203高地 旅順港を巡る日露の争奪戦で激戦地となった海抜203mの山

高地の山頂より旅順港を望む
203高地の山頂より旅順港を望む


突撃と退却が繰り返され多くの死傷者を出した戦場

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旅順マップ
旅順 − 明治を生きた日本人にとって、この二文字は地名以上に、様々な意味を持っていたであろう。それは世界最強のロシア軍に勝利したという感動だったかもしれない。旅順陥落の報に接し、日本中が沸きかえり、街には提灯行列が出て勝利を祝ったと聞いている。

の一方で、信じられないほど多くの戦死者を出した。ロシア側の旅順要塞守備兵力は35、600名、これをを攻囲した日本軍は延べ12万名、戦闘期間は155日だったが、旅順開城の時点で日本軍の死傷者は約6万、ロシア軍のそれは3万であったという。

露戦争は、近代日本の戦史の中で最も悲哀をもって語られることが多いが、旅順攻囲戦はその悲哀を象徴する戦いだった。その中でも、1904年(明治37)の11月26日から12月6日まで続けられた203高地攻略戦で、日本軍は約6万4千の兵士を投入し、戦死者5、052名、負傷者11、884名、合計16、936名という信じがたい数の犠牲者を出した。

203高地の戦闘を伝えた当時の写真
203高地の戦闘を伝えた当時の写真
順博物館を見学した後、旅順口区にあるホテルのレストランで昼食をとった。その後訪れたのは、日露戦争の主戦場の一つだった203高地である。203高地は、旧市街地から北西2.2kmほどのところにある標高203mの山とも言えない丘陵である。頂上に向かう車窓から、旅順港が一望できるのではと期待したが、残念ながら車道の両脇に生い茂る樹木が視界を遮って、旅順港は頂上に着くまで眺めることはできなかた。

露戦争を扱った書籍には、旅順要塞や203高地の攻略を従軍記者がレンズでとらえた写真が掲載されている。それを見るとロシア軍が永久要塞を築いて日本軍を迎え撃った東鶏冠山や二龍山、松木山の堡塁付近も、203高地の斜面も、ほとんどがはげ山である。当時はもともと荒れ地だったのか、それとも両軍から撃ち出される砲弾によって、地表が変えられてしまったのか、ともかく当時はこの付近も荒涼とした戦場だった。

駐車場前の岩に刻まれた「二○山高地」の表示
駐車場前の岩に刻まれた「二○山高地」の表示

スに揺られること10分ほどで、203高地の駐車場に着いた。駐車場の前に「二○三景区」と彫り込んだ岩場があり、山頂までは急坂がその左から続いている。徒歩での登頂が無理な観光客に対しては、有料でマイクロバスが別のルートで山頂まで運んでくれる。

山頂に続く急坂<
山頂に続く急坂
後の日差しは強かったが、急坂をたどって山頂まで登ってみることにした。目の前に続く急坂は今は舗装されすっかり遊歩道として整備されているが、今から105年前、この山の頂上を占領するために実に多くの同胞の血が流された。それは紛れもない歴史的事実である。

 ロシア軍の永久要塞の前に屍の山を築いた日本軍

日露戦争での日本軍の各進路
日露戦争での日本軍の各進路(*)
は、203高地攻略は日露戦争の当初の作戦にはなかった。1904年(明治37)2月6日、ロシア政府に国交断絶を通告したその日、日本政府は連合艦隊を進発させ、全面戦争への火ぶたをきった。大本営が開戦前に決めた作戦の基本は、
@陸軍の主作戦を満州におき、ロシアの野戦軍を求めて攻撃、遠く北方地区に掃討する
A海軍は積極的にロシア太平洋艦隊を攻撃し、これを撃滅して極東における制海権を確立する、
というものだった。

時、ロシアの太平洋艦隊は旅順港を拠点としていた。この艦隊を壊滅させなければ、日本海や黄海での我が国の制海権は保証されない。ところで、旅順港の入り口は旅順口と呼ばれている。老虎尾半島の突端と対岸の黄金山山麓に挟まれた水路は、幅が270mほどしかなく、しかも、水深の関係から大型戦艦が航行できるのは、そのうちの91mにすぎない。そこで、連合艦隊は旅順口に貨物船などの廃船を爆破して沈め、ロシアの太平洋艦隊が外洋に出られなくするという奇策をとった。これを「旅順口閉塞作戦」という。

