五■墳五号墓(ごかいふんごごうぼ)高句麗時代後期の王族の壁画古墳

内部が見学できる唯一の地下壁画古墳
内部が見学できる唯一の地下壁画古墳


集安市の禹山墓区にある壁画古墳

安市内のレストランで昼食をとった後、禹山(うざん)墓区に向かった。標高762mの禹山の南山麓には、五■(かい)墳や舞踊塚、角抵塚、散蓮華塚、四神塚などの壁画古墳が分布している。

在の集安市近辺には、約7000基の古墳が見つかっている。そのうち高句麗の王族・貴族の陵墓群として世界文化遺産に登録されたのは、太王陵、将軍塚、千秋塚など12の大王陵と、将軍塚の陪冢や角抵塚、舞踊塚、五■(かい)墳など26基の貴族墓である。特に後者の貴族墓には、上記のような壁画古墳が14基含まれている。

■(かい)墳の5号墳はそうした壁画古墳の一つで、6世紀末に営まれた貴族墓である。通常、壁画古墳は公開されていないが、この5号墳だけは内部が一般に公開されている。ちなみに、■(かい)という字は「灰」の下に「皿」と書く。「かぶと」という意味で、かぶとの形をした古墳が五つあることから、五■(かい)墳と呼ばれているが、一つの古墳の名称ではない。実際は1号墳から5号墳の5基の古墳からなる。五■(かい)墳の4号と5号、そして通溝四神墓はお互いにくっついて、墓の構造や壁画の内容がほとんど同じであるため、同じ時期の6世紀初頭に築造されたものと見られている。

近くにある五■(かい)墳4号墳と3号墳
近くにある五■(かい)墳4号墳と3号墳
築史家の関野貞は、1913年に集安の古墳を調査し、3,4,5号墳を三塚、1,2号を二塚と呼び、これらの五■(かい)墳の一つに壁画があることを指摘している。4号墳と5号墳は、1937年に当時の奉天大学の黒田源次によって石室内が調査され、1962年には吉林省省博物館も再調査を行っている。4号墳の北50mほどのところに、1935年に東方文化学院の竹島卓一らが発見した四神塚がある。こうして見ると、戦前には日本人の学者が集安の古墳群をかなり調査していたことが分かる。

五■(かい)墳5号墳の入り口
五■(かい)墳5号墳の入り口

■(かい)墳の5号墳は、1938年の保存工事で墳丘の外側に敷石列が確認され、その後1962年に吉林省博物館が調査して詳しい内容が知られるようになった。積石塚とは異なり、五■(かい)墳は方台形の封土墳で、5号墳の場合、墳丘の底辺は25mx25m、残存する高さは3m。五■(かい)墳の中では一番大きいとのことだ。

でに見学した将軍塚や太王陵の積石塚では、石室は5段部分に築かれていた。しかし、五■(かい)墳の石室は中国の古墳に近くて、墓道、羨道(せんどう)、奥室(玄室)からなる単室墓で、地下に切石を積んで築かれている。蘇哲教授の案内で、扉の奥の暗い階段を下りて、かなり長い墓道を進むと、その向こうに玄室があった。

4号墳に描かれた伏義(ふくぎ)と女?(じょか)
4号墳に描かれた伏義(ふくぎ)とジョカ
4号墳に描かれた伎天と仙人図
4号墳に描かれた伎天と仙人図
口に監視員が目を光らせていて、カメラの使用は絶対禁止で、壁画を撮影した場合は、カメラを没収するとのことだ。壁面を手で触ることも、もちろん禁止である。そんなわけで、ここでは石室の内部を紹介できない (ビジターは参考の模写図と4号墳の壁画写真で雰囲気を味わっていただきたい)。 。

道(長さ193cm、幅162cm、高さ187cm(手前)の奥にある玄室もさほど大きくない。資料によれば長さ356cm、幅437cm、高さ394cmとのことだ。一行は2班に分かれて玄室内に入ったが、30名近い人間が入ると身動きできないほど窮屈だ。天井は高句麗古墳の特徴とされる隅三角持ち送りになっており、その上に頂石(ちょうせき)が載せてある。

五■(かい)墳5号の楽器を奏でる図の模写(*)
五■(かい)墳5号の楽器を奏でる図の模写(*)

本の高松塚やキトラ古墳は、墓室の壁に漆喰を塗って、その上に壁画が描かれている。こちらの壁画は四壁、天井、羨道の両壁、棺台などに切石の上に直接描かれている。室内は蒸し暑いくらい湿度が高く保存状態があまり良くないようだ。そのため、ほとんどの絵が退色していて、素人目には良く確認できない。そんな状態の中で、蘇哲教授はライトペンで壁面を照らしながら、描かれた図柄を説明された。

道の右壁には弓を持った力士、左壁には戟(げき)を持った力士が描かれていて、この墓を守っているそうだ。

室の四壁には上下3段に配置された蓮華火炎文を地文として、それぞれ玄武、青龍、白虎、朱雀が描かれており、朱雀は左右一対になっている。

井の壁画は龍、鳳凰、鶏に乗る仙人や日像、月像などがえがかれており、特に2段目の隅三角持ち送りには楽器を奏でる姿が見られる。

哲教授によれば、高松塚古墳やキトラ古墳は何も書いてない余白部分がかなりあるが、こちらの壁画は壁面全体にいろんなものが描かれていて、大変複雑であると同時に華やかとのことだ。たとえばこの石室には龍が39体も描かれているが、この時代のものとしては珍しい。

四神墓は禹山墓区の2113番目の古墳

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通溝四神墓

■(かい)墳の4号墳の北50mほどのところに、1935年に東方文化学院の竹島卓一らが発見した四神墓があるというので、立ち寄った。墓の番号はYM2113となっている。これは禹山墓区の墓2113という意味だそうだ。壁画古墳だが、残念ながら内部は公開されていない。

の前面に建てられた案内によると、この墓も高句麗の貴族墓6世紀末の築造と推定されている。方錘形封土石室墓で、封丘の辺長さは25m、高さは8m。墓道と羨道の奥に方形の玄室があり、その中央に2組の石棺床が築かれており、天井は持ち送り式とのことだ。

室は切石を積んで築かれ、壁面に彩色画が施されている。四神図は東絵が青龍、西絵が白虎、南絵が朱雀、北絵が玄武となっている。さらに、四神図の他に怪獣や仙人 翔龍 流雲、星辰、伏義(ふくぎ)、ジョカなども、樹木や雲柄、木の葉、蓮華紋などの飾り紋様と一緒に表現されているようだ。

近くの集安郊外の民家
近くの集安郊外の民家

時の壁画の柄は、雲柄、蓮華柄、蓮華の葉の柄、宝輪紋など数十種類になるが、このような各種の柄は一つの模様だけを描いたのではなく、さまざまな様式で多様に描かれている。天井の壁画は日、月などと神仙、飛天、山岳図など、前期に比べてより一層空想的な仙界の色彩が目立つようになったとされている。

山墓区のすぐ近くに民家が迫っていた。7000基の古墳が付近に散らばっているというのだから、むしろ住民は墓の間に住んでいるといった方が正しいのかもしれない。



(*1)第8回海外遺跡の旅の資料より転記
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