八雲立つ風土記の丘(やくもたつふどきのおか) 意宇平野を臨む丘陵上に築かれた"風土記の丘

風土記の丘資料館
風土記の丘資料館

 見 学 メ モ

【所在地】 島根県松江市大庭町456   0852-23-2485 
【休館日】 月曜日、年末年始。特別展前後は臨時休館
【開館時間】 午前9時から午後5時まで。入館は午後4時30分まで
【入場料】  一般200円、高大学生100円、小中学生無料
【アクセス】(車)JR松江駅から15分。(バス利用)JR松江駅より一畑バス八雲行、「風土記の丘入口」バス停下車 徒歩3分
【マップ】 八雲立つ風土記の丘案内図


風土記の丘資料館

風土記の丘
良時代の天平5年(733)、出雲の国からこの国の地誌ともいうべき『出雲風土記』が中央政府に提出された。その中に「国引き神話」で郡名の起源を説明した意宇郡(おうのこおり)がある。松江市の南東に位置する茶臼山から意宇川周辺にかけての一帯がかっての意宇郡の中心部で、古代出雲文化の発祥の地とされている。付近は遺跡の一大宝庫である。これらの遺跡を整備し、総合的に保存す活用する目的で、意宇平野を臨む丘陵上に、昭和47年(1972)9月「八雲立つ風土記の丘」がオープンした。全国で六番目の風土記の丘だった。

風土記の丘資料館
資料館の屋上へ続く階段
土記の丘には、出雲国庁跡で発見された古墳時代中期(5世紀頃)の竪穴式住居を復元した「古代家屋」や、『出雲風土記』に登場する約100種類の植物を集めた「風土記植物園」、7基の古墳が確認されている岡田山古墳群などがある。しかし、なんと言っても必見は、一帯から発掘された出土品や考古資料を多数展示する「資料館」であろう。

料館は、出雲地方に多い前方後方墳を模した建物で、屋上には展望台があり、風土記の丘周辺を眺めることができる。この資料館の主な展示品に、次の物がある。

  • 岡田山1号墳出土の「額田部臣(ぬかたべのおみ)銘入り大刀
  • 神原神社古墳出土の景初三年銘三角縁神獣鏡
  • 御崎山古墳出土の獅噛環頭大刀(しがみかんとうだち)
  • 神庭荒神谷遺跡出土の中細形銅剣
  • 出雲国分寺跡出土の軒丸・軒平瓦
  • 出雲国土庁跡出土の墨書土器「酒坏」
  • 平所(ひらどころ)遺跡埴輪窯跡出土の埴輪群および鹿埴輪



昭和40年に国の史跡に指定された岡田山1号と2号古墳

岡田山1号墳
岡田山1号墳
岡田山2号墳
岡田山2号墳
土記の丘には7基の古墳が確認されている岡田山古墳群がある。1号墳と2号墳は比較的大型だが、他の5基はきわめて小規模な古墳である。

号墳は、全長24m(前方部は幅約14m、高さ約3.5m、前方部は幅約14m、高さ約3.5m)の前方後方墳である。大正4年(1915)に調査したところ、墳丘は三段の築成で、中段斜面には貼石をめぐらしていた。埴輪は、くびれ部付近と後方部墳麓とに無秩序な状態で集中的に配されていて、埴輪とともに子持壺も置かれていた。

部構造は全長5.6mの両袖形横穴式石室だった。石室内から、中国製内行花文鏡や馬具類、錆びた円頭大刀などの副葬品が見つかった。 石室の中には入れないが、内部の様子は外からのぞき込むことができる。赤い顔料を塗った石棺が置かれている。 この古墳の推定築造年代は6世紀中ごろである。