の無謀きわまりない「旅順口閉塞作戦」は三度試みられたが、いずれも失敗した。たまたま天候に恵まれなかったり、廃船を目的地点に運ぶ前に発見されて集中砲火を浴びたためである。一方、ロシアのバルチック艦隊が遠くヨーロッパから巡航してくる動きをみせていた。日本の連合艦隊がバルチック艦隊を迎え撃つ前に、旅順の太平洋艦隊を壊滅させなければならない。さもないと、挟み撃ちされる危険性があった。

乃木希典第三軍司令長官
乃木希典第三軍司令長官
こで、陸軍に旅順の高地の一つを奪取させ背後から旅順を遅うことになった。大本営は第三軍を急遽編成して、その司令長官に乃木希典(のぎまれすけ)を任命した。乃木将軍の率いる第三軍は6月6日、遼東半島の塩大澳(えんたいおう)に上陸すると、旅順のロシア軍要塞への攻撃を開始し、以下のように三回の総攻撃を行った。

●第一回総攻撃:8月19日に二龍山、東鶏冠山にあった旅順北東部のロシア要塞への攻撃を開始した。戦闘は8月26日まで6日間に及んだ。しかし、ロシア軍の頑強な反撃にあい、失敗に終わる(この戦闘に5万765名が参加し、そのうち15、860名の死傷者を出した)。

●第二回総攻撃:9月9日から龍眼北堡塁および水師営南方堡塁への坑道の掘削を掘り進み、10月26日から6日間、突撃隊は敵の銃撃を避けて堡塁に接近し、至近距離から白兵戦を挑んだ。だが、今回もロシア軍の頑強な抵抗にあって作戦は成功せず(この戦闘で、1、092名の戦死者、2、728名の負傷者を出した)。

8月21日、東鶏冠山北砲台を急襲(*)
8月21日、東鶏冠山北砲台を急襲(**)
●第三回総攻撃:11月26日に開始され、二龍山以東の一戸堡塁、東鶏冠山、松樹山にいたる旧囲壁への攻撃を繰り返したが、日本の各師団はことごとく目標を達成できなかった。日露戦史に残る、特別予備隊2600余名からなる白襷隊の奇襲攻撃もこのとき行われた(日本側は4、500名の死傷者を出し。ロシア軍も戦死者を出した)。

ぜか第三軍司令官の乃木将軍は、旅順要塞の正面攻撃に固執している。大本営が旅順港を見下ろせる西側の二〇三高地に攻撃の目標を切り替えるようたびたび訓令を発していた。しかし、乃木将軍は203高地に振り向こうともせず、鉄壁の要塞へ真っ正面から挑み、悪戦苦闘するばかりだった。

木将軍がとった作戦は、一気呵政に敵の本陣をつくという日本古来の野戦向きの戦法だったようだ。だが、10年前の日清戦争当時とは、旅順の要塞はまったく様変わりしていた。ロシア軍は地形を巧みに生かし、巨費を投じて鉄骨とベトン(コンクリート)で固めた砲台と銃座を無数に構築していた。この永久要塞を取り囲む防御陣地は25キロにも及んだ。連ねられた700門の砲台と三十二個大隊、約4万2千人の守備隊が日本軍を待ちかまえていた。果敢に攻撃する日本軍が屍の山を築くだけだったのは当然である。

 5万の犠牲者を出した末にやっと203高地を奪取

203高地奪取に挑む日本兵たち
203高地奪取に挑む日本兵たち
木将軍が203高地攻略に作戦を切り替えたのは、第三回総攻撃で甚大な被害を受けた後である。203高地への砲撃は、11月28日の朝から開始され、夜半までに203高地の西南山頂を占領した。日本軍の攻撃目標が203高地に変わったことを察知したロシア軍は、要塞から増援部隊を出して逆襲にでてきた。突撃と退却が繰り返される戦場では、敵味方の死体が四重にも五重にも重なっていた。占領した地点に陣地を構えるのに、日本軍は土壌が不足したため死体を積み上げて戦ったといわれる。それでも占領地を支えきれず、29日の夜には奪還されてしまう。

うした状況にしびれを切らしたのは、満州軍総参謀長だった児玉源太郎である。彼は11月30日に第三軍司令部に急行すると、大山総司令官の代理として、乃木将軍から一時的に第三軍の指揮権を取り上げ、みずから第三軍を指揮して二〇三高地を集中的に攻撃した。しかし戦況は一進一退を繰り返した。

