百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)

仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳を盟主とする大古墳群

阪府の堺市には、古市古墳群と並んで我が国を代表する百舌鳥(もず)古墳群がある。そもそも古墳群が築かれている一帯の地名そのものが、古墳の造営と関係がある。『日本書紀』に記された伝承によれば、その昔、この地で古墳の工事中に飛びこんできた鹿の耳から百舌鳥が飛び立ったことから百舌鳥耳原と名づけたという。

百舌鳥古墳群周辺図
百舌鳥古墳群周辺図
舌鳥古墳群は、堺の旧市街地の東南方向に位置し、東西、南北とも約4kmのほぼ正方形の区画に、かっては94基の古墳(前方後円墳23基、帆立貝式古墳9基、方墳8基、円墳54基)が存在したと言われている。現在は、残念なことにその半数近くがすでに失われてしまって、現存する古墳は半壊のものも含めて48基にすぎない。

が、この古墳群には、倭の五王の中の仁徳・履中・反正の三代にわたる王陵が含まれている。特に、仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳は日本第1位の規模を誇る超巨大前方後円墳であり、エジプトのクフ王のピラミットや中国の始皇帝陵と並んで、世界の三大古墳に数えられている。

舌鳥古墳群の形成は4世紀の後半から始まったとされている。そのころに造られた古墳に、全長155mの乳の岡古墳がある。だが本格的な形成は、古市古墳群にやや遅れて開始された。立地条件も古市古墳群とは異なる。古市古墳群は羽曳野丘陵の残丘を利用して築かれてきたが、百舌鳥古墳群は大量の盛り土が必要なほぼ平地に築かれている。

丘の向きに着目した場合、前方部を北西西に向けている古墳群と南南西に向けている古墳群に分類される。前者には土師(はぜ)ニサンザイ古墳(墳長288m)、御廟山古墳(186m)、いたすけ古墳(146m)などがある。一方、後者には大仙(だいせん)古墳(墳長486m)、上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳(365m)、田出井山(たでいやま)古墳(148m)がある。

に、後者は難波の海を航海する船からその側面が遠望できることを意識して造られたようだ。船で大和を訪れる国内の使者や外国からの使節が、大王家の偉大さに驚嘆するとともに、服従の念を抱かせることを意識して計画的に配置されたのだろう。同時に、ヤマト王権の安定性と東アジア世界への進出の意欲を、内外に示すものであったかもしれない。

海高野線の「堺東」駅近くにある堺市役所の展望ホールに登ると、北東方向に反正天皇陵に治定されている田出井山古墳、南東方向に仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳と周辺の陪塚(ばいちょう)、さらに大仙公園の向こうに履中天皇陵に治定されている上石津ミサンザイ古墳などを望見できる。



天皇陵の治定と陵墓参考地

舌鳥古墳群には、天皇陵に治定されている古墳が3基存在する。第16代仁徳天皇、第17代履中天皇、および第18代反正天皇の陵(みささぎ)に治定されている大仙古墳(全長486m、以下同じ)、上石津ミサンザイ古墳(360m)、および田出井山古墳(148m)である。その他に、陵墓参考地とされている古墳が2基ある。御陵山古墳(186m)と土師ニサンザイ古墳(290m)である。

内庁では、天皇、皇后、太皇、太后及び皇太后を葬る所を(みささぎ)、その他の皇族を葬る所をと規定して、陵墓を管理している。その他にも、陵墓参考地として管理している墓がある。これは、被葬者が具体的に特定できていないが、文献や伝承あるいは墓の規模や出土品の内容から考えて皇室関係者の墓の可能性があるものをいう。

在宮内庁が管理している陵墓のうち古墳の数は121基に達する。その内訳は陵が59,墓が32,陵墓参考地が28,その他2となっている。このうち、百舌鳥古墳群には天皇陵が3基、陵墓参考地が2基存在することになる。

