北魏略史


北魏の建国と発展

北魏の領域拡大図
北魏の領域拡大図
北魏は、北方の遊牧騎馬民族である鮮卑族の拓跋(たくばつ)部が作り上げた国家である。鮮卑諸族の中の有力部族だった拓跋部は、3世紀中頃までには内蒙古周辺を中心とした一大勢力に成長した。酋長の力微(りきび、277年没)は騎兵20万余を率いる勢力を持ち、拓跋部を中心とする部族連合国家を作りあげていた。

295年、力微の末子・禄官(ろくかん)が大酋長の位につくと、国を分けて東・中・西の三部とし、自分は東部におり、中部は長兄の猗■(いい)に、西部は次兄の猗廬(いろ)に任せた。猗■と禄官が相次いで死んだため、308年、猗廬は三部を統一した。西晋はこれを懐柔すべく、310年には彼を代公に封じ、314年には代国王とした。しかし、これは却って拓跋部の勢力伸張を促すこととなった。猗廬は盛楽(成楽)を北都、大同を南都とし、内蒙古から山西北部の地域をほぼ領有した。

 初代皇帝・道武帝(在位386〜409年)

北魏の皇帝たち
北魏の皇帝たち

316年に西晋が滅亡すると、拓跋部は実質的な独立国となり、338年には什翼ノ(じゅうよくけん)が王位について代国の国家体制を固めた。386年、什翼ノの孫の拓跋珪(たくばつけい)が諸部の酋長に推戴されて代王につくと、魏と国号を改め、年号を登国とした。そして398年、珪は都を平城(現在の大同市)に遷して帝位についた。彼が北魏の初代皇帝である道武帝(在位386〜409年)である。

 第二代皇帝・明元帝(在位409〜423)

明元帝の時代になると、東晋を倒して南朝に栄えていた宋をも攻撃して、黄河以南にも進出せんとするほどに強大となつた。
他の北方民族と異なり、北魏がここまで強大になれた理由は、遊牧民の伝統である部族制を廃棄して族長を貴族として遇したこと、戸籍を整備して戸籍には無縁だった遊牧民も漢族と同じ州県の戸籍に編入したこと、中国式専制制度を積極的に取り入れ、鮮卑族に拘らず漢族も積極的に官僚として登用したこと、遊牧民としての生活様式を捨てて農業を振興したこと、などがあげられている。

 第三代皇帝・太武帝(在位423〜452)

太武帝は、漢人である崔浩(さいこう)をブレーンとして国家体制を強化すると、漢人官僚の頭脳と鮮卑族の勇敢な騎馬機動力をもって、五胡が建国した国家を次々と破り、439年に華北を統一した。439年に北涼を攻めてその都・涼州を落とすと、太武帝はは涼州の民3万余家を北魏の都・平城(山西省大同)に移した。その中に、曇曜などの僧侶や多くの技術者がいた。更には西方にも勢力を伸ばし、東西貿易利益も独占するに至りました。

太武帝は帝位を絶対化・正当化する為には道教が有効であると判断して道教の創始者寇謙之(こうけんし)を重用、寇謙之は仏教を徹底的に弾圧、廃仏廃寺、仏僧迫害などを行なった。

 第四代皇帝・文成帝(在位452〜465)

452年、太武帝が宦官に殺されると、太武帝の孫の文成帝が13歳で即位した。すでに、仏教は民間から貴族にまで深く浸透していた為、文成帝は仏教復興の詔を下し、曇曜を沙門統に任じた。平城には寺院が建設され、西郊の雲崗に石窟寺院が造営された。

 第五代皇帝・献文帝(在位465〜471)

献文帝は12歳で即位した。彼の時代、雲崗石窟に大仏(丈六釈迦像)が造られた。平城には、七重の塔をもつ永寧寺(えいねいじ)が建立された。献文帝は在位6年で、皇太后馮(ふう)氏によって廃され、殺害されてしまう。

平城から洛陽へ遷都


 第六代皇帝・孝文帝(在位471〜499)

471年、文成帝の孫である孝文帝が5歳で即位する。文成帝の漢人皇后馮氏は、自らの孫である幼い孝文帝の摂政となって馮太后(文明太后)として実権を握っていた。この頃は、南朝の宋は政治的に不安であり、大量の漢人が北魏に亡命してきた。そのため、北魏の支配者は漢人の豪族や名門だけでなく、農民たちも安定させなければならなかった。そこで、馮太后は様々な政策を実施した。その中でも特に有名なのは、485年の均田制と、486年の三長制である。馮太后は、他にも多数の漢人化政策を実施し、且つ幼い孝文帝にも徹底して漢人教育を施した。