203高地観光マップ
203高地観光マップ
2月5日、日本軍は203高地西南部を再び占領することができたが、日本軍に対するロシア軍の反撃は壮絶を極めた。弾丸が欠乏し致命的な状況に追い込まれた日本軍は、石塊や砂礫、木片まで武器に変えて応戦し、必至でロシア軍を撃退した。劣勢が必至となったロシア軍は12月6日払暁までに、雪崩を打って敗走し、203高地はようやく日本軍の手に落ちた。

03高地を確保した日本軍は、ただちに砲撃の観測所を設け、その観測指揮にしたがって港内のロシア戦艦に対して28センチ砲の砲撃を開始した。午後2時、四方を圧する砲声を轟かせ、最初の28センチ砲弾が山稜を越えて湾内のロシア艦隊に襲いかかった。砲撃は以後も続けられ12月8日までにロシアの太平洋艦隊をことごとく撃沈していった。こうしてロシア太平洋艦隊は一度も日本の艦隊と砲火を交えることなく消え去った。


203高地の山頂に建つ慰霊塔<
203高地の山頂に建つ慰霊塔
1月28日から12月6日までの203高地攻略戦で、日本軍は約6万4千人を投入し、戦死者5、052名、負傷者11、884名、合計16、936名という信じがたい犠牲者をだした。今歩いている山頂への道付近も、敵味方の砲弾が炸裂して山の斜面は月面のような無惨な姿に変わり果てていたはずである。せっかく占領した陣地を守ろうとしても、日本兵はすでに弾丸を撃ちつくしていた。迫り来る敵兵に対して、石塊や砂礫、木片まで武器に変えて応戦して撃退したという。そうした光景を頭の隅で描くだけで、周囲の景観は酸鼻を極めた戦場に変わり、背筋に冷たいものが走った。

ーツマスで日露講和が成って10年後に、ロシアの世界的声楽家シャリアピンが203高地を訪れたときの話が伝わっている。折から雨上がりで、高地の斜面には方々に白い貝殻が散らばっているのが見えた。実は貝殻でなくて人骨のかけらだった。シャリアピンは山頂に立って鎮魂の歌を歌った。ふと目を開けると、斜面から幾百幾千の青い服をまとったロシア兵が、蟻のごとく山頂へはい上がってくるのが見えたという。日本人にとってだけでなく、ロシア人にとっても203高地は多くの同胞が眠る戦地なのだ。

汗をかきながらようやく山頂にたどりついた。広場の中央には銃弾の形をした奇妙な忠魂碑が立ち、爾霊山(にれいさん)と書かれている。203高地攻略戦で犠牲となった将兵の霊を慰めるために、日露戦争が終わった1905年に建て始め、1913年に完成した忠魂碑である。銃弾の形の塔は、203高地で拾い集められた弾丸と砲弾の薬莢を集めて日本製のライフル弾の形に鋳直したものだ。爾靈山(にれいさん)は、203を中国語読みすると爾霊山となるために、乃木希典将軍が名付けたという。

なみに、乃木将軍は「爾靈山」と題する漢詩も残している。

爾靈山嶮豈難攀 (爾霊山〔にれいさん〕 嶮〔けん〕なれども 豈〔あ〕に攀〔よ〕ぢ難〔がた〕からんや)
男子功名期克艱 (男子功名 艱〔かん〕に 克〔か〕つを期す)
鐵血覆山山形改 ( 鉄血山を覆ひて 山形改まる)
萬人齊仰爾靈山 (万人斉〔ひと〕しく仰ぐ 爾霊山 )

203高地から俯瞰した旅順港
203高地から俯瞰した旅順港

木将軍の詩にあるように、203高地攻略戦は山形を変えてしまうほど壮絶な攻防戦だった。現在の203高地の標高は200mしかない。日露戦争で3m山が低くなったとされている。その山頂を奪取したときの日本軍の歓喜はいかばかりだっただろうか。眼下に、旅順港を見下ろせ、湾内に停泊しているロシアの艦船が手に取るように見える。まさにこの場所は旅順港に砲撃を加えやすい要地だった。

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ロシア式150ミリカノン砲
場の近くに、ロシア式150ミリカノン砲が2門展示してあった。説明書きによると、203高地争奪戦で高地に駐屯するロシア軍は150ミリ カノン砲2台と76ミリ速射野戦砲2台を設け、散兵塹壕、歩兵塹壕、掩体などを掘って、日本軍からの進撃をねばり強く阻止したという。



(*)近現代史編纂会編「日露戦争」(新人物往来社)より転記
(**)太平洋戦争研究会編「従軍画家が描いた日露戦争」(河出書房新社)より転記

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