はじめに: 京都の古代の風景に想いを馳せる


都の観光名所・嵐山には、桂川にかかる渡月橋がある。この橋を渡ったことがあるなら、少し川上に木製の杭を並べた堰(せき)があるのに気づいた人は多いだろう。葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれている堰である。この堰で桂川の流れがせき止められるため、保津峡下りの川船もここから川下には下れない。葛野大堰の歴史は古く、最初の堰は5世紀後半に渡来系氏族の秦氏(はたうじ)が築いたとされている。

葛野大堰道
葛野大堰

在の桂川は、古くは葛野(かどの)川と呼ばれていた。葛野の平野部を貫いて南に流れる川だからである。丹波山地を源流とするこの川は、亀岡盆地から保津峡を抜けると、京都盆地の西北にある嵯峨野と嵐山の間を吹き出すように流れ出る。このため、古代には梅雨や台風のシーズンに洪水を繰り返し、流路が定まらない”暴れ川”だった。その分、桂川流域は繰り返される氾濫で京都盆地の中で最も肥沃な土地になった。

たがって、治水によって洪水の不安を解消できれば、桂川流域は立派な田畑になる。それを見事に実現したのが、秦氏による葛野大堰の築造だった。この堰を造ったことによって、後に長岡京や平安京造営のスポンサーになるほど、秦氏は財力を蓄えることができたという。まことに、京都の発展の原動力は葛野大堰の築造にあったと言い換えてもよい。

濃く、水清かった平安遷都以前の山背盆地は、渡来人が開拓した稔り豊かな盆地だった。今回の歴史探訪では、京都の古代の風景に想いを馳せ、渡来氏族の雄である秦氏が残した史跡を巡ることにした。そのためには、まず京都の原風景を探り、また秦氏がどのように葛野地域に定着し、どのような活動したかを、予め見ておきたい。
(平成15年6月10日記す)



目次


 縄文人や弥生人が住んでいた頃の京都盆地

都盆地は、以前は「ヤマシロ」と呼ばれてきた。古くは「山代」と記され、701年に大宝律令が制定されると「山背」が公式表記になった。「ヤマシロ」は、「ヤマノウシロ(山の後ろ)」が詰まってできた言葉とされている。ここでの山は、現在の京都府と奈良県の境にある低い奈良山丘陵を指す。つまり、当時のヤマト王権の視点から見て、ヤマシロは奈良山のヒンターランドを意味する地名だった。「ヤマシロ」の表記は、その後もう一度変更されることになる。都が平安京に遷されると、王の城という意味をこめて「山城」と書くように改められた。以後、山城国が廃されて京都府になるまで、「山城」は1200年以上も京都の正式名称であった。

氏がヤマシロのウズマサ(太秦、うずまさ)に進出してくる以前の京都盆地は、なにも無人の荒野だった訳ではない。古くは賀茂県主(かものあがたぬし)やその一族が盤踞していた。県主とは、ヤマト王権の支配下にあって、経済的にこれを支えた豪族のことである。それ以前にも、もちろん縄文時代人や弥生時代人が、この地で生活していた。

都盆地とその周辺の丘陵や山地に点在する縄文時代の集落が、現在までに約20カ所発見されている。だが分布密度は粗く、集落の規模もそれほど大きくない。現在の修学院離宮から銀閣寺の南あたりは、北白川扇状地と呼ばれる台地である。この扇状地で、縄文前期から中期、後期にかけての拠点的な集落跡がいくつか見つかっている。その他にも、縄文後期の上賀茂遺跡や上鳥羽鴨田遺跡などが発見されている。しかし、北白川周辺を除くと、狩猟や採集を生活の基盤とする縄文人にとって、京都盆地はそれほど恵まれた土地ではなかったようだ。

