雲崗石窟(うんこうせっくつ)

Summary

雲崗石窟の標識
雲崗石窟の標識


国山西省北部の都市・大同(だいどう)は、北京から西へ350kmのところに位置している。北魏(386 - 534)の最初の国都・平城はこの地に置かれた。洛陽の竜門石窟、敦煌の莫高窟と並んで中国三大石窟の一つに数えられる雲崗石窟は、華北最大の石窟寺院であり、大同の西約16kmにある武周山の麓に築かれている。開鑿(かいさく)は北魏の和平元年(460)に始まり、太和18年(494)の洛陽遷都を経て、正光5年(524)まで約64年をかけて行われたという。但し、その後も造営は継続され、隋・唐時代や遼・金時代の仏像も見ることができる。

雲崗石窟が開鑿された岸壁
雲崗石窟が開鑿された武州塞(ぶしゅうさい)
魏時代の仏教興隆の功労者は第4代・文成帝(在位452〜465)とされている。452年、第3代・太武帝が宦官に殺され、彼が実施してきた廃仏が終了した。崇仏者だった文成帝が皇帝に即位すると、仏教復興に力を尽くした。彼の治世の時代には、国家と仏教の結びつきが強くなっていった。

成帝は仏教復興の詔を下し、仏教教団を統率する中央官庁である沙門統の長官に曇曜(どんよう)を任命した。和平元年(460)、曇曜は北魏の都・平城の西にある武周山に石窟を築くことを建議した。文成帝は曇曜の建議を受け入れると、彼を責任者として五窟を開くことを許可した。

2代・明元帝の時から武周山は歴代の北魏皇帝から福を祈る山とされてきた。一方、当時の平壌は中国北方の政治・宗教・文化の中心であり、全国から優秀な人材が集められていた。その中には、涼州から移住を強制された僧侶3千人、官吏・人民・工匠3万人がいた。北魏の皇室はその国力をもとに、大規模な雲崗石窟の開鑿を始めた。


崗石窟を世に知らしめた日本人の功績は大きい。最初にこの石窟を世界に紹介したのは東京帝国大学の伊東忠太教授(1954年没)で、東亜古建築の研究のため、明治35年から36年にかけて中国各地を歴遊し、その旅行中に雲崗石窟を発見し、近代的学術的手法で調査し、世界に広めた。
その後、関野貞(1935年没)が石窟を調査し、共著『支那仏教史蹟』の中で雲崗石窟を紹介している。
京都の東方文化研究所の若い所員、水野清一長廣敏雄の両氏は昭和13年(1938)から組織的な調査を開始し、昭和19年(1944)まで7回の調査を行った。その報告書は戦後『雲崗石窟』全16巻として出版された。



雲崗石窟の区分と開鑿時期


雲崗石窟
雲崗石窟寺院の配置
州川の北岸は砂岩質台地の断崖が続いている。その断崖に東西約1kmにわたって開鑿(かいさく)された雲崗石窟は、いずれも仏教の石窟で、開鑿は紀元453年に始まり、今日まですでに1500年の歴史がある。中国の調査では、現存する主要な石窟は45あり、それに付属する大小の窟龕(くつがん)は252にのぼる。これらの石窟には、10m以上の大仏像が9体、1〜10mまでのものが911体、1m以下のものが4万8170体、その他の彫像が2080体、合計すると5万1170体の仏像が彫られているという。

のほとんどは、北魏の第4代・文成帝の和平年間(460 - 465)から第6代・孝文帝の太和17年(493)までに開鑿された。石窟の総面積は約40万uである。1961年に、雲崗石窟は中国国務院から国の初めての重点文化財と指定された。2001年にはユネスコの世界遺産にも指定された。

の地形によって、石窟全体は東部・中部・西部の3つに分けられ、東から西に番号が付けられている。東方の丘には第1窟から第4窟、中央の丘には第5窟から第13窟、西方の丘には第14窟から第45窟がある。西方の丘は、さらに東側半分と西側半分に区分され、東側半分に位置する第16窟から第20窟は、和平元年(460)に沙門統の曇曜が提出した建議によって皇室が造営したもので、曇曜五窟と呼ばれている。これらの石窟は第一期の造営に属し、和平年間(460 - 465)に開鑿された。

