水師営会見所(すいしえいかいけんじょ) 乃木大将とステッセル中将の会見がおこなわれた民家

乃木大将とステッセル中将の会見がおこなわれた民家
乃木大将とステッセル中将の会見がおこなわれた民家

藁葺き屋根の粗末な家が会見所だった

は、今回の旅行では、東鶏冠山北堡塁跡を見学する前に、乃木希典将軍が敵将アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセル将軍と会見した水師営の民家を訪れている。会見所は東鶏冠山から10kmほど離れた場所にあり、会見は旅順陥落後の1905年(明治38)1月5日に行われた。当時、この付近は両軍の砲弾のために、家屋という家屋は影も形もなくなっており、会見所に当てられた民家だけが残っていた。日本軍がここを占領すると、直ちに野戦病院として使用し、屋根に大きな赤十字旗をひるがえしていたという。

会見に使われた机
会見に使われた机
在、この民家の藁ぶき屋根には雑草がはびこり、おそらく当時の面影をそのまま残しているものと思われる。内部には日露両軍の控え室も再現されており、壁には当時の様子を伝える写真が展示してある。会見は乃木将軍の発案でステッセル将軍に伝えられたとのことだ。会見の前日、壁に残っている弾のあとに新聞紙で張り、会見室に当てられた部屋には、大きな机を用意し、真っ白な布を掛けられた。

師営の会見は、旅順降伏文書の調印が行われた3日後の1月5日午前11時すぎから行われた。10時30分、ステッセル将軍は参謀長のレイス大佐、マルチェンコ、レブレスコイ両少尉と6人のコサック騎兵を連れて出師営に到着した。乃木将軍の一行はやや遅れて11時15分に会見場に入った。乃木将軍に同行したのは、伊地知参謀長、津野田、安原、松平の三参謀、それに川上書記官の5名だった。会見は、両将軍が双方の軍隊の健闘を称え合い、和やかな雰囲気で行われたという。

師営会見の様子は、佐々木信綱が作詞し、岡野貞一が作曲した「水師営の会見」という文部省唱歌に描かれていて、戦前の教育を受けた日本人なら誰でも、口ずさむことができるほど知られていた。

旅順開城(りょじゅんかいじょう)約(やく)なりて
敵(てき)の将軍(しょうぐん)ステッセル
乃木大将(のぎたいしょう)と会見(かいけん)の 所はいずこ水師営

庭に一本(ひともと)なつめの木 弾丸(だんがん)あともいちじるく
くずれ残れる民屋(みんおく)に いまぞ相見(あいみ)る二将軍

乃木大将は おごそかに、御(み)めぐみ深き 大君(おおぎみ)の
大(おお)みことのり 伝(つと)うれば 彼(かれ)かしこみて 謝しまつる

昨日(きのう)の敵は 今日の友 語ることばも うちとけて
我はたたえつ かの防備 かれは称えつ わが武勇
(以下略)

会見後に撮影された記念写真
会見後に撮影された記念写真
乃木希典書の掛け軸
乃木希典書の掛け軸
見後、乃木・ステッセル両司令官を中心に、日露双方の参加者が記念撮影を行っている。その時の写真が会見を行った部屋の壁に貼られていた。その横には乃木希典書の掛け軸が飾られていた。

れの挨拶のとき、乃木将軍はこれからのステッセ将軍の身の振り方について、次のような提案をしたと伝えられている。
「あなたが帰国を望まれるなら、そのように取りはからいましょう。日本に滞在なさりたいなら、京都に知恩院という寺があります。そこを宿舎になさってはいかが?」
ステッセル将軍は乃木将軍の親切に感謝したが、我が身の上については皇帝(ツアー)の意向を伺わなければと、答えた。後に将軍は皇帝に電話したところ、皇帝の返事は勝手にせよと冷たかったが、皇后は帰国を勧めたという。

師営の会見から1週間後、ステッセル将軍は夫人と4人の養女を伴って汽車で大連を発った。見送る部下将校の姿は少なく淋しいものだったという。彼は帰国したら皇帝に謁見でき、ねぎらいの言葉をかけられるものと期待していた。しかし、予想に反して逮捕され、最高軍法会議であらゆる抵抗手段を尽くすことなく投降したかどで死刑の宣告をうけた。後に死一等を減ぜられ10年の懲役刑に処せられた。

テッセル将軍が投獄されたと聞いて愕然としたのは乃木将軍である。彼は皇帝に「将軍は万策尽きて開城したのであって、罪を許されよ」と嘆願書を送ったという。1910年、ステッセル将軍は恩赦を受けて牢を出た。その後は、茶の行商をしてシベリアを流浪していたという。

912年(大正元)、乃木将軍が自刃した時、モスクワの一僧侶から香典が送られてきた。一僧侶とは元のステッセル将軍だった。その翌年、すなわち第一次世界大戦が始まる1913年、彼は66歳で病没した。



次へ 前へ