く知られているように、京都盆地の主な河川は、高野川と賀茂川が合流して南下する鴨川、丹波山地の水を集めて盆地の西北方から南流する桂川、琵琶湖を水源とする宇治川、そして遠く伊賀山中に源を発する木津川である。これらの河川は盆地の西南部で合流して、淀川となって大阪湾に注ぐ。北白川扇状地で生活する縄文人には、眼下に広がる盆地の平坦部は、流路も定まらない河川が無秩序に南流し、ムクノキやケヤキ、ウバメガシ、ヤブツバキ、ケヤキ、アラカシ、イチイガシ、エノキなどの巨木が群生する単なる原生林に見えたであろう。

が、弥生時代の到来とともに、稲作文化を携えて淀川を遡ってきた人々がいた。彼らは稲作に適した土地を求めて桂川右岸や鴨川両岸、さらに宇治川から支流の山科川沿いに山科盆地へと広がっていった。そして、河川の近くの水稲栽培に適した場所に村落を構えた。そのため、弥生時代の集落は大小河川に沿って分布している。弥生時代後期のころには、その数も30を超えた。この時代の大規模集落跡としては、山科盆地の中臣(なかとみ)遺跡、稲荷山西麓の深草(ふかくさ)遺跡、桂川右岸の鶏冠井(かいで)遺跡などが見つかっている。


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 葛城山麓から京都盆地に進出してきた鴨族

良県の金剛山の東側山麓は開けた段丘上の斜面をなしている。弥生時代に、この斜面に住み着いて陸稲や稗、粟などの畑作農耕に従事した集団がいた。鴨族と呼ばれた一族である。御所市鴨神に高鴨神社という神社がある。鴨一族がその発祥の地に建てた氏神社である。

生時代の中頃、鴨族の一部が金剛山の東斜面から大和平野の西南端にある今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波(かもつは)神社をまつって水稲栽培をはじめた。また御所市東持田の地に移った一派も葛木御歳(かつらぎみとし)神社を中心に、同じく水稲耕作に入った。それで、高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになった。ともに鴨一族の神社である。

の鴨族の出自を求めると、神武天皇東遷の時烏(カラス)に化けて天皇を熊野から大和へ道案内した賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)に行き着く。大和を平定した後の論功行賞で、神武天皇はその功に対して厚く報償したという。そのときから賀茂建角身命を八咫烏(やたがらす)と称するようになった。

山背の豪族分布
平安遷都以前の山背の豪族分布
山城国風土記』逸文によると、大和の葛城山にいた賀茂建角身命が山代の国の岡田の賀茂に至り、木津川を下り、葛野川(桂川)と賀茂川の合流点までやってきた。そして北方の賀茂川を見渡し、「狭く小さいけれど石川の清川なり」と述べ、「石川の瀬見の小川」と名付けた。その後、賀茂建角身命は賀茂川の上流の久我の山麓に住むようになった、と伝えている。神が一人で移ることはない。その神を祀る集団の移動するのである。すなわち、何時のころか、葛城山麓を離れた鴨氏の一派が奈良盆地を北上し、奈良山を越えて加茂町まで勢力を伸ばし、さらに現在の京都の上加茂、下加茂の辺りにまで進出して、この地に定着した史実を伝えている。

がて、鴨族はヤマト王権の支配下に組み入れられて賀茂氏を名乗るようになり、その族長は賀茂県主(かものあがたぬし)と呼ばれた。鴨族が京都盆地に定着した時期はよく分かっていない。一般には、渡来系氏族の秦氏より早くから住み着いていたように考えられている。しかし、鴨族は秦氏と同時に大和からやってきたとする説もある。『新撰姓氏録』には、応神14年に渡来した秦氏が「大和朝津間腋上地(わきがみのち)」に住んだという記述がある。この腋上は、鴨族が盤踞していた葛城山の東山麓に位置している。このため、秦氏の移住と時を同じくして、鴨族の京都盆地に入り込んできた、というわけである。

