飛鳥寺(あすかでら)

飛鳥寺の中金堂跡 蘇我氏が建立した我が国最初の本格的寺院
飛鳥寺は、朝鮮半島なかんずく百済からの派遣技術者の指導によって、596年11月に完成した我が国最初の本格寺院である。
寺院は、中央の塔の周りに中金堂、東金堂、西金堂を配した一塔三金堂式と呼ばれる特異な配置の伽藍だった。
中金堂の本尊の制作は遅れて605年に開始された。完成は606年(または609年)。
現在の安居院(あごいん)は、中金堂のあった位置に建っている。
所在地:奈良県高市郡明日香村飛鳥
アクセス:近鉄橿原神宮前駅より「岡寺前」行き奈良交通バス、「飛鳥大仏前」下車、すぐ
飛鳥寺の中金堂跡

 明日香村の飛鳥集落のはずれに、小さなお寺がある。飛鳥寺安居院という。現在は飛鳥大仏を安置する堂宇と小さな鐘楼だけが主な建造物である。 だが、今からおよそ1400年前には、この地に日本最初の本格寺院が 時の大豪族・蘇我氏の氏寺として建立された。塔の東と西、北に金堂を置くというほとんど類例のない伽藍様式を採用した大寺院であった。 当時の山号を「法興寺」、あるいは「元興寺」という。飛鳥地方に都がおかれた頃は、大官大寺、川原寺とならんで三寺と称せられるほど有力寺院であった。

 しかし、どのような大寺院も時の流れと共に衰微してゆく。飛鳥寺とて例外ではない。鎌倉時代の建久7年(1196)には落雷を受けて塔が焼失してしまった。 中世にはすべての建物が失われ、法灯も絶えた。本尊の大仏は雨ざらしのまま放置されていたという。江戸時代の初期に形ばかりの草堂を建てて大仏を雨露から守り、後には尼僧が大仏のためにお堂を建てて お守りした。これが現在の真言宗安居院の始まりであるという。

 日本仏教史の第一頁を飾ったモニュメント的大寺院も、今は境内のベンチに腰を下ろして、在りし日の姿を想像して描き出すしかない。ただ救いは、火災で焼け落ちた本尊が 修復されて金堂に鎮座していて、それをいつでも礼拝できることである。もとより補修の跡が痛々しい。止利仏師が作ったとされる当初の仏像の面影はほとんど失われている。 それでも1400年の風雪に耐えて創建当時と同じ台座の上に存在することの意味は重い。

■飛鳥寺造営の軌跡を追って感じる疑問

 飛鳥寺の造営の経過は、『日本書紀』や『元興寺縁起』の引用する「露盤銘」および「丈六光銘」によって、かなり詳細に判明している。20以上の寺が『日本書紀』に名を残しているが、造営の経過の記事があるのは、飛鳥寺だけであるという。これらの史料を基に、造営の経過を年表に整理すると、 飛鳥寺造営の経緯のようになる。

 この年表を見て、誰しも不思議に感ずることがあるに違いない。まず、寺院の造営期間が余りに短い。『日本書紀』の記載を 信用するなら、用材の伐採を始めてから6年、仏堂と歩廊に着工してからわずか4年で、596年11月には飛鳥寺は完成し、落慶法要が行われている。

 後述のように、飛鳥寺の寺域は東西2町南北2町(1町は約100m)とまことに広大であり、そこに塔、三金堂、回廊、中門、南門、講堂など伽藍の中枢部が建っていた。 それ以外にも、鐘楼や経蔵、僧侶が生活するための設備などがあったと考えられる。当時の技術で、これらの 建物群を4年ほどの期間で本当に完成できたのだろうか。

 さらに不思議なのは、『日本書紀』によれば、飛鳥寺の中心的建物である中金堂に安置する丈六釈迦仏銅像の完成は606年である(『元興寺縁起』に引く「塔露盤銘」では609年)。寺院の象徴とも言うべき中金堂の本尊の完成を待たずに、落慶法要を営む寺院などあるのだろうか。完成した銅造釈迦如来坐像を 中金堂に安置したときをもって、飛鳥寺は唆工したと見るべきであろう。