一期に開鑿された曇曜五窟(第16−20窟)は、床面が楕円形をしていて、天井は穹窿状になっているのが特徴である。主要な造像は三世仏と千仏で、三世仏は石窟内の大部分を占め、千仏は外壁に彫られている。曇曜五窟のもう一つの特徴は、窟内いっぱいに16.8m、15.5m、13.7mといった巨大な仏像を彫りだしている点にある。五窟を企画した曇曜は、敦煌莫高窟の第275窟などのように、主尊が窟内いっぱいに安置して、見る者を圧倒するような故郷涼周の石窟を頭に描いていたものと思われる。その背景には、4世紀から5世紀にかけてガンダーラ地方で巨大化した粗像製作の影響が指摘されている。

二期の石窟は、文成帝の死後から孝文帝が落陽遷都する太和18年(494)までの30年にわたって造営されたもので、床面が方形になっているものが多い。上下左右は層または段に分かれていて、龕像(がんぞう)が多くなる。第一期のような巨大な仏像は少なくなるが、題材が多様化してくる。内部は前後二室に分かれ、方柱塔がある。第2期に属する主な石窟は5組ある。そのうち4組な双窟(第7・8窟、第9・10窟、第5・6窟、第1・2窟)で、あと一組は3窟から構成されている。

三期の石窟は、孝文帝が洛陽に都を遷した太和18年(494)以後、北魏滅亡(535)にいたる時代に造営されたもので、主な石窟は第20窟から西に位置している。小窟龕が多く、塔窟もあり、壁に三龕や二龕を設けた石窟が多い。



 曇曜五窟

魏の文成帝の和平初年(西暦460年)から5年間、高僧・曇曜の指揮によって開鑿されたとされる曇曜五窟は、西方の第16窟から第20窟の5窟がこれに相当する。曇曜五窟は、北魏仏教が世俗の王権に依存していた特徴をよく表しているとよく言われる。本尊はいずれも巨大であり、それぞれの石窟において主要な位置を占めている。五窟の大仏はそれぞれ北魏建国の五人の皇帝を象徴しているという。礼仏とは皇帝を拝することと同義だった時代の証である。

教とは、仏像などの芸術作品を媒体として教義を教える宗教である、とよく言われる。したがって、仏像は信者に教義を伝え、難解な教典を理解しやすく人々に受け入れやすいものに変える手段であると言えよう。だが、曇曜五はもう一つ際だった特徴を持つ。当時在位していた文成帝を象徴した第16窟の本尊が単独の釈迦仏立像である以外は、いずれの石窟でも如来形の三世仏(過去仏、現在仏、未来仏)を本尊としている点である。そのねらいは明らかだ。皇帝のために、そして皇室の繁栄のために、三世仏が造られたと考えてよいであろう。

れらの仏像は、中国式の「僧祇支(そうぎし)」という下着をつけ、腰に裙(くん)をまき、「大衣(だいえ)」で全体をおおう服装をしている。こうした雲崗初期の仏像は、敦煌の莫高窟(ばくこうくつ)に彫られた北魏窟の仏像の表現に近い、とされている。


 第16窟−文成帝

第16窟の本尊
第16窟の本尊・釈迦仏立像
曜五窟の第16窟の本尊である釈迦立像は、第4代・文成帝を象(かたど)ったと言われている。曇曜の献策を受けて、ここ武周山に石窟寺院の建立を決意したのは、他ならぬ文成帝自身であり、彼は465年まで在位している。高さ13.5mの巨像は髪が波状に表され、美しい顔立ちをしているが、おそらく生前の文成帝を模したものと考えて間違いない。

ああああ
本尊の顔(拡大)
の巨大な石仏は、僧祇支をつけ、裙を巻き、大衣で全体をおおっている。胸の前で結んだ帯が下に長く垂れ、衣の文が階段式に平行に表されている。像に下半分は破壊されているが、像の前に立って仰ぎ見ると、仏像を仰ぐというより、皇帝の前にひれ伏す感じである。




 第17窟−景穆帝

第17窟の主尊・交脚弥勒
第17窟の主尊・交脚弥勒
側の壁に高さ15.6mの交脚弥勒菩薩像が掘られている。この菩薩像は、太武帝の長男で太子だった晃(景穆(けいぼく)帝)を象ったとされている。

武帝の破仏によって北魏仏教は大打撃を受けたが、太子晃は陰で仏教を助け、そのお陰で仏教教団は命脈を保つことができたと言われている。晃は451年に病死し、その翌年に太武帝が殺されたので、晃の長男だった文成帝が即位して、亡父の遺志を継いで仏教の興隆に努めた。

