木島神社(このしまじんじゃ) 境内に「蚕の社」と通称される養蚕(こがい)神社があることで知られる

木島神社
木島神社の正面

 メモ

【正式名称】木島坐天照御霊神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)
【祭神】木島神社:天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)他4柱(大国玉神、穂々出見命、鵜茅葺不合命、瓊々杵尊)
養蚕神社(蚕の社):萬機姫(よろずはたひめ)

【所在地】京都市右京区太秦森ケ東町50番地
【アクセス】京福電鉄嵐山線「蚕の社」または市バス「蚕ノ社」下車。

【備考】昭和60年(1985)6月1日に、京都市の史跡に指定。


 太秦の秦氏史跡探訪の出発点は蚕の社

木島神社への道
木島神社への道

秦と書いてウズマサと読ませる。『日本書紀』の雄略紀によれば、太秦の命名の由来を次のように述べている。雄略天皇は、あちこちに四散していた秦氏の民を集めて、寵臣秦酒公(はたのさけのきみ)に賜った。そのため、酒公は各種多数の村主を率いるようになり、租税として絹・カトリ(上質の絹)を朝庭に沢山積み上げた。天皇は庭先にうず高く積まれた絹の様子を見て、酒公に禹豆麻佐(うつまさ)という姓を賜った、とされている。

の語源説話によれば、秦酒公が賜った姓がウツマサであり、それが転じて秦酒公が住んでいた付近がウツマサと呼ばれるようになった、と解される。だが、どうして"太秦"の字が当てられたのか、今ひとつ良く分からない。何はともあれ、桂川の東北に位置し、北に双ケ丘、宇多野、鳴滝の山々がひかえ、西に嵯峨野に続く一帯が「太秦」である。古くは葛野県主や賀茂一族が盤踞し、その後に秦氏が進出して来たとされている。

秦で秦氏の史跡巡りをする場合、木島(このしま)神社と同じ境内に祀られている「蚕の社」から始めるのがよい。四条大宮から出ている京福電鉄嵐山線の「蚕の社」駅(または市バスのバス停「蚕ノ社」)が、木島神社にアクセスするには便利である。駅のプラットフォームを出ると、三条通に面して鳥居が建っている。鳥居をくぐって商店街をまっすぐ3分ほど歩けば、赤の信号が点滅をしている交差点に出る。その角の木立に囲われた一画が木島神社の鎮守の杜である。



 木島神社は『続日本紀』にも記載された古い社

拝殿
木島神社の拝殿

島神社は、正式には木島坐天照御魂(このしまにまずあまてるみたま)神社といい、延喜式内社である。天之御中主(あめのみなかぬし)神を祭神として、その他に4神(大国魂(おおくにたま)神、穂々出見(ほほでみ)命、鵜茅葺不合(うがやふきあえず)命、瓊々杵(ににぎ)尊)を祀っている。

建時期は不明である。『続日本紀』の大宝元年(701)4月3日の条に、この神社の名前が記載されている。したがって、それ以前から祭祀されていた古い社であることは間違いない。秦氏による広隆寺創建とともに勧請されたという伝承もある。祭神は学問の神であり、祓いの神でもある。

が、この神社を有名にしているのは、俗に「蚕の社」と呼ばれる養蚕神社が、同じ境内に摂社として祀られているためである。養蚕神社は木島神社本殿の向かって右側に配されている。



 蚕養・織物・染色の神・萬機姫を祀る養蚕神社

養蚕神社
養蚕神社(蚕の社)

氏は、養蚕製絹の専門技術を独占していたとされる。古代の天然繊維の内で、いったんその技術を習得すれば比較的大量に生産できるのが絹である。秦氏一族は無限を富を産む蚕に感謝して、蚕養・織物・染色の守護神である萬機姫(よろずはたひめ)を勧請し、太秦の地に奉祭した。それが、俗に「蚕の社」と呼ばれる養蚕神社である。

道に面した鳥居をくぐって一歩木島神社の境内に入ると、そこは楠などの巨木が鬱蒼と茂る太古の森である。正面の石段を登り拝殿の前に立つと、拝殿の向こうに2つの社が建っているのが見える。左側が木島神社の本殿、右側が萬機姫を祀る養蚕神社だ。

