深大寺のおすすめ散策コースを巡る

撮影 平成22年7月1日

朝のNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」と深大寺そば

ゲゲゲの鬼太郎
■ 朝のNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」はワイフが好きな番組で、朝食を取りながら一緒によく見ている。漫画家・水木しげる氏の奥さんの武良布枝さんが書いたエッセイをドラマ化した作品である。貧乏しながらも、必死に漫画に打ち込む主人と一緒に暮らすだけで幸せという日本人女性の古風な生き方が、同じ時代を生きてきた筆者夫婦世代の共感を呼んでいる。

■ 水木しげる氏は、昭和34年(1959)に調布市で建て売りを買い、それ以来50年間調布に住んでおられるが、その調布市の深大寺元町五丁目には、都内では浅草の浅草寺に次いで古い深大寺(じんだいじ)という古刹がある。深大寺は、もともと深沙大王(じんじゃだいおう)の寺、すなわち「深沙大王寺」と呼ばれていたが、それが縮まり何時の頃からか「深大寺」という名に変わった。

■ 寺の開山は満功上人(まんくうしょうにん)とされている。満功上人がこの寺を開いた経緯については、面白いエピソードが残されている。上人の父・福満は郷長の右近の娘と恋に落ちたが、二人の仲を認めない右近夫妻は娘を湖の島へ遠ざけてしまった。そこで、福満は水神の深沙大王に祈ったところ、霊亀が現れて彼を島に連れて行ってくれた。この奇瑞を知って右近夫妻は二人の仲を許し、そして満功が生まれたという。満功は父の念願によって出家し法相宗を学んだ。そして天平5年(733)に寺を建て、天平勝宝2年(750)に深沙大王の像を安置した。そのため、この寺は上記のように「深沙大王寺」と呼ばれた。

水木しげるってどんな人?
水木しげるってどんな人?
■ それから100年後、武蔵国司の蔵宗(くらむね)が乱を起こした。その降伏を祈念するため,朝廷の命をうけた天台宗の恵亮(えりょう)和尚は、深大寺にその道場を定め逆賊降伏の修法を行った。そのため乱がおさまり、朝廷は恵亮和尚の功をたたえて深大寺を与えた。そこで、天安3年(859)に寺は法相宗から天台宗に改宗され、名称も「天台宗 別格本山 浮岳山(ふがくさん) 昌楽院(しょうらくいん) 深大寺(じんだいじ)」に改められた。別格本山と冠されたことでも推察できるように、深大寺は、天台宗の本山比叡山に匹敵する位を持つ寺院だったとされている。

■ 深大寺は、武蔵野の山野の中を走る国分寺崖線の斜面に抱かれるように建てられている。付近は豊かな湧水が出て今でも武蔵野の面影を色濃く残している。隣接する神代(じんだい)植物公園はかっては深大寺の寺領だった。だが、この寺を一層有名にしたのは「深大寺そば」である。

■ そもそも、そば種は8世紀頃原産地である北方大陸から朝鮮半島を経由して我が国に伝わり、武蔵野台地を開拓していた高句麗からの渡来人によって栽培され広がったとされている。江戸時代、深大寺の北の台地も米作には向かず、小作人はそばを作り、米の代わりにそば粉を深大寺の納めていた。深大寺ではそれでそばを打って来客をもてなしたのが深大寺そばの始まりとされている。

■ 元禄年間、上野寛永寺の公弁法親王(こうべんほっしんのう)に深大寺の寺坊で作ったそば切りを献上したところ、親王は大いに賞賛された。そして、そばの風味や香りを殊の外喜ばれて、将軍家や諸大名に広く推奨したため、深大寺そばの名声が高まったとされている。現在、深大寺そば組合に加盟している店は26軒あり、寺院の参道や境内近くでそれぞれ大きな店を構えている。

深大寺の境内案内図
深大寺の境内案内図
■ ワイフと朝食を取りながらNHKの連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」を見ていて、いつしか話題が深大寺そばに移った。東京オリンピックの年に筆者は都内の民間企業に就職したが、その独身寮が調布市の隣りの小金井市にあった。それで、寮生活を送る同期入社の友人と二度ほど休日に深大寺に出かけたことを覚えている。その時そばを味わったかどうか、今では記憶に残っていない。

■ 幸い梅雨の中休みで本日は雨に降られないというので、45年ぶりに深大寺を訪れてみることにした。JRあるいは私鉄を利用する場合、深大寺にアクセスするには最寄りの駅からのバスを利用することになる。本日は、JR中央本線の三鷹駅から「深大寺」行きの小田急バスを利用することにした。およそ25分で「深大寺」終着駅に着く。

