大官大寺(だいかんだいじ)

あああああ 舒明天皇発願の百済大寺を移設して建てた寺。
百済大寺を移設してこの地に建立を始めたころは「高市大寺」の名で呼ばれたが、その後「大官大寺」に改称された。
主要伽藍の一部が未完成のまま716年に平城京に移され、大安寺となり現在に至っている。
前身の百済大寺の所在地についてはいろいろな説がある。
所在地:奈良県明日香村小山
アクセス:雷丘から北へ約600m
大官大寺跡に建つ石碑

 天香具山の南は、広々とした田園地帯である。五月の晴れた日にこのあたりを散策すると、東南の多武峰を下ってくる春風がまことに気持ちがよい。田植え前の田圃の上を吹き渡る風はまるで人の呼吸のようだ。時には強く、時には静かに人の頬の撫でて通り過ぎてゆく。「明日香風」とは、このように飛鳥の田畑の上をわたる風をいうのだろうか。

 遮るものが何もない田園風景の中に、石碑が2本と立っている場所がある。遊歩道からアクセスして、それが大官大寺跡とその塔跡を示す石碑であることがわかる。

■天皇家の威信にかけた寺院建立

大官大寺の塔跡
大官大寺の塔跡

 現在の風景からは想像もできないが、藤原京の頃、ここには「だいかんだいじ」あるいは「おおつかさのおおでら」と呼ばれた巨大な寺院が建立されていた。発掘調査によって、講堂跡、金堂跡、および塔跡がすでに判明しており、回廊で囲む範囲は東西144m、南北195mであった。塔は約100mの高さにも達する九重の塔であったと想定されている。この寺は、藤原京の東四坊大路(東)九条条間小路(北)東三坊大路(西)十条大路(南)に位置し、寺域全体を囲む外郭塀は東西200m、南北360mの広さを占有していたという。まさに奈良の東大寺に匹敵する規模である。

  実は、大官大寺の創立と変遷についてはまだ定かでない。順を追ってこの寺の変遷を追ってみると次のようになる。

 大官大寺の創建の歴史は、聖徳太子が創建した平群の熊凝(くまごり)道場に始まると伝えられている(この熊凝道場の後身は、大和郡山市額田部南町にある額安寺である)。舒明天皇は、聖徳太子の意志をうけて、百済川のほとりに熊凝道場を移してわが国最初の勅願寺を建立した。百済大寺と呼ばれる寺である。

 『日本書紀』は百済大寺の創建について、”舒明天皇11年(639)秋7月に詔して曰はく、今年、大宮及び大寺を造作ならしむとのたまふ。則ち百済川の側を以て宮処とす。是を以て、西の民は宮を造り、東の民は寺を作る。すでに書直県(ふみのあたいあがた)を以て大匠とす”と記述している。そして、5ヶ月後の12月には、”百済川の側に、九重の塔を建つ”と書いている。

 壬申の乱に勝利した天武天皇は、673年都を飛鳥にもどして即位すると、その年の12月、百済大寺を移して高市大寺を造営するために美濃王と紀臣堅麻呂を造寺司に任命した。天武6年(677)年には、この高市大寺は大官大寺と改称している。

 大官大寺の前身をこのように見てくると、舒明天皇の発願の百済大寺も、その子の天武天皇発願の高市大寺やその改称である大官大寺にも、「大寺」という名称を付している。なぜだろうか。寺院の規模が巨大であることを強調したかったのであろうか。そうではなく、天皇家がスポンサーとなって建立した勅願寺であることを強調したかったのではないだろうか。それまでに、蘇我氏の飛鳥寺を初めとして多くの寺院が建立されたが、それらはすべて氏寺であった。仏教に対して中立的な立場を守ってきた天皇家は、百済大寺まで寺院を建立していない。しかし、仏教の持つ鎮護国家の思想が国家運営に役立つと悟った天皇家は、この頃から仏教保護の立場を明確にしてくる。「大寺」は天皇家の威信の象徴として用いられた言葉であろう。

 その大官大寺であるが、天武朝はおろかその跡を継いだ持統朝になっても未だ主要伽藍の一部が未完成であった。そのうち、藤原京から平城京へ都が遷ると、霊亀2年(716)大官大寺も大安寺として平城京に移された。大官大寺の発掘調査では、塔や金堂跡の礎石は抜き取られていたが、これらは移築して大安寺の造営に流用された可能性が高い。

■大官大寺の前身である百済大寺はどこにあったか?

