雲崗石窟の区分と開鑿時期
そのほとんどは、北魏の第4代・文成帝の和平年間(460 - 465)から第6代・孝文帝の太和17年(493)までに開鑿された。石窟の総面積は約40万uである。1961年に、雲崗石窟は中国国務院から国の初めての重点文化財と指定された。2001年にはユネスコの世界遺産にも指定された。 山の地形によって、石窟全体は東部・中部・西部の3つに分けられ、東から西に番号が付けられている。東方の丘には第1窟から第4窟、中央の丘には第5窟から第13窟、西方の丘には第14窟から第45窟がある。西方の丘は、さらに東側半分と西側半分に区分され、東側半分に位置する第16窟から第20窟は、和平元年(460)に沙門統の曇曜が提出した建議によって皇室が造営したもので、曇曜五窟と呼ばれている。これらの石窟は第一期の造営に属し、和平年間(460 - 465)に開鑿された。 第一期に開鑿された曇曜五窟(第16−20窟)は、床面が楕円形をしていて、天井は穹窿状になっているのが特徴である。主要な造像は三世仏と千仏で、三世仏は石窟内の大部分を占め、千仏は外壁に彫られている。曇曜五窟のもう一つの特徴は、窟内いっぱいに16.8m、15.5m、13.7mといった巨大な仏像を彫りだしている点にある。五窟を企画した曇曜は、敦煌莫高窟の第275窟などのように、主尊が窟内いっぱいに安置して、見る者を圧倒するような故郷涼周の石窟を頭に描いていたものと思われる。その背景には、4世紀から5世紀にかけてガンダーラ地方で巨大化した粗像製作の影響が指摘されている。 第二期の石窟は、文成帝の死後から孝文帝が落陽遷都する太和18年(494)までの30年にわたって造営されたもので、床面が方形になっているものが多い。上下左右は層または段に分かれていて、龕像(がんぞう)が多くなる。第一期のような巨大な仏像は少なくなるが、題材が多様化してくる。内部は前後二室に分かれ、方柱塔がある。第2期に属する主な石窟は5組ある。そのうち4組な双窟(第7・8窟、第9・10窟、第5・6窟、第1・2窟)で、あと一組は3窟から構成されている。 第三期の石窟は、孝文帝が洛陽に都を遷した太和18年(494)以後、北魏滅亡(535)にいたる時代に造営されたもので、主な石窟は第20窟から西に位置している。小窟龕が多く、塔窟もあり、壁に三龕や二龕を設けた石窟が多い。 |
曇曜五窟北魏の文成帝の和平初年(西暦460年)から5年間、高僧・曇曜の指揮によって開鑿されたとされる曇曜五窟は、西方の第16窟から第20窟の5窟がこれに相当する。曇曜五窟は、北魏仏教が世俗の王権に依存していた特徴をよく表しているとよく言われる。本尊はいずれも巨大であり、それぞれの石窟において主要な位置を占めている。五窟の大仏はそれぞれ北魏建国の五人の皇帝を象徴しているという。礼仏とは皇帝を拝することと同義だった時代の証である。 仏教とは、仏像などの芸術作品を媒体として教義を教える宗教である、とよく言われる。したがって、仏像は信者に教義を伝え、難解な教典を理解しやすく人々に受け入れやすいものに変える手段であると言えよう。だが、曇曜五はもう一つ際だった特徴を持つ。当時在位していた文成帝を象徴した第16窟の本尊が単独の釈迦仏立像である以外は、いずれの石窟でも如来形の三世仏(過去仏、現在仏、未来仏)を本尊としている点である。そのねらいは明らかだ。皇帝のために、そして皇室の繁栄のために、三世仏が造られたと考えてよいであろう。 これらの仏像は、中国式の「僧祇支(そうぎし)」という下着をつけ、腰に裙(くん)をまき、「大衣(だいえ)」で全体をおおう服装をしている。こうした雲崗初期の仏像は、敦煌の莫高窟(ばくこうくつ)に彫られた北魏窟の仏像の表現に近い、とされている。 第16窟−文成帝
第17窟−景穆帝
太武帝の破仏によって北魏仏教は大打撃を受けたが、太子晃は陰で仏教を助け、そのお陰で仏教教団は命脈を保つことができたと言われている。晃は451年に病死し、その翌年に太武帝が殺されたので、晃の長男だった文成帝が即位して、亡父の遺志を継いで仏教の興隆に努めた。 東の壁には仏陀座像が、西の壁には仏陀立像が掘られている。交脚弥勒菩像とあわせて三世仏という。西壁の仏龕には、円形の頭光をつけた供養天が掘られている。大髻(たいけい)を結い、顔はふくよかで眉と目が細長い。 第17窟には太和13年(489)の銘がある仏龕(ぶつがん)があり、曇曜五窟の中では最も遅れてできたものと考えられている。 第18窟−太武帝
