天皇陵の治定と陵墓参考地百舌鳥古墳群には、天皇陵に治定されている古墳が3基存在する。第16代仁徳天皇、第17代履中天皇、および第18代反正天皇の陵(みささぎ)に治定されている大仙古墳(全長486m、以下同じ)、上石津ミサンザイ古墳(360m)、および田出井山古墳(148m)である。その他に、陵墓参考地とされている古墳が2基ある。御陵山古墳(186m)と土師ニサンザイ古墳(290m)である。 宮内庁では、天皇、皇后、太皇、太后及び皇太后を葬る所を陵(みささぎ)、その他の皇族を葬る所を墓と規定して、陵墓を管理している。その他にも、陵墓参考地として管理している墓がある。これは、被葬者が具体的に特定できていないが、文献や伝承あるいは墓の規模や出土品の内容から考えて皇室関係者の墓の可能性があるものをいう。 現在宮内庁が管理している陵墓のうち古墳の数は121基に達する。その内訳は陵が59,墓が32,陵墓参考地が28,その他2となっている。このうち、百舌鳥古墳群には天皇陵が3基、陵墓参考地が2基存在することになる。
こうして見ると、考古学的に見た天皇陵の築造時期と、仁徳・履中・反正の皇位継承順が合致しない。天皇陵としての治定が正しいという前提にたっただけでも、築造順は上石津ミサンザイ古墳、大仙古墳、田出井山古墳でなければならない。では大仙=仁徳、上石津ミサンザイ=履中、田出井山=反正の治定は何によるのだろうか。 実は、こうした治定は、幕末の尊皇攘夷の風潮の中で徳川幕府が行った陵墓探索の結果を、明治政府の宮内省がそのまま引き継いでいるにすぎない。江戸幕府は『古事記』や『日本書紀』などの史書、および『延喜式』などに記された陵墓の地名と、その地名に該当すると思われる地域の大きな前方後円墳を選んで天皇陵に治定したにすぎない。当時はまだ考古学的な視点も研究もないに等しい時代であり、古墳の年代が考慮されなかったのはやむを得ない。 上記の3天皇の所在を『古事記』は毛受(もず)の耳原、あるいは毛受、毛受野にあり、と記すのみである。『日本書紀』を見ても、仁徳陵は百舌鳥野陵、履中陵は百舌鳥耳原陵と記すだけで、反正陵にいたっては陵の名前すら伝えていない。現在の百舌鳥耳原中陵、百舌鳥耳原南陵、百舌鳥耳原北陵という呼称は、平安時代の『延喜式』に記されているもので、奈良時代初めの『古事記』や『日本書紀』に記されたものではない。 つまり、記紀編纂の頃には、百舌鳥耳原と呼ばれた地域の存在した天皇陵は誰を埋葬したものかすでに分からなくなっていた。しかし、平安時代の『延喜式』編纂の頃には、仁徳陵を中に挟んで南にあるのが履中陵、北にあるのが反正陵という認識が生まれていた。その認識に基づいて江戸末期に行われた治定を、宮内庁は現代に引き継いでいるにすぎない。
そのような例は他にもある。古市古墳群に含まれる高鷲丸山古墳は、雄略天皇の丹比高鷲原(たじひのたかわしのはら)陵に治定されている。しかし、この古墳は明治時代の修陵工事によって前方後円墳に造り替えられただけで、西側に周濠を巡らした直径約75mの円墳である丸山古墳と、東側の1辺約50mの方墳である平塚古墳から成り立っているにすぎない。そこで、宮内庁は全長335mの河内大塚山古墳を陵墓参考地としている。奈良県内で最大の前方後円墳である見瀬丸山古墳や第3位のウワナベ古墳なども、陵墓参考地に指定されている。 これらの陵墓参考地は、被疑者が特定されないまま書類送検された加害者のようなものだ。しかも、大抵の場合、押し寄せる住宅の波をはね返すように傲岸な態度で横たわっている。本当に皇室の先祖が埋葬されているかどうかもわからない一等地が、市民のための公園などに衣替えして有効利用されないのを見ると、つくづくと日本は不思議な国だと思う。 |
百舌鳥古墳群と古市古墳群との関係考古学的知見では、百舌鳥古墳群の中では、4世紀末頃から5世紀の初め頃に築造された乳岡(ちのおか)古墳が最初の古墳だとされている。第二次世界大戦後まもなくの公団住宅の造成で前方部を付け根から失ってしまったが、復元すれば全長150mを超す大型の前方後円墳である。乳岡古墳がある堺市石津付近は、古くから良港として栄えたところである。おそらくこの地を本拠とした首長の墓ではなかったか、と推測されている。
5世紀にはいると、巨大古墳が次の順序で築造されたようだ。 大王陵に治定されている古墳は宮内庁の管轄下にあり、現在は学術調査すら認められていない。それにもかかわらず、築造時期が推定可能なのは、古墳の周囲から採集された円筒埴輪の編年がほぼ確立していることによる。土器や埴輪の編年は、絶対年代に関してはかなり信頼性が低いが、相対編年については非常に精密なものとされている。もちろん、考古学者は円筒埴輪だけで築造時期を推定しているわけではなく、その他の出土遺物や古文書に描かれたスケッチなども援用している。 そこで問題になるのが、埴輪の形式から判断して、第16代仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳が第17代履中天皇陵に治定されているミサンザイ古墳より新しいということだ。つまり、『延喜式』などの記述を根拠にした現在の治定は、記紀に示された皇統譜に矛盾している。さらに、『古事記』では仁徳天皇は5世紀前半の崩御とされているが、大仙古墳古墳の築造時期は、どんなに古く見積もっても5世紀後半、場合によっては6世紀前半にずれ込むという。状況証拠はどうしても大仙古墳=仁徳陵とする治定は無理であることを示しているようだ。
しかし、誉田御廟山古墳が完成したころ、これをしのぐ巨大古墳の築造が百舌鳥で計画がされた。大仙古墳(仁徳陵)の築造である。大仙古墳と前後して、百舌鳥では土師ニサンザイ古墳(墳丘長290m)、百舌鳥御廟山古墳(墳丘長186m)、田出井山古墳(反正陵 墳丘長150m)といった巨大古墳が造られ、その周辺にも、数多くの中小の古墳が造られ、百舌鳥古墳群の最盛期の様相を呈しする。 ところが、百舌鳥古墳群では、これらが集中して築造された後、ぱったりと古墳の築造が途絶える。百舌鳥古墳群と古市古墳群は、同じく5世紀を中心に形成された大型古墳群だが、比較的安定して古墳を造り続けた古市古墳群に対し、百舌鳥古墳群は短期間に集中して古墳が造られという特徴をもつ。 |