均田制は15歳以上の成年男子に穀物を作る「露田」10畝(ほ)、その妻および奴婢にもそれぞれ20畝割り当てるもので、後に唐の「口分田」の基礎となったものである。三長制は戸籍を定めるための隣組制度で、五家を一つの「隣」とし、五隣を一つの「里」とし、五里を一つの「党」にまとめ、それぞれに長を置いた。

493年9月、成人した孝文帝は洛陽に行幸した。彼は漢魏晋代の洛陽の故宮の基址を巡り、大学を訪ね、石経の前にたたずんだ。若き皇帝は、中国を統一するためにはまず漢民族の文化に同化しなければならないと考えていた。しかし、都の平城はあまりに北によりすぎている。そこで、洛陽に遷都することを決意し、その年の10月、洛陽遷都を宣言した。しかし、群臣の反対が多かったため、翌494年1月、南朝を討つ名目で20万の大軍を動員して、皇帝の車駕が正式に洛陽に移った。翌495年には、鮮卑族の勇士15万人で近衛軍団を組織し、平城から北魏の宮廷の文武百官を洛陽に移住させた。

孝文帝は、胡服を着ることを禁止し、朝廷では鮮卑語を止めて中国語を使わせた。さらに、北方民族の名前もすべて中国風に変えさせ、漢人豪族の家格を評定して、第一級の家格「六姓」の北魏帝室との通婚を認めた。

 第七代皇帝・宣武帝(在位499〜515)

洛陽城の大規模な造営は、宣武帝の景明2年(501)から開始された。この年、畿内の人夫5万5千人を動員して、漢・魏・晋の故城を内城とし、東西20華里、南北15華里を外郭とし、その中を323の方形の坊で区画した(このように、北魏の洛陽城は漢・魏・晋の洛陽城の上に重なって築かれたが、北魏末には廃墟と化した。隋唐の洛陽城は西方に移って築かれた)。

北魏時代、洛陽には11万戸の民家があった。宣武帝・孝明帝の時代は仏教が栄え、洛陽の寺院の数は、神亀元年(518)には500,北魏末には1367を数えた。都市の三分の一は寺院で埋められたという。

北魏の分裂


 第八代皇帝・孝明帝(在位515〜528)

洛陽に入った鮮卑族をはじめとする北族の上層部は中国式の貴族と化していった反面、北方の長城地帯に配備された北鎮の将兵たちは、田舎者と卑しまれ仕官の道もふさがれていった。そのため、北鎮の不満がつのったが、特に沃野・懐朔・武川・撫冥・柔玄・懐荒の六鎮では先鋭的だった。524年に沃野で反乱が勃発するとたちまち、六鎮を巻き込み、さらに華北にも波及していった。

六鎮の反乱や華北の城民の反乱を制圧し、反乱軍を軍団に組み入れんがら勢力を拡大していったのは、爾朱栄(じしゅえい)である。528年、孝明帝は爾朱栄の軍を洛陽に駐屯させ、宮廷の主導権を握ろうとしたが、皇帝に対立する胡太后(こたいごう)によって毒殺されてしまった。

 第九代皇帝・孝荘帝(在位528〜530)

爾朱栄は、孝荘帝を擁立して洛陽に駐屯し、胡太后を殺し、さらに貴族2000人以上を黄河に投げ込んで殺してしまった(河陰の変)。ほぼ北魏全土に勢力を持った爾朱栄は北魏の皇室に禅譲を迫るほどだったが、530年、孝荘帝に誅殺されてしまった。しかし、爾朱栄の甥の爾朱兆(じしゅちょう)が孝荘帝を殺し、北魏の混乱はまさに頂点に達した。

 第十代皇帝・節閔帝(在位531)、第十一代皇帝・後廃帝(在位531〜532)

六鎮の懐朔鎮出身の高歓(こうかん)は、爾朱栄の部下として活躍したが、爾朱栄が殺されると、漢人豪族と妥協をはかり、531年、北魏宗室の元朗(後廃帝)を擁立した。

 第十二代皇帝・孝武帝(在位532〜534)

532年、高歓らの連合軍は爾朱兆を破り、新たに孝武帝を帝位につけた。高歓は太原に幕府を開いて洛陽の孝武帝を操縦しようとした。しかし、534年、孝武帝は長安の宇文泰(うぶんたい)のもとに逃げた。そこで、高歓は元善見(げんぜんけん)を帝位につけた。これが東魏の孝静帝である。こうして、北魏は孝静帝の東魏と孝武帝の西魏に分裂した。



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