族は賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を氏神として祀り、一族の紐帯を強めていた。上賀茂神社の社伝によれば、この神は賀茂建角身命の娘・玉依比売命(たまよりひめのみこと)と山代の乙訓(おとくに)社の火雷神(ほのいかづちのかみ)との間に生まれた若き雷神である。だが、『古事記』は賀茂別雷大神の父親を火雷神ではなく、大山咋神(おおやまくいのかみ)としている。大山咋神は秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大宝元年(701)に建立した松尾大社の祭神である。

のため、秦氏と賀茂氏とは婚姻関係で結ばれていたこと、上下賀茂神社の神と松尾大社の神とは共通の姻族神であったことがうかがえる。さらに、稲荷神社を創建した秦伊侶具(いろぐ)は、賀茂県主久治良(くじら)の子で、松尾大社の鴨禰宜板持と兄弟という伝承も、稲荷神社に伝わっているとのことだ。


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 『日本書紀』に記された秦氏のプロフィール

都の古代を語るとき、伝承や文献資料に常に登場する氏族がいる。葛野大堰(かどのおおい)を築いたとされる秦(はた)氏である。ヤマト・飛鳥を拠点とした東漢(やまとのあや)氏や河内地方を本拠とした西文(かわちのふみ)氏と同じく、秦氏も朝鮮半島から渡来した氏族である。蚕養や機織り、金工、土木などに優れた技術を有し、どちらかというと中央政権と関わるよりも、地方に根を張っていった殖産的豪族だったとされている。そのためか、著名な氏族である割には、氏族の系譜や一族の足跡が史書にあまり記されていない。秦氏について、史書から知ることのできる内容は、せいぜい下記のことぐらいである。

安時代の初め、弘仁6年(815)に作られた『新撰姓氏録』という書物がある。平安京の左右両京や畿内諸国に居住していた当時の氏族について、その系統、氏名の由来、賜氏姓の時期などを記したものだ。その中で、秦氏の出自は、「秦の始皇帝の末裔」となっている。

が、『新撰姓氏録』の記事はあまり信用できない。秦氏は、平安初期の中国文化礼賛に便乗して、伝承の改変を行ない、中国の皇帝との系譜的な結合をはかろうとしたものと思われる。同じ例が東漢氏についても言える。東漢氏は、後漢霊帝の曾孫阿智王(阿知使主)を先祖としている。

方、『日本書紀』は、応神14年のこととして、秦造(はたのみやつこ)の祖・弓月君(ゆづきのきみ)の次のような来朝説話を載せている。すなわち、この年弓月君が百済からやってきたが、彼が奏上して言うには、「私は、私の国の120県の民を率いてやってきた。だが、新羅人に邪魔されてため、彼らを加羅国(からのくに)残したまま来朝した」。そこで、天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を派遣して、弓月君の民を連れてこさせたという。

かし、この伝承も信用できない。応神天皇は4世紀末ごろの大王とされている。その頃の朝鮮半島南部では、新羅は加羅諸国に侵入する国力はまだなかった。新羅が加羅諸国を脅かすようになるのは6世紀になってからである。「秦」は、波陀とも書いて”ハタ”と読む。韓国語では海のことを”パタ”と言う。そのため、もともとは海からやってきた人々という意味で秦氏と呼ぶようになったとする説が有力である。

神14年の弓月君来朝記事にある程度史実性があるとすれば、4世紀末から5世紀の初めころには、弓月君を長とする一族が、朝鮮半島南部からやってきたということだろう。だが、応神紀には、渡来関係の記事が多く掲載されている。どうも『日本書紀』編纂の時点で、渡来系氏族の伝承の編修が行われたようだ。したがって、弓月君の来朝時期が史実であるという保証はない。

月君は120県の民を引き連れて来朝したというが、これは実数ではなく誇張であろう。だが、後で述べるように、一族の者たちが多くの臣(おみ)や連(むらじ)に四散して配属されたようだから、相当数の人間が渡来してきたことは事実のようだ。ただ、一度に大挙してやってきたとは考えにくい。一定の期間に波状的に何回も渡来が繰り返されたと見るべきである。

