紀寺(きでら)
今は雑草がはびこる紀寺跡 地域系古代豪族の勇・紀氏の氏寺跡
紀寺は藤原京造営以前の七世紀後半に創建された古寺。
発掘の結果、塔、金堂、講堂と一直線に並ぶ四天王寺式の伽藍配置を持っていた。
寺域は、藤原京の左京八条二坊全域(4町)を占めていいた。
所在地:奈良県高市郡明日香村小山
アクセス:
今は雑草がはびこる紀寺跡

 橿原市の藤原京大極殿跡の東南方向に、明日香村のテニスコートがある。このあたりは明日香村の西北の端で、すぐ西隣は橿原市上飛騨町である。道路をはさんでテニスコートの反対側は、常緑樹に囲われた草原の広場になっている。そこが紀寺跡である。道路脇に立てられた案内板によって、この場所に紀寺があったことをかろうじて知ることができる。 だたし、この案内板は昭和55年に奈良県教育委員会が立てたもので、すでに20年以上経っている。ペンキが剥げかけていて、説明文にところどころ判読しにくい箇所がある。

■天智年間に建立された紀寺の跡地

 紀寺は紀氏(きのうじ)の氏寺で、藤原京の左京に聳えていた大寺院だった。しかし、都が藤原京から平城京へ遷されたたとき、紀寺も平城京へ移転し、その跡地はさびれた(ちなみに、現在奈良市の南に「紀寺町」という地名が残っている)。

 奈良県教育委員会は昭和48年(1973)以来4次にわたって紀寺跡の発掘調査を行なった。その結果、いろいろなことが明らかになっている。案内板の説明に準拠しながら主な点を整理すると、以下のようになる。

 伽藍配置は、伽藍の中軸線上に南から南大門、中門、金堂、講堂と一列に並び、回廊は金堂、推定塔跡を取り囲むように講堂の側面から中門に至っていた。塔に関しては、東南に存在したことが江戸時代末期の絵図によって推定されるが、これと対をなす西塔の位置からは塔跡が発見されず、西塔は存在しなかったことが判明している。

 寺域は、東大門周辺や東南隅部の築地大垣を発掘調査で確認できたことで、一辺226mを越す規模であったと推定されている。

 創建時期は、出土した軒丸瓦などから藤原京造営以前の天智朝(7世紀第3四半期)と推定されるが、後に藤原京左京8条2坊の全域(4町)を占めるように整備された形跡がある。天智朝に中心伽藍の造営を開始し、藤原京条坊施行のころ寺域を整備したものと考えられる。

■謎の地域系豪族・紀氏

  紀寺跡に立って周囲を眺めると、東側の天香具山のすそ野が間近に迫っており、西側は上飛騨町の民家に遮られて見えないが、飛鳥川がすぐ近くを流れている。北側は微高地の上に枝を伸ばした巨木の林がなければ、藤原京の大極殿跡やその向こうにある耳成山が見通せるはずである。

 藤原京の時代、紀寺は宮殿近くに位置し、また左京と右京の違いはあるが、薬師寺と対照的な位置に建っていた。この付近は当時都の一等地であったにちがいなく、そのような場所に氏寺を建立できた紀氏はどのような氏族だったのか興味が持たれる。 紀氏は蘇我氏や阿倍氏といった大和系の豪族ではない。紀ノ川河口から和泉南部地方を本拠とした地方豪族にすぎないが、その名は『日本書紀』や『古事記』などの史書によく登場する。

 紀氏で特徴的なのは、地方豪族でありながら、大和朝廷の外交政策と軍事で活躍した古代豪族だという点である。地方の一豪族に、なぜそのようなことが可能だったのだろうか。雄略朝を前後する4世紀から6世紀は、大和朝廷が朝鮮半島に盛んに武力関与を行った時期とされている。たとえば、雄略天皇9年、紀小弓(おゆみ)宿禰という将軍が、天皇の命令で新羅を撃つために朝鮮半島に派遣されている。 また、敏達朝12年(583)には、紀国造押勝(おしかつ)が国家の重要案件である任那復興に関与を求められている。すなわち、火葦北国造阿利斯登(ありしと)の子で当時百済の達率(たっそつ)の位にあった日羅(にちら)を招いて任那復興策を検討するために、吉備海部直羽島とともに百済に遣わされている。

 このように紀氏が朝鮮半島での軍事や外交に関わった背景には、当時の輸送手段を無視するわけにはいかない。半島で軍事活動を行なうためには、大量の兵員とそれに要する軍事物資を送らなければならない。海のない大和盆地からこれらの大量輸送を行なうには、河川交通を利用するしか当時は方法がなかった。その点、大和盆地から南進して吉野川河畔に出、その後は水量豊かな吉野川・紀ノ川を下れば、簡単に海に出られる。

 紀ノ川水系は、大和朝廷が当時朝鮮半島で展開した大規模軍事行動を支えるいわば大動脈だったと言ってよい。 その紀ノ川河口に広がる紀ノ川平野を支配していたのが紀氏であり、紀伊津はその要港だった。紀氏はまた、紀伊から四国沿いの瀬戸内海航路を確保していた。 こうしたことから、朝鮮半島への軍事行動は、大和政権と紀ノ川流域に基盤を置く紀氏の連係プレーだったと見る歴史学者もいる。

 その紀氏が6世紀の初め頃から、紀直(きのあたい)と紀臣(きのおみ)に分離し始めた。5世紀頃に朝鮮半島政策を主導していたのは大伴氏である。大伴氏と密接な関係を持っていたのは紀ノ川下流北岸の勢力を持つ紀氏だった。しかし、540年、任那4県割譲問題の責任を追及されて大伴金村が失脚すると、紀氏の大和朝廷における地位も低下した。一方、5世紀後半ごろから紀ノ川下流南岸の平野部の開拓が進み、それまで外交で活躍してきた北部勢力の紀氏に代わって南部勢力が伸張してきた。彼らは在地豪族として力を蓄え、後の紀直、紀国造を形成していった。これに対抗するように、北部勢力は6世紀の終わり頃に中央に移動し、先に移動していた連中と一緒に新しい紀氏を再構成していった。それが後に中央貴族として活躍するようになる紀臣(紀朝臣)であるという。他の豪族に見習って紀寺を建てたのは、このように中央政界への進出を果たした紀氏である。


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