松方コレクションを基に設立された国立西洋美術館
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| 国立西洋美術館 |
■ 上野公園の中にある国立西洋美術館は印象派など19世紀から20世紀前半の絵画・彫刻を中心とする松方コレクションを基として、1959年に設立された。松方コレクションとは、川崎造船所(現・川崎重工業)社長を務めた実業家・松方幸次郎(1865 - 1950)が、1910年代から1920年代に商用でヨーロッパを訪れた際イギリスやフランスで収集した多くの美術品をいう。
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| 国立西洋美術館の正面 |
■ これらの収集品は第2次世界大戦後、フランス政府により敵国資産として差し押さえられてしまった。1951年のサンフランシスコ平和条約締結の際、日本の首相・吉田茂は、フランスの外相ロベール・シューマンに松方コレクションの返還を要請し、その後の日仏政府間の交渉の結果、フランス側は条件付きで返還に応じることとなった。その条件の一つに、日本政府がコレクションを展示するための専用の美術館を設置することがあった。
■ 日本政府は近代建築の三大巨匠の一人とされるル・コルビュジエ(Le Corbusier, 1887 - 1965)に1956年7月に美術館の基本設計を依頼、1957年3月に実施設計案が届いた。これをもとに、彼の弟子にあたる前川國男、坂倉準三、吉阪隆正が実施設計を行い、建てられたのが今日の国立西洋美術館本館である。
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| 現在開催中の「大英博物館古代ギリシャ展」の看板 |
■ 返還交渉の中で、コレクションの中の重要なゴーギャンやゴッホなどいくつかの作品については、フランス側が譲らず、結局、絵画196点、素描80点、版画26点、彫刻63点、書籍5点の合計370点の作品が、上記のように美術館を建設して展示するという条件付きで返還された。しかし、フランス側はこれは「返還」ではなく「寄贈だ」と主張したため、「寄贈返還(donation refund)」という妙な言葉が使われている。
■ 現在、国立西洋美術館では9月25日までの会期で、「大英博物館 古代ギリシャ展」を開催している。大英博物館は世界各地の文明が生んだ800万を超す作品を所蔵する文明博物館であり、そのうちギリシャ・ローマ部門では10万点以上を収蔵しているという。そのうち、肉体の美しさとスポーツに関係したギリシャ時代の身体表現作品135点が、2008年の北京オリンピックを機に上海に貸し出され、その後、香港、スペイン、ソウル、台湾と、世界中を巡回中である。もちろん来年のロンドンオリンピックを意識した特別貸し出しだ。
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| アフロディテ(ヴィーナス)像 |
■ 展示品のの中の目玉は、彫刻家ミュロンの傑作「円盤投げ(ディスコボロス)」。しかし、紀元前5世紀頃に制作されたオリジナル作品は失われてしまい、展示作品は2世紀のローマ時代に大理石で復元されたものだそうだ。その美しい肉体美の写真は宣伝ポスターにも用いられている。
■ この像のように逞しい男性の肉体美や美しい女性の裸体を表現した像が見られると期待して出かけてきたが、等身大の大理石の像は数点だけで、あとは黒像式のギリシャ壺や10センチ前後の小作品ばかりでいささか期待はずれだった。美術館を出ると、上空には台風一過のすばらしい秋空が広がっていた。美術館の前庭にはその青空から降り注ぐ日の光を植えて、黒いブロンズ像が輝いていた。
■ これらの野外展示された作品は、松方幸次郎が1918年にフランスを訪れた際に一括購入したロダンの代表作の一部である。その中には、ロダンの助手だったプールデルの「弓を引くヘラクルス」もある。久しぶりに、陽光の下でこれらの野外展示品をじっくりと鑑賞することができた。
「地獄の門」(オーギュスト・ロダン、1880-90年/1917年(原形)
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| 左右にアダムとエヴァを配置した地獄門 |
■ 新しく建設されるパリ装飾美術館の入口の門扉の制作をフランス政府から依頼されて、1880年にロダンは「地獄門」の制作に取りかかった。彼はダンテの「神曲」の中の地獄変にヒントを得て、地獄に堕ちた人々を審判官が見ている情景を作品にしようとした。
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| オーギュスト・ロダン |
■ 彼は左右の扉をそれぞれ四つのパネルに区切り、8面の浮き彫りで地獄変の情景を表現することを考えた。ところが構想を練るうちに、主題の内容が変化し構想の形式も混沌とした様相に変貌していった。
■ 例えば、門の中央上部には「詩作にふけるダンテ」を配置するつもりだったが、それが一人の人間の思惟する姿に代わっている。このように1917年に亡くなるまで、ロダンは幾度も修正を加えながら制作を続けたとのことだ。「考える人」、「アダム」、「エヴァ」などの単独の作品はその過程で生み出されたものである。
■ 「地獄の門」の規模は高さ540cm、幅390cm、奥行100 cmを測り、ブロンズ作品としては圧倒されそうな大作である。だが、この大作がパリ装飾美術館の門扉に使用されることはなく、またロダンの生前にブロンズで鋳造されることもなかった。1920年代になって、松方孝次郎の注文によって初めて石膏原型からブロンズに移された。現在、世界では7作の「地獄の門」が展示されている。