だし、葛野大堰が設けられたのは5世紀後半とされていることから、一族が葛野に定住するようになった時期は、5世紀前半ごろと見なして大差はないであろう。

 『日本書紀』に登場する秦氏の人々

日本書紀』でその伝承や記録が記されている秦氏の人物は、秦酒公(はたのさかのきみ)、秦大津父(はたのおおつち)、および秦河勝(はたのかわかつ)の3名である。。

酒公の名は、雄略天皇(在位456 - 479?)の時代の記述に登場する。天皇は寵愛する秦酒公のために、それぞれの臣(おみ)や連(むらじ)に四散して使われていた秦氏の民を集めてやった。その礼として、酒公は絹やカトリ(上質の絹)を献上して、朝庭にうず高く積み上げたという。しかし、これは後に秦氏の本拠地となった禹豆麻佐(うずまさ、太秦)という地名の起源説話であり、史実とは思えない。

大津父は山背国の深草の住人である。欽明天皇(在位539 - 571)はこの大津父を寵愛し、即位するとすぐに、国家の財政をあずかる要職である大蔵の官に任じたという。大津父については、次のような逸話が残されている。欽明天皇が即位する以前に、「大津父というものを寵愛すれば、壮年になって必ず天下を治められるであろう」との夢のお告げがあった。そこで、深草の里から大津父を探しだし、近くに侍らして手厚く遇した。そのため、大津父は富を重ねることになったという。

河勝については、『日本書紀』の3カ所に記載がある。推古11年(603)11月、聖徳太子は大夫(たいふ)たちに「私は尊い仏像を持っている、だれかこの仏像を祀るものはいないか」と言われた。そのとき、秦河勝が進んで申し出て仏像を貰い受け、蜂岡寺(今の広隆寺)を建立したという。それから7年後、推古18年(610)10月、新羅と任那の使節が推古天皇の小墾田(おわりだ)の宮に入京したとき、河勝は新羅使節の先導役も務めている。

うした記述から判断すると、『日本書紀』は推古朝における大夫の一人として河勝を見ているようだが、一般には聖徳太子の側近か、あるいは聖徳太子の政治を陰で支えたスポンサーとして河勝を見ている。

秦氏の系譜

の後にもう一度、河勝の名が『日本書紀』に登場する。皇極3年(644)7月、東国の富士川のほとりに住む大生部多(おおふべのおお)が、蚕に似た虫を常世(とこよ)の神として、この神を祀れば富と長寿が得られるといって信仰を勧めた。この新興宗教に似た騒動は瞬く間に広がり、都でも田舎でも常世の神を捕まえて安置し、歌い踊って福を求め財宝を投げ出した。民衆を惑わすこうした信仰を憎んで大生部多を懲らしめた人物がいる。それが秦河勝である。 常世の神といいふらした者を懲らしめた河勝は、神の中の神であるとのざれ歌がはやったという。

に述べた3人について、その具体的な系譜は知られていない。3人の関係を図のようにとらえる説もあるが、この系図が正しいかどうかは不明である。

 秦氏による桂川流域一帯の掌握

在の桂川は、古くは葛野川と呼ばれていた。上に述べたように、葛野川は梅雨時期や台風シーズンには、きまって洪水を引き起こし、流路もそのたびに変わった。だが、この暴れ川のおかげで、その流域は京都盆地でももっとも肥沃な土地であった。だから、古墳時代前期(4世紀)には、葛野川右岸を支配していた豪族がいた。彼らは京都盆地で最も古い首長墓を現在の向日町付近に築造している。したがって、洪水の不安を解消できれば、葛野川流域が有数の穀倉地帯になることは分かっていた。残念ながら、当時の治水技術では、この暴れ川を制することはできなかった。

れを可能にしたのが、高い水準の土木技術をもって京都盆地に入植してきた秦氏である。秦氏は5世紀中葉以前にすでに盆地の深草に居を構えていたが、5世紀後半に深草の地から葛野にその本拠を移したと思われる。彼らは葛野大堰を築造し、水路を造成し、田畑を開拓した。水を制するものは土地も人も制する。葛野川流域で農業を営んでいた住民たちは、大堰築造の恩恵を受け、秦一族の支配下に組み入れられていった。