第19窟−明元帝
右手は胸の前で掌を外側に向けて施無畏(せむい)印を結び、左手は合掌して跪いている子供の頭を撫でている。釈迦が6年の修行の後に成道して我が子と対面したときの様子を表しているとのことだ。
だが、顎の部分が欠けたこの巨大な仏像を下から見上げると、昔のテレビ漫画の「鉄人28号」を見ているような錯覚を覚える。体中に刻まれている小さな穴はまるで鉄板を鋲止めした鎧のようだ。
第20窟−道武帝
第20窟の北壁に結跏趺坐する本尊は、北魏の開祖・道武帝を象ったとされる三世仏である。その高さは13.8m。この石窟の前の壁が遼の時代以前に崩壊したため、本尊が野外に出ている。このため、俗に「露坐の大仏」と呼ばれている。 観光パンフレットなどに必ず取り上げられる仏像なので、なじみが深い。顔は丸みを帯び、両耳は肩に垂れ、両目は鋭く輝いて前方を見据えている。高く通った鼻筋、鋭くくっきりした唇、まっすぐに張った両肩、厚い胸。どこをとっても開祖・道武帝のたくましさを感じさせる。 本尊の左に菩薩の立像がある。その衣文がなだらかで、体躯の表現も力強い。 |
その他の石窟第3窟
石窟前面の上部には12の方形の掘り込みがある。これは窟全体を蓋う巨大な木造建築があったことの名残だそうだ。実際に石窟の中に入ってみると、掘削が途中で放り出された洞窟といった感じだ。内部は前後2室が彫られていて、後室にある、豊満な滑らかな西方三聖(阿弥陀仏・観世音菩薩・大勢至菩薩)は、唐代に彫られたものである。しかし、石窟の完成はあきらめたようである。 第5・6窟
第5窟も第6窟も、内部の諸仏は清時代に彩色し直したのか、とてもカラフルである。第5窟の中央には、黄金色に塗られた釈迦牟尼坐像が彫られている。高さが17mあり、雲崗石窟中最大の仏像である。第6窟の中央には高さ15mの塔があり、各層には仏像、菩薩像、羅漢像、飛天像などが、また天井には33天神像が刻まれている。 第6窟の仏像の服装は、それまでのインド式の薄い着物を両肩または左肩にかけるものとは異なっていて、漢族の服装になっている。すなわち、中国式の上衣を着て下裳を付けている。
第6窟にも様々な仏像が仏龕に彫られているが、その南壁の中程に飛鳥大仏に似た座像があった。もちろん顔つきなど似て非なるものだが、造形感覚に共通するものを感じた。もし止利仏師がこの仏像を見ていたならば、必ず模写したのではと、よけいなことを考えた。 第7・8窟
第7窟の主室南壁の拱門上部には6体の供養天が、2組に分かれ互いに向かい合って跪いている。そのうちの一体は顔が丸くふくよかで、目と眉が細長く、鼻梁が高く、口は小さく薄い。遠目にも優美な姿に見える。 第9・10窟
第9窟前室北壁西側には、ふくよかで端正な顔立ちをした交脚弥勒菩薩像が彫られている。後世、金が貼られ、さらに彩色の補修が施されている。 |
曇曜について
曇曜は幼くして出家し、北涼(420- 439)の太傅・張潭に師事した。中国の北部を統一した北魏の太武(たいぶ)帝は、太延5年(439)、北涼を攻めてこれを滅ぼし、その都・涼州の民3万余家を、北魏の都・平城(山西省大同)に移した。その中に、曇曜などの僧侶や多くの技術者がいた。太武帝による北涼平定をもって、304年に匈奴の劉淵(りゅうえん)が漢王を称して始まった16国の大乱は終わり、黄河流域に沿う華北地域はほぼ統一された。 太武帝のとき寇謙之(こうけんし、362 - 448)があらわれ、道教が国家的宗教になった。太武帝は太平真君7年(446)、廃仏令を出して仏教を弾圧した。中国における仏教迫害は「三武一宗の法難」と言われ、四回を数える。太武帝の仏教弾圧はその最初のものである。 この時期、曇曜は還俗して中山に隠遁していた。承平元年(452)、太武帝が宦官によって殺され、文成帝が13歳で即位した。この若き文成帝は仏教復興に心をくだき、和平元年(460)、曇曜を召し出し、当時の仏教界の最高位である(第2代)沙門統に任じた。曇曜は文成帝に要請して大同の西に雲崗石窟を開きはじめ、この事業を孝文帝まで続けている。彼は文成帝から孝文帝まで三代に仕え、寺院を建立し、多くの仏像を造り、訳経典にも携わっている。 |