の壁には仏陀座像が、西の壁には仏陀立像が掘られている。交脚弥勒菩像とあわせて三世仏という。西壁の仏龕には、円形の頭光をつけた供養天が掘られている。大髻(たいけい)を結い、顔はふくよかで眉と目が細長い。

17窟には太和13年(489)の銘がある仏龕(ぶつがん)があり、曇曜五窟の中では最も遅れてできたものと考えられている。


 第18窟−太武帝

第18窟正壁の千仏袈裟の仏
第18窟正壁の千仏袈裟の仏
18窟は、第19窟とともに最も早く完成したとされている。高さ15.5mの主仏は優しく厳かな表情をしていて、太武帝を象ったと言われている。右肩を出して袈裟を羽織り、右手を下に垂らして、左手を胸の前に置いている。袈裟には小さな仏像が多数掘り込まれており、「千仏袈裟」と呼ばれている。

十大弟子像の一つ
十大弟子像の一つ
尊と東西の壁の立像仏との間に、十大弟子像と脇侍菩薩像が彫られている。東側の4体の弟子像の頭が丸彫りされていて、体は高浮彫されていて、あたかも壁から抜け出たような印象を与える。








 第19窟−明元帝

明元帝を象った巨大な大仏
明元帝を象った巨大な大仏
19窟北壁の本尊・釈迦立像は第2代・名元帝を象ったとされている。雲崗石窟寺院の中で2番目に大きい大仏で、16.8mもある。耳が異様なほど長く垂れ下がっていて、首に達している。通肩で大衣をまとい素足で立っている。

手は胸の前で掌を外側に向けて施無畏(せむい)印を結び、左手は合掌して跪いている子供の頭を撫でている。釈迦が6年の修行の後に成道して我が子と対面したときの様子を表しているとのことだ。

が、顎の部分が欠けたこの巨大な仏像を下から見上げると、昔のテレビ漫画の「鉄人28号」を見ているような錯覚を覚える。体中に刻まれている小さな穴はまるで鉄板を鋲止めした鎧のようだ。








 第20窟−道武帝

露坐の大仏
雲崗石窟を代表する第20窟の露坐の大仏

20窟の北壁に結跏趺坐する本尊は、北魏の開祖・道武帝を象ったとされる三世仏である。その高さは13.8m。この石窟の前の壁が遼の時代以前に崩壊したため、本尊が野外に出ている。このため、俗に「露坐の大仏」と呼ばれている。

光パンフレットなどに必ず取り上げられる仏像なので、なじみが深い。顔は丸みを帯び、両耳は肩に垂れ、両目は鋭く輝いて前方を見据えている。高く通った鼻筋、鋭くくっきりした唇、まっすぐに張った両肩、厚い胸。どこをとっても開祖・道武帝のたくましさを感じさせる。

尊の左に菩薩の立像がある。その衣文がなだらかで、体躯の表現も力強い。



 その他の石窟


 第3窟

第3窟の正面
雲崗最大の第3窟の正面
3窟は雲崗最大の石窟で、窟内の高さが25mもある。当初は大型の塔廟窟として設計され、北魏時代に開鑿(かいさく)が始められた。しかし都が洛陽に遷されるまでに彫られたのは、方柱の南面と東・西面の一部だけだった。唐代になって北壁西側の倚坐像と左右の脇侍菩薩が彫られた。

窟前面の上部には12の方形の掘り込みがある。これは窟全体を蓋う巨大な木造建築があったことの名残だそうだ。実際に石窟の中に入ってみると、掘削が途中で放り出された洞窟といった感じだ。内部は前後2室が彫られていて、後室にある、豊満な滑らかな西方三聖(阿弥陀仏・観世音菩薩・大勢至菩薩)は、唐代に彫られたものである。しかし、石窟の完成はあきらめたようである。


 第5・6窟

小仏龕の中の仏像
第5窟の観音像
5窟とその右隣にある第6窟は、孝文帝の勅願で太和7年(483)ごろに完成したとされる双窟である。石窟の前に木造の楼閣が建てられていて、一見しただけで仏教寺院と分かる。屋根を瑠璃瓦で葺いた楼閣は、柱間5間の4層建築で、清の順治8年(1651)に再建された。

5窟も第6窟も、内部の諸仏は清時代に彩色し直したのか、とてもカラフルである。第5窟の中央には、黄金色に塗られた釈迦牟尼坐像が彫られている。高さが17mあり、雲崗石窟中最大の仏像である。第6窟の中央には高さ15mの塔があり、各層には仏像、菩薩像、羅漢像、飛天像などが、また天井には33天神像が刻まれている。