和58年(1983)、この古墳を一躍有名する出来事があった。この大刀の保存処理を依頼されていた奈良市の元興寺文化財研究所が、念のために刀身部をX線調査したところ、「額田部臣」を含む12文字が銀象嵌(ぞうがん)されていることが判明した。銘文の「額田部臣」は、『出雲風土記』にも大原郡少領として名前が記されている。こんため、出雲在地の豪族の可能性がり、古代出雲の解明する手がかりとなっている。また、この銘文は6世紀の中頃にはすでに部民制が実在していたこと示す貴重な文字資料でもある。

号墳は、1号墳の30m南にある円墳で、直径約43m、高さ約6.5m。墳丘の中腹に貼石列が認められるが、この古墳ままだ発掘調査されていない。 ボランティアのガイドをしていただいたA氏に、なぜ調査しないのかと聞いてみた。その答えは「発掘調査は”墓荒らし”そのものです。埋葬者を静かに眠らせておくに越したことはありません」であった。A氏は非常に気さくな人柄で、資料館内の案内だけでなく、近くの岩屋後(いわやあと)古墳と御崎山(みさきやま)古墳を車で案内していただいた。



6世紀末に築造された岩屋後(いわやあと)古墳(県史跡)

岩屋後古墳
石棺式石室が露出している岩屋後古墳
土記の丘から下った麓の水田の中に、烏帽子のような奇妙な岩がある。これが県下で最大の石棺式石室を持つとされる岩屋後古墳の跡である。A氏によれば、近くを流れる意宇川の護岸工事のために、明治年間に表土のほとんどを持ち去られてしまったとのことだ。石室が露出しているだけの古墳で、見るからに痛々しい。20m前後の規模を持った古墳と推察されているが、今となっては、どのような形の古墳だったかも分からないと、A氏は嘆かれる。

室は、東部出雲を中心に分布する石棺式石室の典型で、蒼ケ(せんどう)、前室、奥室に分かれる。ただし、酷く破壊されていて現在は奥室だけが残っている。蒼ケの壁は割石を積んで作ってあるが、前室と奥室の壁はいずれも一枚の切石でできている。特に、奥室の厚さ1.4mもある天井石は、内側も外側も平入り四柱式の家形で加工してある。しかし、石の半分は消滅しており、さらに石灰質の礫岩を使っているので、風雨にさらされて外側は礫でゴツゴツしている。石室の中にもぐってみたが、天井石が今にも崩れてきそうで、すぐに飛び出した。

治年間に墳丘を削り取った際に、5体以上の人物埴輪が出土した。埴輪は東京国立博物館に保管されている。昭和40年代に実施した発掘調査でも、円筒埴輪や須恵器などが見つかっていて、盗掘を受けているとはいえ、被葬者の生前の勢力の大きさがしのばれるとのことだ。



6世紀後半に築造された御崎山(みさきやま)古墳(県史跡)

全長50mの前方後方墳
全長50mの前方後方墳
屋後古墳から150mほど南に行ったところに、丘陵の東側斜面を利用して作られた御崎山古墳がある。6世紀後半に築かれた前方後方墳で全長は40m、後方部の高さは3mとのことだ。後方部に神社がのっかているが、墳丘は良好に残っている。大正7年に考古学者の梅原末治氏によって紹介され、広く知れ渡った。

部には、北側に入口を持つ横穴式石室が作られていて、その規模は奥行き3.6m、幅3m、高さ2,85m。東部出雲では最大級の規模を誇るが、残念ながら見ることができない。石室には死者を埋葬した家形石棺が2つ納められている。副葬品として、銅鏡・装飾大刀・鉄鏃・耳環・馬具・土器などの優品が出土している。その中で装飾大刀は、獅噛環頭大刀(しがみかんとうだち)と呼ばれるもので、全国的にも珍しく、八雲立つ風土記の丘の資料館に展示されている。

獅噛環頭大刀
獅噛環頭大刀
氏に墳丘を案内して貰ったが、このあたりの何処でも見かけられる竹林で古墳は覆われていた。時節柄、タケノコから生長した若竹が何本も空に向かって伸びていた。



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