参道脇の観光案内所の横にある鬼太郎茶屋

深大寺の参道 鬼太郎茶屋深大寺店
深大寺の参道 鬼太郎茶屋深大寺店

■ 小田急バスの「深大寺」停留所で下車して、少し先に進むと、京王バスの停留所がある。そのバス停前広場の一画に観光案内所があった。バスを降りたとき、11時半の時刻を告げる深大寺の梵鐘の鐘がなっていたので、昼食に深大寺そばを食べてから寺に参拝しようと思った。20軒以上もソバ屋が並んでいては、どこの店がおいしいのか分からない。そこで、深大寺散策マップを貰いながら
「おいしいそばを食べさせる店を教えて欲しい」と、案内所の女性に聞いた。すると、
「規則によってそう言うことはお教えできません」との返事が返ってきた。


■ 観光案内所の横に、市内在住の漫画家・水木しげるさんにちなんで2003年にオープンした「鬼太郎茶屋」の深大寺店がある。ここでは、ゲゲゲの鬼太郎に関係した600点あまりのグッズを販売している。その脇には栗ゼンザイや味噌おでんなどを味わえる喫茶コーナーもある。二階の白い外壁には水木漫画のキャラクタが描かれ、屋根には巨大な下駄も置かれている。

庭に置かれた水木妖怪たちのイメージ 庭に置かれた水木妖怪たちのイメージ
庭に置かれた水木妖怪たち@ 庭に置かれた水木妖怪たちA

■ 2階が妖怪ギャラリーになっていると店員が教えてくれた。何が展示されているのか気になって、100円を払って見て行くことにした。狭くて暗い登り階段に、妖怪の足跡が描かれていて、その足跡をたどって2階に上がると、そこには100体以上のフィギャや水木しげるの貴重な原画などが展示されていた。さらに、鬱そうと生い茂る木々の間から、亀島を浮かべた弁財天池を見下ろせる癒しのデッキがあった。

aaaaa 新婚生活の舞台となった調布の家
100体を越えるフィギャたち 新婚生活の舞台となった調布の家の原画

元禄8年(1695)に普請された境内最古の建物:山門

生い茂る木々に囲まれた弁天池
生い茂る木々に囲まれた弁天池
■ 参道の左手に、「鬼太郎茶屋」の二階から見下ろした弁財天池がある。鬱蒼と生い茂る木々に囲われた湧水池から流れ出る水が、小川となって流れ出ている。その川をまたぐ小さな石橋が参道に築かれている。福満橋である。気を付けていないと参道の石敷きと区別がつかない石橋だが、そこから前方を見ると、参道の両脇に建つそば屋の先に石段が見え、その上に大きな茅葺きの屋根を葺いた山門が聳えている。

■ この付近は門前町の雰囲気を醸し出していて、名物「深大寺そば」の店や土産物店が軒を並べている。寺院参詣とともに、門前町の趣きを味わうために訪れる人も多いとのことだ。

■ 深大寺は江戸時代の正保3年(1646)と慶応元年1865)に大火にあっている、そのため堂宇の大半を失った。深大寺の山門は今から300年ほど前の元禄8年(1695)に普請された建物で、運良く慶応元年の火災から免れ、境内最古の建物になっている。山門をくぐると、それほど広くない境内が前面に広がる。正面に、慶応の大火を免れた常香楼が見え、その奥に大正年間の再建された本堂がのしかかるように聳えている。

深大寺の山門
深大寺の山門

明治3年に再建された鐘楼

山門を入って右手にある鐘楼
山門を入って右手にある鐘楼
■ 山門から境内に入ると、右手に立派な鐘楼が建っている。だが、この鐘楼も慶応の大火で焼け落ち、明治3年(1870)に再建されたものである。深大寺の梵鐘は永和2年(1376)に鋳造されたもので、都内では三番目に古く国の重要文化財に指定されていると聞いていた。だが、平成になってヒビが入り、今は鐘楼からおろして釈迦堂に安置されているとのことだ。

■ 現在の梵鐘は平成13年に鋳造されたものである。毎日、朝・昼・夕方の三回撞(つ)かれている。先ほど、バスを降りた時聞いたのは、11時半の時を告げるこの梵鐘の音だった。濃い緑の葉をつけた木々の間を縫って響いてくる鐘の音が、ずっしりと心の底まで行き渡り、いかにもこの地が俗界を離れた清浄な場所であることを感じさせた。