■飛鳥寺の塔堂配置 − 世間を驚かせた一塔三堂式伽藍

 1950年代半ば、飛鳥盆地に農業用水の導水路を通す計画が持ち上がった。導水路が敷設される予定線上には多くの遺跡があり、計画的な事前発掘調査が要求された。飛鳥寺院跡が その最初の発掘対象として取り上げられた。華やかな古代史の舞台となった日本最初の本格的寺院遺跡の発掘事業は、1955年5月に開始され1957年まで続けられた。 三次にわたる発掘調査は、従来の諸説を大きく改変する成果をもたらした。主な成果を整理すると以下のようになる。
飛鳥寺地割復元図
飛鳥寺地割復元図溝(飛鳥資料館のHPよりコピー)

 伽藍の配置としては四天王寺様式または法隆寺様式が想定されていたが、実際は中央の塔の周りに中金堂、東金堂、西金堂を配した一塔三金堂式の伽藍配置だった。 しかも、一塔三金堂はきわめて正しく真南北線とそれに直交する東西線にのっていた。 このような伽藍配置は誰も予測していなかったが、前例がない訳ではない。1938年に朝鮮半島の平壌で発掘されたした清岩理廃寺も一塔三金堂様式の寺院である。

 一塔三金堂の周りには、回廊が取り巻き、講堂は回廊の外側に位置していた。回廊の南は中門に繋がり、中門の外側に南門が、また回廊の西には西門が配置されていた。

 発掘調査では、その他にもさまざまなことが判明した。現在の飛鳥寺安居院の本堂は、かっての中金堂の位置に建っていることがわかった。 塔の心礎は地中深く埋められ、その上に一辺が1.5mの方形の柱が建っていたと思われる。心礎上面からは、馬子の愛用品と言われる鎧をはじめとするさまざまな埋納物が発見された。

 飛鳥寺の寺域は東西2町南北2町(1町は約100m)もあり、一塔三金堂とこれらを囲む回廊に中門、南門、講堂を加えた中枢伽藍部分は寺域の西南二分の一を占めるに過ぎない。 現在では民家が建ち並んでいるため地下構造が解明できないが、講堂の左右には鐘楼や経蔵が位置していたはずである。また、中枢伽藍の東や北に広がる広大な空間は、 僧侶が生活するための設備や寺を維持管理する建物があったはずである。

 多量に出土した瓦は、崇峻天皇元年の瓦博士来朝記事を裏付けるように、扶余から出土したものに良く似た、単弁の瓦が多い。 これらの瓦は、飛鳥寺の東南にある丘陵斜面で焼かれた。昭和28年に瓦窯が発見され、現在2基の登窯が確認されている。

■約1400年近く、同じ場所に台座に鎮座する釈迦如来座像

飛鳥大仏
飛鳥寺に現存する飛鳥大仏

 現在安居院に安置されている飛鳥大仏の完成時期について、複数の伝承があったようだ。『日本書紀』は推古天皇14年(606)4月に銅釈迦丈六像が完成したと記す。しかし、『元興寺縁起』に引く「丈六光銘」によれば、推古天皇17年(609)の完成とある。

 我々が現在拝んでいる飛鳥大仏は、残念ながら鋳造当時の形をほとんどとどめていない。建久7年(1196)の火事で金堂が消失したとき仏像も大破し、わずかに仏頭と指などが残された。昭和48年(1973)に残存状況を中心とした調査が行われた。その結果、頭部では額・両眉・両眼・鼻梁が当初部分を留めるとともに、左手の掌の一部、右膝上にはめ込まれる左足裏と足指、右手中指・薬指・人差指が当初部分であることがわかった。

 昭和59年(1984)には、飛鳥大仏の座っている石製の台座が調べられ、当初の須弥座を部分的に留めていることがわかった。この台座は一段ないし二段の上枢のある宣字形須弥座であったと推定された。さらに本尊の両側に脇侍を固定するほぞ孔があることから、当初は法隆寺金堂釈迦三尊像のように、三尊形式の仏像であることも判明した。

 飛鳥大仏を造った仏師として、鞍作止利(鳥)の名が記録されている。止利は渡来人の鞍作村主司馬達等の孫にあたる。鞍作部は馬具製作工人の集団であり、 金属加工枝術を生かして、仏像製作に携わるようになったと考えられる。

