土師(はぜ)ニサンザイ古墳 百舌鳥古墳群で3番目、全国でも8番目の規模を誇る前方後円墳

ニサンザイ古墳
土師ニサンザイ古墳

所在堺市百舌鳥西之町3丁 別名/比定ニサンザイ古墳、東百舌鳥陵墓参考地
アクセスあああ
墳形前方後円墳前方部3段、後円部3段築成。前方部が西向きで立地。
造り出し有り(両側くびれ部)周濠有り(楯形、二重)周庭有り(二重)
規模総長墳長290m
前方部226m長さ高さ22.5m
後円部156m高さ24m頂径
外表施設埴輪有り葺石有り
内部構造・
副葬品
未確認
築造時期5世紀後葉〜末葉
  (出典:『前方後円墳集成 近畿編』山川出版社、『日本古墳大辞典』東京堂出版

宮内庁が反正天皇の空墓として陵墓参考地に指定している古墳

浮島のような墳丘
浮島のような墳丘
師ニサンザイ古墳(略称=ニサンザイ古墳)は、百舌鳥古墳群の南東端にある、前方部を西に向けた大型前方後円墳である。全長290mの雄大な墳丘を周濠に浮かべた姿は、さながら巨大戦艦である。外堤に立って眺める墳丘は、広い周濠に緑の影を落としてまことに美しい。

段に築成された墳丘は、後円部が径156m、高さ約24m、前方部が幅約226m、高さ22.5mを測り、くびれ部の両側に造出しをもつ。現在は一重の楯形周濠を巡らしているが、堺市教育委員会が昭和51年(1976)から翌年にかけて行なった発掘調査の報告によれば、この古墳はかって二重周濠をもち、内堤の幅は約30m、外堤の幅は約21mだったことが分かった。また、葺石と埴輪のあることも確認されているが、主体部の構造や副葬品はわかっていない。

師ニサンザイ古墳は、以前は長谷山(はせやま)と呼ばれていた。その発音が反正山(はせやま)に類似しているため、反正天皇の空陵(からみささぎ)であったとする説がある。履中天皇の殯(もがり)の場所の跡とする説がある。また、江戸時代、この古墳は「反正陵」とする伝承が、地元では伝わっていた。現在、宮内庁はこの古墳を陵墓参考地に指定して管理している。主体部の構造や副葬品を確認できないのは、そのためである。

在反正天皇陵に治定されているのは、田出井山古墳である。ニサンザイ古墳は田出井山古墳に比べて4倍近い面積を占め、大王陵としてふさわしい。ちなみに墳丘長290mを持つこの前方後円墳は、仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳や履中天皇陵に治定されている上石津ミサンザイ古墳に続いて、百舌鳥古墳群では3番目、全国でも8番目の大きさを誇る。

円部の背後に、地形の高くなった所がある。この地形の高くなった所に数基の陪塚があった。その中の京塚山古墳から刳り抜き式石棺が出土している。現在残っているのは聖塚古墳だけである。



古墳の濠に接していた土師氏の有力集団の居住地

武人埴輪
武人埴輪
の古墳は現在堺市西之町に属しているが、古墳の濠に接するように土師町(はぜちょう)がある。土師町は古代の土師郷であり、集落内には奈良時代の土師寺跡がある。

はじめ」にでも述べたように、土師氏(はじし)は埴輪制作集団であるとともに、古墳造営の指揮や大王の葬送儀礼に従事する集団でもあった。俗に「土師氏の四腹」と称されるように、土師氏には4系統あったとされている。奈良盆地の西北部にあたる秋篠と菅原にそれぞれ住んだ土師氏、河内の古市古墳群の周囲に住んだ土師氏、そして百舌鳥古墳群に居住した土師氏である。

の付近に居住した土師氏の集団は「モズ腹」と呼ばれていた。百舌鳥古墳群の巨大古墳の造営は4世紀末ごろ開始されたと言われている。当時は多くの人々が造営工事のために長期間、一定の地に居住する状態が続いていたはずである。考古学者の森浩一氏は盟主陵と思われる古墳に隣接して土師氏の集落があったということは、この古墳が最後が築かれた証拠である、と考えておられるという。




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