慶応の大火を免れた常香楼と本堂前のムクロジの巨木

■ 境内の中央には、天保4年(1833)に建立された常香楼が置かれている。山門と共に慶応の大火を免れることができたが、北側に大火の跡を残している。

■ 常香楼の位置から本堂を見ると、向かって右手前に巨木が聳えていて、幹に標識が掲げてある。何の木だろうと近づいてみると、ムクロジの木である。湧き水の地に多い樹木で、無患樹とも無患子とも書き、その実は追い羽根の玉として使われている。非常に堅い実で、鬼にぶつければ鬼と厄を一緒に退散させることができるという。果汁は石鹸の代用にもなる。

境内の中央に置かれた常香楼 本堂前のムクロジの巨木
境内の中央に置かれた常香楼 本堂前のムクロジの巨木


慶応の大火後、大正時代に再建された本堂

深大寺の本堂
深大寺の本堂

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本尊の宝冠阿弥陀如来像
■ 深大寺の本堂は慶応元年(1865)の大火によって失われた。再建されたのは大正時代になってからである。唐破風の屋根や彫り物に重厚さを感じさせる建物である。本堂の内部は荘厳に飾られ、須弥壇上には本尊の宝冠阿弥陀如来が安置されている。恵心僧都(えしんそうず)源信(942〜1017)の作と伝えられている。

■ 像の高さは69.3p。宝髻(ほうけい)をつけ、宝冠をいただき、納衣(のうえ)を通肩(つうけん)にまとう姿は、普通の阿弥陀如来像とは異なっているが、天台宗の常行三昧堂などではよく見かける造形である。ひきしまった肉どりや、やや繁く重ねた衣文の写実的彫法が、鎌倉時代の特色を顕著に示しているそうだが、残念なこと拝観はできなかった。




「なんじゃもんじゃの木」と「そば守観音」

なんじゃもんじゃの木 なんじゃもんじゃの木の下の観音像
なんじゃもんじゃの木 なんじゃもんじゃの木の下の観音像

■ 本堂の横にある五大尊池の前を左に進むと、元三大師堂(がんさんだいしどう)に行き着く。元三大師堂の石垣の脇に不思議な葉を付けた木が立っており、その下に石の観音像が一体置かれている。

そば守観音
そば守観音
■ 標識には通称「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれている木であると説明してある。和名はキンモクセイ科のヒトツバタゴ、英語名をスノーフラワーだそうだ。「なんじゃもんじゃ」の語源については諸説があるようだが、説明板によると、明治の終わり頃「名前も分からない不思議な木」「あれはなんじゃ?」ということで、そう呼ばれるようになったと言われている。岐阜県の東南部や隣接する愛知県の一部にしか自生していない珍しい植物である。

■4月下旬から5月上旬にかけて白い花を咲かせ、英語名の通り雪をかぶったように見える。開花時期になると、毎年東京消防庁音楽隊による「なんじゃもんじゃコンサート」が開かれるそうだ。

■ その木の下にポツンと置かれた石像を、初めは昭和38年(1963)に作られた「そば守観音」だろうと思った。だが、勘違いで、「そば守観音」は山門の左に建っていた。日本にはこの一体しかないという観音像である。毎年秋の「そば祭り」には境内でそばを打って、この観音像にお供えをするそば献上式が行われる。


深大寺の信仰の中心だった慈恵大師(じえだいし)を祭る元三大師堂(がんさんだいしどう)

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慈恵大師を祭る元三大師堂

元三大師堂の内陣
元三大師堂の内陣
中開帳時のポスター
昨年の中開帳時のポスター
■ 元三大師堂は、延暦寺第十八代座主の慈恵大師良源(りょうげん)(922 - 985)が自ら刻んだ像を祭る建物である。慈恵大師は、天台宗の中興の祖であるが、正月三日に入寂したため元三大師とも呼ばれている。古くから如意輪観音の化身として疫病厄除、悪魔調伏の力を持っと信じられ、その肖像が多く作られた。

■ 元三大師像は、普通は左手に独鈷(とっこ)を持ち、両手で数珠をまさぐる姿の等身大の像である。深大寺の元三大師像は座像で高さ196.8cmとかなり大きい。『仮名縁起』には正暦二年(991)に恵心僧都源信の弟子の寛印法師が元三大師自刻の像を深大寺に移座したと記されている。しかし、この像は作風から見て鎌倉末期から南北朝の作と言われている。