のことを裏付けるように、5世紀後半になると、それまで古墳が全く築造されなかった嵯峨野丘陵に突然首長墓が出現する。現存する最古の首長墓は清水山古墳だが、それに続いて、天塚、仲野親王陵古墳、馬塚、蛇塚古墳が継続的に築造され、最後に双ケ丘の一ノ丘に円墳が築かれた。この双ケ丘1号古墳の築造時期は7世紀前半とされている。このように5世紀後半以降、嵯峨野に大型首長墓を築き続けたのは、葛野大堰の建設によって葛野川の治水に成功し、盆地の最も肥沃な一帯を支配下においた秦一族である。


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 秦氏にちなむ神社と仏閣

都市右京区太秦(うずまさ)は、御室(おむろ)川の西、双ケ岡(ならびがおか)の南の地域である。この地には、秦氏が氏寺として創建したと伝えられる京都最古の名刹・広隆寺がある。また、秦氏にちなむ神社として大酒神社蚕の社松尾大社がある。一方、秦氏のもう一つの根拠地とされる深草(ふかくさ)には、伏見稲荷神社がある。

広隆寺の南大門
広隆寺の南大門

隆寺の創建に関しては、二つの説がある。『日本書紀』は、推古天皇11年(603)に秦河勝が聖徳太子から仏像を賜り創建したと伝えている。また、聖徳太子が推古天皇30年(622)に没したとき、その供養のために秦河勝が建立し、翌年に新羅から献じられた仏像を納めたとも言われる。当初は北区の平野神社付近にあったが、平安遷都の際に現在の地に移転したと考えられている。

酒神社は『延喜式』(*)の神名帳にも記載されている古社で、一名を太秦名神といい、秦酒公(はたのさけのきみ)を祭神として祀っている。以前は、秦氏の氏寺・広隆寺の中にある桂宮院の守護神として境内に祀られていたが、明治初年の廃仏毀釈によって現在の場所に移された。
(*)『延喜式』は、平安時代の延喜5年(905)に編修を開始、延長5年(927)に完成、康保4年(967)から施行された。

の社は、木島(このしま)神社の摂社で、蚕養の守り神として萬機姫(よろずはたひめ)を祀っている。

尾大社は、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大宝元年(701)に創祀したと伝えられる延喜式の古社で、大山咋(おおやまくい)神と市杵島姫(いちきねのしまひめ)命を祭神として祀っている。

見稲荷神社は、和銅4年(711)に秦伊呂具(はたのいろぐ)が三つ峰に社殿を建て倉稲魂命(くらいなたまのみこと)を祭神として祀ったのが始まりとされている。そのいきさつについて、面白い伝承が伝わっている。伊呂具は稲束を積み上げて金持ちになり、その米で餅を作り弓矢の的にしたところ、的にされた餅が白鳥になって飛んで行き、三つ峰の頂上に飛び降りた。その場所から”稲が成った”ので、伊呂具は不思議に思い、社殿を建てたというのである。その後、1438年に社殿は現在地に移され、秦氏の子孫によって累代にわたって奉祭されているという。


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 秦氏の首長の墓だと言われている古墳

野には、秦氏の族長を埋葬したされる古墳が数ケ所ある。その中でも、太秦面影町にある蛇塚古墳と、嵯峨野の東端にある双ケ丘(ならびがおか)の頂上にある双ケ丘1号古墳は巨大である。

蛇塚古墳
太秦面影町の蛇塚古墳

塚古墳は、京福電鉄嵐山線「帷子ケ辻(からびらのつじ)」駅の南の住宅街に位置している。曲がりくねった狭い路地を進むと、石室部分の巨大な積み石を露出した異様な景観が突然姿を現す。その積み石が構築した石室の内部空間は、明日香村の石舞台に次いで広い。