大仙古墳
大仙古墳
上石津ミサンザイ古墳
上石津ミサンザイ古墳
田出井山古墳
田出井山古墳
ころで、考古学的知見では、百舌鳥古墳群の形成は4世紀後葉に造られた乳の岡古墳から始まるとされている。続いて、5世紀前葉になると上石津ミサンザイ古墳百舌鳥大塚山古墳いたすけ古墳が築かれ、群形成の頂点となる5世紀後半になって、大仙古墳御廟山古墳土師ニサンザイ古墳田出井山古墳が築かれたとされている。

うして見ると、考古学的に見た天皇陵の築造時期と、仁徳・履中・反正の皇位継承順が合致しない。天皇陵としての治定が正しいという前提にたっただけでも、築造順は上石津ミサンザイ古墳、大仙古墳、田出井山古墳でなければならない。では大仙=仁徳、上石津ミサンザイ=履中、田出井山=反正の治定は何によるのだろうか。

は、こうした治定は、幕末の尊皇攘夷の風潮の中で徳川幕府が行った陵墓探索の結果を、明治政府の宮内省がそのまま引き継いでいるにすぎない。江戸幕府は『古事記』や『日本書紀』などの史書、および『延喜式』などに記された陵墓の地名と、その地名に該当すると思われる地域の大きな前方後円墳を選んで天皇陵に治定したにすぎない。当時はまだ考古学的な視点も研究もないに等しい時代であり、古墳の年代が考慮されなかったのはやむを得ない。

記の3天皇の所在を『古事記』は毛受(もず)の耳原、あるいは毛受、毛受野にあり、と記すのみである。『日本書紀』を見ても、仁徳陵は百舌鳥野陵、履中陵は百舌鳥耳原陵と記すだけで、反正陵にいたっては陵の名前すら伝えていない。現在の百舌鳥耳原中陵百舌鳥耳原南陵百舌鳥耳原北陵という呼称は、平安時代の『延喜式』に記されているもので、奈良時代初めの『古事記』や『日本書紀』に記されたものではない。

まり、記紀編纂の頃には、百舌鳥耳原と呼ばれた地域の存在した天皇陵は誰を埋葬したものかすでに分からなくなっていた。しかし、平安時代の『延喜式』編纂の頃には、仁徳陵を中に挟んで南にあるのが履中陵、北にあるのが反正陵という認識が生まれていた。その認識に基づいて江戸末期に行われた治定を、宮内庁は現代に引き継いでいるにすぎない。

ニサンザイ古墳
土師ニサンザイ古墳
ころで、反正陵に治定されている田出井山古墳の規模は、全長が148mと、他の2つに比べて極端に小さい。しかし、履中陵に治定されている上石津ミサンザイ古墳の東には、土師ニサンザイ古墳と呼ばれている全長290mの堂々たる巨大前方後円墳が存在する。そこで、宮内庁はこの古墳を反正天皇陵の有力候補として「東百舌鳥陵墓参考地」に指定し無断立ち入りを禁止している。陵墓参考地が存在することは、現在の天皇陵の治定を宮内庁自身が信用していない証拠のようなものである。

のような例は他にもある。古市古墳群に含まれる高鷲丸山古墳は、雄略天皇の丹比高鷲原(たじひのたかわしのはら)陵に治定されている。しかし、この古墳は明治時代の修陵工事によって前方後円墳に造り替えられただけで、西側に周濠を巡らした直径約75mの円墳である丸山古墳と、東側の1辺約50mの方墳である平塚古墳から成り立っているにすぎない。そこで、宮内庁は全長335mの河内大塚山古墳を陵墓参考地としている。奈良県内で最大の前方後円墳である見瀬丸山古墳や第3位のウワナベ古墳なども、陵墓参考地に指定されている。