■ 元三大師像は市の重要文化財の指定を受けているが、秘仏である。25年に一度の御開帳の行事の時以外は一般に公開されない。昨年は元三慈恵大師の1025年目の遠忌にあたる年だった。50年に一度の大遠忌の半分(25年)は中開帳といわれ、深大寺では御開帳の行事が行なわれた。次は大遠忌で2034年である。

■ 元三大師堂は慶応の大火後、翌々年の慶応3年に再建されている。祀られている元三大師が深大寺の信仰の中心だったからである。この大師堂の天井には、徳川末期から明治初期に活躍した絵師の河鍋暁斎(かわなべぎょうさい)が竜の飛翔図を描いている。どのような図柄かみたかったが、堂内は暗い上に天井板も煤けていてよく分からなかった。


開創1250年の大法会を記念して新築された開山堂

■ 元三大師堂の裏山に、昭和58年(1983)の開創1250年大法会記念事業として新築された開山堂がある。整備された参詣道が元三大師堂の裏山に続いていて、石の階段を上り詰めると、奈良時代様式の堂宇が立っている。

開山堂への参詣路 開山
開山堂への参詣路 開山堂

■ 開扉されていないが、格子をはめ込んだ前面のガラス扉から内部を拝観できる。内部を覗いてみると、中央に本尊の薬師如来三尊(薬師如来、脇侍に弥勒菩薩、千手観音)を安置し、その左右に開基の満功上人、天台宗一祖の恵亮和尚の尊像が祀られていた。

本尊の薬師如来三尊像 開山
本尊の薬師如来三尊像 左・天台宗一祖恵亮和尚像、右・開基満功上人像


白鳳仏の釈迦如来倚像を祀る釈迦堂

釈迦堂
釈迦堂

■ 開山堂から参詣道の石段を戻ってくると、その先に釈迦堂がある。ここには関東地方で最古の釈迦如来倚像が安置されている。国の重要文化財に指定されているこの像は、明治42年(1909)に元三大師堂の壇下から見つかった。大型の金銅仏で、大きさは全高83.9p、坐高59.3pを測る。清純な微笑を浮かべた明るい童顔、端正な倚坐の姿をめぐる流麗な衣文によって親しまれている。

■ 深大寺が法相宗の寺だったころの本尊だったとする伝承もあるが、出所の良く分からない仏像である。表面は火に焼かれたのか肌が荒れていて、鍍金(ときん)も一部を残してはげ落ちている。童顔の清純さと端正な整いとの混ざり合った造形から7世紀末の制作と考えられ、関東の白鳳仏として千葉県篭角寺の薬師如来像とともに有名である。

■ 釈迦堂には、釈迦如来像と同じく重要文化財の旧梵鐘が納められている。

釈迦如来倚像
釈迦堂の本尊・釈迦如来倚像


海底から見つかった慈覚大師自刻の延命観音

延命観音
延命観音を祀るほこら
■ 昭和41年(1966)、秋田県の象潟(きさかた)港の工事中にちょっとした事故があった。その処理のために海底から大石を引き上げたところ、何かが彫刻されていた。顔立ちがはっきりしており、調査してみると、慈覚大師が自ら刻んだ延命観音像であることがわかった。延命観音とは、呪詛・毒薬の害を除き寿命を延ばすという観音である。縁あって翌年に深大寺に寄贈されることになった。

■ その延命観音を祀る付近は、古来からの武蔵野の森の面影が色濃く残る場所だった。しかし、平成20年(2008)に深沙大王堂から延命観音への参道が大改修され、今では大きく開け、深大寺の新しい名所となっている。 毎月18日には、この観音堂で延命息災祈願が執り行われている。


味音痴が食べた十割そば

表通りに面して水車があるそば屋
表通りに面して水車があるそば屋
十割そば
十割そば

■ 境内を散策していて深沙大王堂へ行く道が分からなくなった。たまたま通りがかった道の角に水車を取り付けたそば屋があったので、立ち寄って道を尋ね、ついでに昼食をとることにした。店員に「お勧めは?」と聞くと、十割そばを勧めてくれた。茨城産の「常陸秋そば」を石臼で挽いた粉だけを使った限定品で、十割そばと呼んでいるという。

■ もともと筆者は味にうるさい方ではない。と言うより、味音痴である。そばを食してもコシがあるかどうかが判別できる程度で、風味や香りを見分けられることなどできはしない。したがって、いつもの調子で最初の一口からめんつゆに漬けて食べたが、後でメニューを見ると、「はじめのひとくちは汁をつけずにそのままどうぞ」と書いてあった。








江戸時代まで深大寺の総鎮守だった深沙大王堂(じんじゃだいおうどう)