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| 門の上の三人の裸像 |
地獄の門の上の考える人 |
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| 向かって左扉の下部 |
向かって右扉の下部 |
「考える人」(オーギュスト・ロダン、1881-82年(原型)、1902-03年(拡大) )
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| 「考える人」 |
■ 「考える人」は「地獄の門」を構成する群像の一つとして作られた。ロダンは「地獄の門」の制作で、扉の前で岩の上に腰を下ろし詩想に耽っているダンテを構想したとのことだ。しかし、全体から切り離された痩身の苦悩するダンテの姿は意味がなく、最初のインスピレーションに従って別の思索する人物像を作り上げた。
■ このブロンズ像は、1881-1882に制作された原型をロダンの良き協力者だったアンリ・ルポセによって1902-1903にかけて拡大されたものである。肉体表現と姿勢にはミケランジェロの影響が強く感じられるという。
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| 「考える人」(拡大) |
同左 |
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| 左側面から見た「考える人」 |
正面から見た「考える人」 |
「アダム」(オーギュスト・ロダン、1881(原形))
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| 「地獄の門」の左に配された「アダム」の像 |
■ ロダンが「地獄の門」の構想過程で、人類の祖であり人間の業苦の根源である原罪を犯したアダムとエヴァを門の両脇に立てる着想を得たという。1875年にイタリアを旅行しミケランジェロに大きな影響をうけて帰国、その芸術を理解するために制作したのがこの「アダム」。しかし、ミケランジェロの模倣そのものだったので気に入らず打ち壊したという。
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| 左側面から見た「アダム」像 |
右側面から見た「アダム」像 |
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| 「アダム」の頭部 |
「アダム」の指先 |
「エヴァ」(オーギュスト・ロダン、1907(原形))
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| 「地獄の門」の右に配された「エヴァ」の像 |
■ 「アダム」とともに「地獄の門」の両脇にたてる巨像として1881年頃制作。しかし、経済的な理由で頭部と両足が未完成のまま、ロダンは制作を中止した。
■ その後、1906-07年に、ロダンは弟子のブールデルに石膏原型に基づく石灰石像を作らせた。その際、頭部と両足を完成させるために、新しいモデルを使うことを許可したという。このブロンズ像はその石像による鋳造と考えられている。
■ アダムと一緒に犯した原罪から自分を守るように、手を自分の体に巻きつけた女性らしい柔らかな肉体の表現は見事である。
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| 正面から見た「エヴァ」像 |
左側面から見た「エヴァ」像 |
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| 「エヴァ」像の上部 |
「エヴァ」像の下部 |
「カレーの市民」(オーギュスト・ロダン、1884-88 (原形))
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| 「カレーの市民」 |
■ ドーヴァ海峡に面するフランスのカレー市は、フランスとイギリスの間で起きた百年戦争にまつわる英雄ユスターシュ・ド・サン・ピエールの姿を記念する像の制作をロダンに依頼した。英雄といっても、ユスターシュは当時のカレーの一般市民である。百年戦争のさなか、カレー市を包囲したイギリス国王は、攻撃を回避する条件として有力市民の身柄を要求した。その際、ユスターシュは5人の地位の高い市民とともに人質としてイギリス国王の陣に赴き、カレー市と市民の命を救った。
■ 依頼を受けたロダンは、最年長のユスターシュを中心にして、その周囲に5人を配し、それぞれが絶望と苦悩のうちに市の鍵を手に、首に縄を巻いて裸足で市の門を出て行く群像を作り上げた。
■ 英雄の華々しい身振りを期待していた市当局は、ロダンのこの感動的な人間像を理解できずに、受取を拒否した。カレー市でこのモニュメントの除幕式が行なわれたのは、発注から11年後の1895年のことだった。
「弓を引くヘラクレス」(アントワーヌ・プールデル作、1909)
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| 「弓を引くヘラクレス」 |
■ ギリシャ神話の英雄へラクレスの「十二の功業」の一つを主題にした作品。へラクレスが怪鳥ステュムファリデスを射るために渾身の力で弓をひき、まさに矢を放とうとする瞬間を捉えており、ブールデルの名を不朽のものとした。
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