![]() |
![]() |
| 若桜友苑前の遊歩道−1 | 若桜友苑前の遊歩道−2 |
遊歩道はやがて県道橿原神宮公苑線にぶつかる。車道に沿って歩道を北に50mも進むと、鉄のフェンスが見えてくる。フェンスの内側に神武天皇陵の石碑が建ち、杉木立に覆われた参道が見える。参道はゆっくりと右に湾曲しながら奥へ続いている。小さな砂利を踏みしめながら参道を進むと、正面に新しい鳥居が見えてくる。昨年(2001年)に新しく建て替えられた鳥居である。その向こうに石垣で囲まれた木立が見える。それが神武天皇陵に擬せられた墳墓である。正式には、畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのみささぎ)という。
![]() |
![]() |
| 神武天皇陵の参道入り口 | 神武天皇陵正面の鳥居 |
戦後の歴史教育では神武天皇は架空の存在であるとされている。その立場からすれば、神武天皇陵そのものも偽造された陵墓ということになる。だが、神武天皇陵の所在は記紀の中にも示されている。『日本書紀』では、神武天皇を「畝傍山東北陵に葬る」とあり、『古事記』は「御陵は畝火山之北方白檮(かし)尾上にある也」と記している。記紀編纂の頃には、すでに神武天皇の存在が信じられ、その陵墓も畝傍山の東北または北にあるとされていたらしい。平安時代になって10世紀の初めに作られた「延喜式」には「畝傍山東北陵 在大和高市郡、兆域東西一町、南北二町、守戸五烟」とある。兆域の大きさをメートル法で表すと約100m×200mの大きさに相当する。しかし中世にはこの神武陵の所在が分からなくなってしまった。
直木孝次郎氏の「日本神話と古代国家」には、「神武天皇陵」の偽造の歴史が要領よくまとめてある。同氏によれば、”江戸時代以降いろいろな記録が残っていて、偽造の過程がわかる”という。
先ず、江戸時代の初めごろ江戸幕府を中心に神武天皇陵探しが行われた。天皇陵を立派にすることで幕府の権威を高めようとする意図が背後にあったという。元禄10年(1697)に行なった山陵調査では、いまの綏靖天皇陵が神武天皇陵に比定された。当時は四条村にある塚山と呼ばれていた円墳だった。現在の神武天皇陵から東北へ400〜500mのところに位置し、しかも径が13〜14m、高さが3m程度の小さな塚だった。ともかく畝傍山の東北にあるということで神武陵にされてしまった。この陵の修復事業は元禄12年(1699)一通り完成する。
幕末になって、徳川幕府は再び天皇陵の修復を行なうことになった。勤王思想の高まりをかわすのがその目的だった。このとき神武陵として比定されたのは上記の塚山ではなく、大久保村のミサンザイと称する土地にあった小さな塚だった。それは文久3年(1863)年、幕府が倒壊するわずか5年前のことである。畝傍山の頂上から見ると、塚山もミサンザイも東北の方角にあるが、ミサンザイの方がより畝傍山に近い。修築前のミサンザイ塚は、東西7m、南北7.6m、高さ1.1mの小丘と、直径5.3m、高さ60cmの土饅頭で構成されていたらしい。この古墳とも言い難い小さな墓を、文久の修復では1万5000両を投入し一町×二町の墳墓に作り替えた。『延喜式』に示された大きさに合わせたわけである。
明治政府は、文久年間に修復された神武陵があまりに貧相であるとして、明治20年か30年ころに墓を六角形の石垣で囲い、その周りに何重もの垣を巡らして、立派なものに作り直した。しかし、円墳ではなかったらしい。古い時代の古墳は円墳であることがわかってきた大正時代には、さらに改良を加えて直径30メートル、高さ2.5メートルの円墳に作り替えた。こうして作られたのが、現在の神武天皇陵であり、東西500m、南北400mの広大な領域を占有している。
戦前は、こうして偽造された陵墓を神武天皇陵であるとして、国民に一所懸命に拝ませていた。戦後を55年以上も過ぎた現在では、参拝者の人影はまばらである。それでも今年(2002年)2月11日の建国記念日に、不思議な光景を目の当たりにした。新装なった鳥居前の広場に新聞紙やビニールシートを敷き、その上に正座して一心不乱に祈念する人々がいた。小雪が舞い散る曇天の空の下で、それは異様な光景だった。彼らは石に変えられてしまったのではと思うほど不動の姿勢を長時間保ちながら、天皇陵に対して合掌している。そのとき実感した。現在でも神武天皇の実在を信じ、この陵に実際に葬られていると信ずる人々がいることを。しかし、それは信仰の世界であって、歴史的事実とは無縁の世界である。