氏が養蚕に関する専門技術を独占していた様子を伺わせる説話が『日本書紀』に載っている。皇極3年(644)7月、富士川の辺で大生部多(おおふべのおお)が蚕に似た虫を常世(とこよ)の神として祀ったとき、秦河勝は大生部多を世間を惑わす者として弾圧している。おそらく養蚕技術が盗まれて、富士川付近で蚕の飼育を始まったのを、秦氏が阻止した逸話がこうした形で後生に語り伝えられたのであろう。

蚕の起源は中国の殷代(紀元前1700〜1200年)にあり、黄河、揚子江の中・下流域で始まった。絹の生産技術と製品は長い間、中国の門外不出の扱いを受けていた。絹織物は中国の特産品であり、ヨーロッパとの交易ルートだったシルクロードとは、まさに絹の道そのものだった。古代の中国では、蚕の餌となる桑の木は神木とされていた。日本の別称を扶桑というが、これも桑の神聖化から派生した名称であろう。日本には、弥生時代の中頃に中国から直接養蚕技術が伝えられたとされている。しかし、錦などの文様をあらわした織り技術の伝来は、5世紀後半の技術者の渡来を待たねばならなかった。



 元糺(もとただす)の池と三柱(みはしら)鳥居

三柱鳥居
元糺池に建つ三柱鳥居

殿左側の一段低くなった所に、繁茂した樹木に囲まれた池がある。「元糺の池」と呼ばれる神池である。四季を通じて清らかな水が湧き出ると聞いていたが、何故か五年ほど前から水がわき出してこなくなったという。「糺」は「正しくなす」、「誤りをなおす」という意味である。身に罪や穢れがあるときに、この池は禊(みそ)ぎを行なって心身を清める場所だった。土用の丑の日にこの池に手足を浸すと、諸病にかからないという俗信仰がある。

ぜ「元糺(もとただす)」なのかというと、「糺の森(ただすのもり)」の呼称に関して、どうも神社同士の確執があったようだ。木島神社では潔斎の場である糺の池の周りを糺の森と呼んでいた。しかし、糺の森は他にもある。御所の北東に賀茂川と高野川の合流点があり、この合流点の北側の三角州一帯は、平安時代から潔斎の地として知られている。この一帯の森も「糺の森」の名で呼ばれている。木島神社の由緒書きによれば、嵯峨天皇の時代に潔斎の場をこの社の境内から下鴨神社に遷されたためだという。したがって、本家本元はこちらだと主張するために、木島神社では「元糺」と言っているようだ。

段の神池に、鳥居を3つ組み合わせた特異な形の鳥居が建っている。三柱鳥居(みはしらとりい)と呼ばれるもので、由緒書きでは全国唯一の鳥居であるとしている(実際には他の地域にもあるらしい。例えば長崎県諏訪神社奥にある蛭子社の三つ鳥居)。鳥居の中心には、石で組まれた祭神の神座(かみくら)があって、宇宙の中心を表し、四方より拝することが出来るよう建立されているという。創立年月は不詳である。現存の鳥居は享保年間(260年前)に修復されたものだそうだ。

異な形をした建造物だけに、さまざまな説が出されている。その中のいくつかを紹介しておこう。一つは大和岩雄氏が提唱した説で、秦氏にかかわる稲荷山、松尾山および双ケ丘の遙拝所だという。冬至の日、稲荷山から上る朝日と、松尾山の磐座がある日埼峰に落ちる夕日は、この鳥居の二面から正面に拝することができ、もう一面からは北の双ケ丘を正面に遙拝できるというのが、その根拠だ。景教(ネストリウス派キリスト教)の遺物ではないかという説もある。「大秦」というのはローマ帝国のシリア地方の事だとか、「太秦(うずまさ) 寺」という字は、唐の都のキリスト教寺院「大秦寺」と非常に似ている、といったことから、秦氏をユダヤ人原始キリスト教徒であると見立てて、三柱鳥居は原始キリスト教の絶対三神「御父と御子と聖霊」を表現しているというものである。