れらの陵墓参考地は、被疑者が特定されないまま書類送検された加害者のようなものだ。しかも、大抵の場合、押し寄せる住宅の波をはね返すように傲岸な態度で横たわっている。本当に皇室の先祖が埋葬されているかどうかもわからない一等地が、市民のための公園などに衣替えして有効利用されないのを見ると、つくづくと日本は不思議な国だと思う。



百舌鳥古墳群と古市古墳群との関係

古学的知見では、百舌鳥古墳群の中では、4世紀末頃から5世紀の初め頃に築造された乳岡(ちのおか)古墳が最初の古墳だとされている。第二次世界大戦後まもなくの公団住宅の造成で前方部を付け根から失ってしまったが、復元すれば全長150mを超す大型の前方後円墳である。乳岡古墳がある堺市石津付近は、古くから良港として栄えたところである。おそらくこの地を本拠とした首長の墓ではなかったか、と推測されている。

世紀にはいると、巨大古墳が次の順序で築造されたようだ。
5世紀前葉に、上石津ミサンザイ古墳(=履中陵古墳)、大塚山古墳(消滅)
5世紀中葉に、大仙古墳(=仁徳陵古墳)、御廟山古墳いたすけ古墳
5世紀後葉に、田出井山古墳(=反正陵古墳)、土師ニサンザイ古墳

王陵に治定されている古墳は宮内庁の管轄下にあり、現在は学術調査すら認められていない。それにもかかわらず、築造時期が推定可能なのは、古墳の周囲から採集された円筒埴輪の編年がほぼ確立していることによる。土器や埴輪の編年は、絶対年代に関してはかなり信頼性が低いが、相対編年については非常に精密なものとされている。もちろん、考古学者は円筒埴輪だけで築造時期を推定しているわけではなく、その他の出土遺物や古文書に描かれたスケッチなども援用している。

こで問題になるのが、埴輪の形式から判断して、第16代仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳が第17代履中天皇陵に治定されているミサンザイ古墳より新しいということだ。つまり、『延喜式』などの記述を根拠にした現在の治定は、記紀に示された皇統譜に矛盾している。さらに、『古事記』では仁徳天皇は5世紀前半の崩御とされているが、大仙古墳古墳の築造時期は、どんなに古く見積もっても5世紀後半、場合によっては6世紀前半にずれ込むという。状況証拠はどうしても大仙古墳=仁徳陵とする治定は無理であることを示しているようだ。

乳岡(ちのおか)古墳
乳岡(ちのおか)古墳
岡古墳に次いで築造された上石津ミサンザイ古墳(=履中陵古墳)は、墳丘長が360mと我が国で3番目の規模を誇る超巨大古墳である。この古墳の出現は、百舌鳥野の地に大王墳の進出を鮮やかに印象づけたに違いない。ミサンザイ古墳の完成と前後して、古市古墳群では、未曾有の規模を誇る誉田御廟山古墳(応神陵)の築造が開始される。この時期の百舌鳥古墳群では、いたすけ古墳(墳丘長146m)が築かれているが、規模は誉田御廟山古墳に比べて格段に小さい。

かし、誉田御廟山古墳が完成したころ、これをしのぐ巨大古墳の築造が百舌鳥で計画がされた。大仙古墳(仁徳陵)の築造である。大仙古墳と前後して、百舌鳥では土師ニサンザイ古墳(墳丘長290m)、百舌鳥御廟山古墳(墳丘長186m)、田出井山古墳(反正陵 墳丘長150m)といった巨大古墳が造られ、その周辺にも、数多くの中小の古墳が造られ、百舌鳥古墳群の最盛期の様相を呈しする。

ころが、百舌鳥古墳群では、これらが集中して築造された後、ぱったりと古墳の築造が途絶える。百舌鳥古墳群と古市古墳群は、同じく5世紀を中心に形成された大型古墳群だが、比較的安定して古墳を造り続けた古市古墳群に対し、百舌鳥古墳群は短期間に集中して古墳が造られという特徴をもつ。



次へ 前へ