 『日本書紀』は、舒明天皇の発願によって百済大寺を百済川のほとりに造ると明記している。このため、百済大寺の跡は、北葛城郡広陵町百済にある春日神社境内の三重塔付近に古くから比定されてきた。しかし、この比定にはいくつかの疑問が出されていた。まず、飛鳥からあまりにかけ離れた場所に位置している点が第一の疑問である。さらに、春日神社境内付近からは古い時期の瓦が出土しないのが第二の疑問である。通常、寺院の建立には膨大な瓦が造られて各建物の屋根に葺かれる。このため、廃寺とされる寺跡から瓦の遺物が発見されないことは通常ありえない。

 最近になって、天の香具山の西北にある木之本廃寺を百済大寺に当てる説が出され注目されてきた。木之本廃寺の周辺からは、舒明天皇13年(641)に建設を開始した山田寺の瓦と類似するが、わずかに古い様相を留める瓦が出土しており、舒明天皇11年創建とされる百済大寺の瓦とするにふさわしい、というのがその根拠だ。しかし橿原市木之本町と明日香村小山とは指呼の距離にあり、いずれも藤原京の中にある。大工事を実施してまで移転する必要があったのか疑問が残る。

  木之本廃寺説とは別に、1997年から始まった奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部の発掘調査の結果、桜井市にある吉備池廃寺が百済大寺の有力な候補地に擬せられるようになってきた。

 奈良県桜井市の吉備池の南東部には、以前から橿原市にある飛鳥時代の木之本廃寺と同一型式の瓦片が散布しており、木之本廃寺の瓦を焼いた瓦窯があるものと考えられいた。1997年、桜井市と奈良国立文化財研究所が共同で発掘調査を行ったところ、瓦窯ではなくて巨大な金堂跡と見られる基壇が見つかり、翌年にはその西方約50mで一辺30mにも及ぶ古代寺院としては最大級の塔の基壇跡が見つかった。この寺院跡は発見された場所の名前から吉備池廃寺と名付けられたが、金堂や塔が極めて大きな規模を有する事や、遺物の年代の考証などから舒明天皇が639年に発願して建築が始まった百済大寺の可能性が高いとされている。

 注記
 昨今の遺跡の発掘調査は、既存の歴史認識を次から次へ書き換える発見が多くその成果は賞賛に値する。吉備池廃寺の発掘もそうした一例と言えよう。だが、少し冷静に発掘調査の報道を調べてみると、単純な疑問が浮かんでくる。吉備池の南東部で巨大寺院の跡地が見つかったということだけで、ここに百済大寺があったと見なすことはできないと思われる。その理由を以下に述べる。

 先ず、『日本書紀』は舒明天皇11年(639)秋7月に、百済川のほとりに大宮および大寺の造営を計画、その年の暮れには百済川のほとりに九重の塔を建てると明記してある。この大造営事業が計画・遂行されたのは、『日本書紀』が完成するわずか80年前のことである。史書編纂事業の開始時点を天武天皇10年(682)とするならば、わずか40年前のことである。当時の史書編纂者にとって、百済大寺/百済大宮の造営は現代史の一ページであったという事実を忘れてはならない。また、彼らが百済大寺/百済大宮の造営記事をねつ造した形跡もまたその必要も見あたらない。飛鳥時代を扱う現代の歴史学者・考古学者は史書編纂当時の視座で物事を見るという基本を忘れてはいないだろうか。

 次に、百済大寺に関する『日本書紀』の記述を信用するならば、吉備池廃寺が百済大寺跡であるためには、近くに百済川の存在が不可欠である。だが、吉備池廃寺付近に百済川と呼ばれた河川が存在した事実はない。あるのは吉備池とよばれる潅漑用のため池だけである。さらに、百済大寺の建立は百済大宮の造営とセットで実施された大事業であったが、吉備池廃寺付近に宮処とされる遺跡は現在のところ発見されていない。

 確かに、北葛城郡広陵町百済にある春日神社付近を百済大寺の跡とする従来の比定には疑問もある。だが、壮大な寺院跡が飛鳥の近くで見つかったからといって、史書の記載を無視してそこに百済大寺があったと推定するのは早計なように思われる。まず『日本書紀』の記載と矛盾する点に対して、納得のいく説明が必要であろう。巨大な寺院がすべて史書に登場しているとはかぎらない。その好例を我々はすでに知っている。 奥山久米寺跡に、何という寺号を持つ寺が建っていたか一切不明である。


RETURN
indexに戻る