6窟の仏像の服装は、それまでのインド式の薄い着物を両肩または左肩にかけるものとは異なっていて、漢族の服装になっている。すなわち、中国式の上衣を着て下裳を付けている。

第6窟の仏像
第6窟の仏像
5窟の前室北壁の小仏龕の中に、実に顔のきれいな観音像が彫り込まれていた。周りの仏像が彩色されているのに、この仏像だけが色落ちしている。入り口の誰にでも手に触れる位置に刻まれているためか、この典雅で優美な姿に参拝者がさわるのだろう。広隆寺の宝冠弥勒菩薩のイメージによく似ていた。

6窟にも様々な仏像が仏龕に彫られているが、その南壁の中程に飛鳥大仏に似た座像があった。もちろん顔つきなど似て非なるものだが、造形感覚に共通するものを感じた。もし止利仏師がこの仏像を見ていたならば、必ず模写したのではと、よけいなことを考えた。


 第7・8窟

供養天
第7窟の供養天
曜五窟に続いて開鑿されたと思われるのが、第7・第8窟である。なにしろ雲崗石窟は紀年銘があるものがきわめて少ない。このため、和平年間以降、太和初年(477)ごろまでに造営されたと推測されている。第7窟と第8窟は一対窟(双窟)で、前室と主室(後室)からなる。もっとも図像学的な内容と、整頓された彫刻意匠を持っているとされる。

7窟の主室南壁の拱門上部には6体の供養天が、2組に分かれ互いに向かい合って跪いている。そのうちの一体は顔が丸くふくよかで、目と眉が細長く、鼻梁が高く、口は小さく薄い。遠目にも優美な姿に見える。






 第9・10窟

菩薩像
第9窟前室北壁西側の交脚弥勒菩薩像
9・10窟は第7・第8窟の西隣にあり、これらの石窟に引き続いて開鑿されたと考えられている。第7・第8窟と同様に、一対窟(双窟)で、前室と主室(後室)からなる。第9・10窟の仏像は、インド・グプタ様式を反映している。

9窟前室北壁西側には、ふくよかで端正な顔立ちをした交脚弥勒菩薩像が彫られている。後世、金が貼られ、さらに彩色の補修が施されている。


曇曜(どんよう)について

曇曜五窟
曇曜五窟
崗石窟は曇曜の建議によって、和平元年(460)に開鑿が始まったとされている。曇曜は、文成帝の治世(440年〜465年)に沙門統(仏教長官)に任じられ、それまでは道教重視、仏教弾圧の方針から転換した国家仏教の整備に大いに貢献した。彼は、武周山に石窟5カ所を開き、先代の5人の皇帝(道武帝、明元帝、太武帝、太子晃(景穆、即位前に崩御)、文成帝)の供養にすることを文成帝に奏上したという。そして開鑿された曇曜五窟が、雲崗石窟の始まりであるとされている。

曜は幼くして出家し、北涼(420- 439)の太傅・張潭に師事した。中国の北部を統一した北魏の太武(たいぶ)帝は、太延5年(439)、北涼を攻めてこれを滅ぼし、その都・涼州の民3万余家を、北魏の都・平城(山西省大同)に移した。その中に、曇曜などの僧侶や多くの技術者がいた。太武帝による北涼平定をもって、304年に匈奴の劉淵(りゅうえん)が漢王を称して始まった16国の大乱は終わり、黄河流域に沿う華北地域はほぼ統一された。

武帝のとき寇謙之(こうけんし、362 - 448)があらわれ、道教が国家的宗教になった。太武帝は太平真君7年(446)、廃仏令を出して仏教を弾圧した。中国における仏教迫害は「三武一宗の法難」と言われ、四回を数える。太武帝の仏教弾圧はその最初のものである。

の時期、曇曜は還俗して中山に隠遁していた。承平元年(452)、太武帝が宦官によって殺され、文成帝が13歳で即位した。この若き文成帝は仏教復興に心をくだき、和平元年(460)、曇曜を召し出し、当時の仏教界の最高位である(第2代)沙門統に任じた。曇曜は文成帝に要請して大同の西に雲崗石窟を開きはじめ、この事業を孝文帝まで続けている。彼は文成帝から孝文帝まで三代に仕え、寺院を建立し、多くの仏像を造り、訳経典にも携わっている。




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