畝傍山は女山? それとも男山?


 畝傍山は、眺める場所によってその形を変える。藤原京の宮城跡あたりからは三角形に見える。しかし、少し南に下った明日香村あたりからは、向かって右側がすこし高くなったいびつな台形に見える。古びた中折れ帽をテーブルの上にうち捨てたようで、見る者になんとなく親近感を抱かせる。夕暮れ時、明日香にある甘樫丘の展望台から見た景色がよい。二上山や葛城山、金剛山といった大男の兵士達を率いて先頭に立つ小柄な隊長のように、畝傍山が逆光の中で黒々と横たわっている。

畝傍山
甘樫丘からの畝傍山遠望

 最初に述べたように、畝傍山は海抜200mに満たない小山である。この山を全国に知らしめたのは、おそらく万葉集に載っている中大兄(なかのおおえ)皇子の作と伝えられる三山の妻争いの伝説歌であろう。以下の歌詞は、中学校の国語の教科書などでもよく掲載されている。

”香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし いにしえも然にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき”

 この歌の意味は、古来様々に解釈されている。複数の解釈が可能なのは、万葉仮名で書かれた原文の読み方にある。原文では”畝火ををしと”を「雲根火雄男志等」と書いてある。これを「畝火雄雄(をを)しと」読むか「畝火を愛(を)しと」と読むかで、理解の仕方がちがってくる。前者であれば、畝傍山は男山となり、後者であれば女山と解さなければならない。

 畝傍山を男に例える解釈の理由の一つは、山の高さにある。橿原市の市域に含まれる大和三山(耳成山、天香具山、畝傍山)のうち、一番高いのは畝傍山である。しかし、額田王女をめぐる実弟の大海人皇子との争いを、中大兄皇子が比喩したとするならば、畝傍山は額田王女が仮託された女山ということになる。

 この中大兄皇子の三山歌に関して、武庫川女子大学教授の和田嘉寿男氏から面白い話を聞いた。平成14年2月に行われた奈良県立万葉文化館友の会の第二回講座においてである。氏も畝傍を女山とする解釈に加担しておられる。しかし、畝傍山に仮託されているのは、恋愛関係にある女性ではなく、部族国家時代に各部族で祭祀を司っていた巫女であるとの説を披露された。氏によれば、この歌の前半分は明らかに神代の昔からの伝承に言及したものである。伝承の具体的な内容は部族国家間の「姫争い」である。ここでいう姫とは、部族の最高権威者として祭祀権を統括する卑弥呼のような巫女をいう。ある部族国家が別の弱小部族を併合するには、その巫女を拉致することで、その部族を統合することができた時代があった。そうしたきわめて政治的な歴史伝承が中大兄皇子の脳裏にあったのではないか、と和田氏は推測しておられる。面白い解釈である。

畝傍山西 畝傍山北
西から畝傍山を望む 北から畝傍山を望む

 澄み切った青空の下で朝の光を一杯に受けた畝傍山の姿はまことに鮮やかである。山頂までの山登りを一日の運動の日課にしている付近の住民も結構多い。この山の登山口は二つある。橿原神宮の北参道の脇からと、畝火山口神社の脇からである。山頂付近を除けば登山道はそれほど急ではないが、結構な運動にはなる。

遊歩道
畝傍山の遊歩道略図