実には到底存在しないとされた。 ところが、である。出雲大社で地下祭礼準備室の建設計画が持ち上がり、平成11年(1999)年9月から建設予定地の発掘調査をおこなったところ、翌平成12年になって驚くべき発見があった。神殿の柱の根本部分が、拝殿北側から3本も出てきたのである。これらの柱は大社造りの9本柱のうち、最も重要な心の御柱、本殿の棟を支える宇豆柱(うずばしら、棟持柱)、および側柱(がわばしら)だった。しかも、いずれの柱も3本の木を束ねて1本とした巨大なものである。3本を束ねた柱の直径は約3mであり、『金輪御造営差図』に描かれた柱の太さは現実だった。 発掘された巨柱の調査によって、さらに様々なことを明らかになった。先ず、柱材は9本の木のうち7本は杉であることが確認された。柱材はすべて赤く塗られていたことも判明した。また、柱材の化学分析の結果や他の出土品の年代観から、巨柱は平安時代末から鎌倉時代初め頃に造営された神殿のものとわかった。さらに発掘では古墳時代前期(4世紀頃)の祭祀遺物も確認されるなど、大社の歴史を解明する上で重要な成果が得られたという。
高さ16丈(48m)の木造建造物など建築学の常識では不可能と思われてきたため、『金輪御造営差図』に基づいて古代出雲大社の復元シミュレーションが試みられた。シミュレーションを行ったのは、工学博士・福山敏男氏と建設会社・大林組プロジェクトチーム。その結果、16丈の高さの高層神殿の建設が可能なことが実証された。現在、3本の木を束ねた巨柱の模型が拝殿の裏に置かれている。さらに巨柱が埋まっていた位置が八足門の前に描かれている。
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