ケ丘は南北に一直線に三つの丘が並ぶ丘で、北から一の丘、二の丘、三の丘と呼ばれ、全体が国の名勝に指定されている。丘と丘の間には多数の小円墳が群集して築かれているが、一の丘の頂上には双ケ丘1号古墳と呼ばれている大型の円墳がある。

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 古代豪族・賀茂氏の氏神として知られる神社

下鴨神社
下鴨神社

都市街の東部を流れる賀茂(かも)川は、高野(たかの)川と合流する三角州あたりで鴨(かも)川と名前を変える。この賀茂(鴨)川は古代に禊(みそぎ)が行われた聖なる川である。その川沿いに、京都きっての古社がある。賀茂川にかかる御園橋の東にある上賀茂神社と、鴨川の葵橋の東にある下鴨神社だ。いずれも、古代豪族・鴨族が奉祀してきた神々を祭神とする山城国の一ノ宮である。

族は、葛城山に住んでいた賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を氏神としていた。神武天皇東遷の時、天皇を熊野から大和へ道案内した人物である。山野を行く姿が勇猛で、烏が空を飛ぶようであったことから、後に八咫烏(やたがらす)の名で尊称された。『山城国風土記』逸文によると、この賀茂建角身命が、葛城山の峰から山代国に移ったと記している。

茂建角身命は丹波から伊賀古夜比売(いかこやひめ)を娶り、玉依日子命(たまよりひこのみこと)と玉依比売命(たまよりひめのみこと)という二人の子をもうけた。玉依日子命は、後に父の跡をついで賀茂県主(かものあがたぬし)になったとされている。妹の玉依比売が瀬見の小川(現在の賀茂川)で川遊びをしていると、川上から一本の丹(に)塗りの矢が流れてきた。それを持ち帰ったところ、たちまちに懐妊して、賀茂別雷神(かものわけいかづちのかみ)を生んだという。 

賀茂神社はこの賀茂別雷神を祭神として祀っている。したがって正式な呼称は賀茂別雷社(かもわけいかづちのかみのやしろ)である。一方、下鴨神社は母の玉依比売命と外祖父の賀茂建角身命を祀っている。このため正式には賀茂御祖社(かもみおやのやしろ)と呼ばれる。

氏が、この上賀茂神社・下鴨神社の創建に関係がある。というのは、別雷神の父、すなわち玉依比売の夫は火雷神(ほのいかづちのかみ)とされているが、『古事記』はこの神が京都の松尾大社に祀られている大山咋神(おおやまくいのかみ)であるとしている。

らに、伏見稲荷の祠官家大西家の家系図は、伏見稲荷の創始者・秦伊侶具(はたのいろぐ)が鴨県主久治良の子であり、松尾大社の創始者・秦都理(はたのとり)が鴨禰宜板持と兄弟であったとしている。また、鴨県主家伝では、賀茂社の禰宜黒彦の弟の伊侶具と都理が秦の姓を賜り、それぞれ伏見稲荷と松尾大社を作ったことになる。これでは、伊侶具も都理も鴨氏の出身ということになってしまう。一方、秦氏本系帳では「鴨氏人を秦氏の聟(むこ)とし、秦氏、愛聟に鴨祭を譲り与う。故に今鴨氏禰宜として祭り奉るのはこの縁なり」と記されているという。

氏族がお互いに自家に都合の良いように系図を作り上げていることが見え見えで、どこまでが史実か今になっては分からない。おそらく後から京都盆地に進出してきた秦氏が、先住の鴨族と平和的に共存するために、それぞれの祭神を婚姻関係で結ぶ伝承を作り上げ、鴨族の祭祀する神も秦氏の氏神の一つとして後に上賀茂神社に祀ったものと思われる。こうしたことから、上下賀茂神社と松尾大社の3社は、まとめて「秦氏三所明神」とも称されている。そこで、今回の史跡探訪では、両賀茂神社を秦氏ゆかりの史跡に組み入れている。


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