 『扶桑略記』は欽明13年(552)10月の条に、日吉山薬恒法師の法華験記云、延暦寺僧禅岑記云として、司馬達等(しめたちど)は「継体天皇16年壬寅(522)2月に入朝した大唐漢人であり、飛鳥の坂田に草堂を構え仏像を礼拝した。世を挙げてこれを大唐神といった」としている。この司馬達等は馬具製作よりも仏教一家として有名である。息子の鞍作多須奈(たすな)は、用明2年(587)4月、天皇の病篤く将に崩ぜんとした時、天皇の為に出家修道し、また丈六仏像および寺を造り奉らんことを奏した。南淵坂田寺の木丈六仏像、挾侍菩薩はこれであるという。崇峻3年(590)10月に出家し、法名を徳斉法師と称した。

  娘の鞍作嶋は、わが国最初の出家尼で、敏達13年(584)、11才で出家して善信尼と称した。 孫の止利は、飛鳥大仏以外に法隆寺の金銅釈迦三尊などの制作者としても知られ、止利様式とよばれる仏像彫刻に一派を作った。その他に、推古15(607)年7月、遣隋使小野妹子の通訳となり、隋に渡った鞍作福利も司馬達等のファミリに連なる人物ではなかったかと思われる。通訳として抜擢されるには中国語が堪能でなければならない。一般には司馬達等は百済からの渡来人と理解されているが、『元亨釈書』はその巻十七で司馬達等を南梁の人としている。なお、娘の嶋が敏達13年(584)に出家したとき、11才であったとする伝承が正しいとするなら、『扶桑略記』が示す司馬達等の来朝時期は矛盾する。干支を一運下げて582年渡来説もある。

■飛鳥寺を造営した人たち

 飛鳥寺は蘇我馬子が発願した法師寺である。その造営にはどのような人たちが関わったのであろうか。興味のあるところである。当然の事ながら、当時の先進文化国・百済の威徳王の人的援助が必要だった。『日本書紀』や『元興寺縁起』に引く「塔露盤銘」によれば、蘇我氏の要請に応じて、崇峻元年(588)威徳王は以下の僧侶や技術者を派遣してきた。

 これらの「寺工」「露盤博士」「瓦博士」「画工」は造営の指導にあたった。これに対して、蘇我氏の命により、東漢氏を統轄者とする造寺集団が組織されたが、構成員は、大和・河内に居住する渡来氏族とその領有民であった。東漢氏の麻高垢鬼(まこうくき)と意等加斯(おとかし)を造営の総括責任者とし、その下部に配置された意奴弥首(おぬみのおびと)辰屋、阿沙都蘇首(あさづまのおびと)未沙乃(みしゃの)、鞍部首(くらつくりのおびと)加羅爾(からに)、山西首(かわちのおびと)都鬼(つき)の四名が首領となり、領有民を率いて造営にあたった。

 忍海(意奴弥、おしみ)氏は忍海(奈良県北葛城郡新庄町忍海)を本拠とする渡来釆氏族であり、手工業とくに金工の技術を伝えていた。東漢氏の配下の漢人である。朝妻(阿沙都林、あさづま)氏は朝妻(奈良県御所市朝妻)に居住する渡来氏族である。冶金などに従事した。山西氏は西文氏であり応神大王のとき百済から波来した博士王仁の後裔を称し、古市(大阪府羽曳野市)を本質とする。西琳寺は西文氏の氏寺である。

 なお、威徳王から送られてきた工人・技術者のなかに、仏像の製作にあたる仏工の名がないが、崇峻元年(588)の造寺関連技術者の派遣はこれが最初ではない。それ以前の敏達六年(577)、帰国する大別王(おおわけのきみ)らに付して、威徳王は経論若干巻、および律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、寺造工の6人を派遣している。これらの僧や技術者は難波の大別王の寺に安置されたという。この大別王の素性は一切不明であるが、このとき来朝した造仏工が飛鳥寺の仏像の製作にあたることが予定されていたのかもしれない。あるいは後に釈迦像を造った鞍作止利が内定していたのかもしれない。


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