深沙大王堂 深沙大王堂の内部
深沙大王堂 深沙大王堂の内部

■ そば屋で教わった道筋をたどって深沙大王堂に向かった。道の脇をチョロチョロと音を立てて湧水が流れている。蛍やカワニナ,ヤゴなどが生息しているそうだ。水は深沙大王堂の裏手にある段丘崖(ハケ)の下からわき出ている。その湧水の流れを逆にたどっていくと、深沙大王堂の前に出た。

■ 深大寺の名は、深沙大王(じんじゃだいおう)という水神に由来していることは上で述べた。この深沙大王は、疫病を除き悪事を遠ざける力を持った神とされている。中国の三蔵法師が教典を求めてインドへ旅したとき流砂河をわたる際に深沙大王に救われたと伝えられている。深大寺の古い書物には、この神様によって縁を取り持たれた男女の物語が記されているという。そのため、現在は恋愛成就の神様としてデートスポットとしても有名になってきているようだ。


昔の庶民の暮らしぶりを展示する深大寺水車館

深大寺水車館の水車小屋 水車小屋の内部
深大寺水車館の水車小屋 水車小屋の内部。主軸の先に置かれた石臼

■ 一通り深大寺境内の散策を終えて、バスの停留所に戻ったが、次のバスが到着するまでには、まだ時間があった。近くの道路脇に水車小屋が見えたので、行ってみると、そこは調布市郷土博物館が運営する水車館だった。

■ 水車館では、戦前まで深大寺に沢山あった水車を復元した水車小屋がある。ここで復元されている水車は胸掛け式といって、大輪(おおわ)という回転輪の中程の所に落差を付けて水を落とす仕組みになっている。小屋の中を覗くと、大輪から延びる主軸に杵が取り付けられており、また主軸の先は歯車によってひき臼を廻す構造になっている。調布あたりでは、小麦の製粉や玄米の精白に水車が利用されてきたそうだ。

■ 水車館の展示回廊には、太平洋戦争直後ころまでの付近の農村生活を物語る実物資料が展示してある。筆者が子供の頃農作業の手伝いで使っていた農機具などもあり、当時の庶民の暮らしぶりが懐かしかった。


境内のそこかしこに建てられた句碑と歌碑

高浜虚子の像と歌碑 石田波郷と星野変丘人の師弟句碑
高浜虚子の像と歌碑 石田波郷と星野変丘人の師弟句碑

■ 深大寺の境内には、松尾芭蕉をはじめ著名人の句碑や歌碑が多く置かれている。昔から文人墨客たちに好まれた場所だったようだ。それらの碑を巡る散策コースもある。数えてみたら18人の句碑・歌碑があった。

■ 高浜虚子の句碑には、次の句が刻まれている。
・遠山に 日の当たりたる 枯野かな
その傍らには、虚子の胸像も置かれていた。

■ 開山堂の奥には石田波郷(はきょう)と星野変丘人(ばくきゅうじん)の師弟の句碑が並べて建っていた。
・吹起こる 秋風鶴を 歩ましむ (波郷)
・草や木や 十一月の 深大寺 (変丘人)

追記:よく似た造形の二体の白鳳仏

深大寺の拝観の栞
深大寺の拝観の栞の表紙
正暦寺の本尊・金銅薬師如来倚像
正暦寺の本尊・金銅薬師如来倚像
■ 深大寺釈迦堂に祀られている釈迦如来像は倚子(いし)に腰をかけた倚像である。日本では白鳳の時代の仏像に多い造形のようだ。上に示したように、清純な微笑を浮かべた明るい童顔と、端正な倚坐の姿をめぐる流麗な衣文が、多くの人々を引きつけている。残念ながらガラス越しでしか拝観できなかったが、拝観の栞にはその横顔が大写しで描かれていて、一直線に延びた鼻梁や引き締まった口元が、いかにも知性を感じさせる。

■ この金銅製の白鳳仏とよく似た仏像が 奈良市菩提山町(ぼだいせんちょう)の正暦寺(しょうりゃくじ)にもある。そのことを教えていただいたのは、このHPにアクセスいただいたハンドル名すみれさんだ。すみれさんは、正暦寺の本尊の薬師如来にそっくりの仏像が深大寺にあると聞いて、昔、友人とわざわざ深大寺まで出かけられたそうだ。その時はまだ釈迦堂は建っておらず別のお堂で拝観された。

■正暦寺といえば、「錦の里」と呼ばれる関西きっての紅葉の名所にある寺院だ。菩提山龍華寿院と号し、菩提山真言宗の本山である。紅葉の頃何度か訪れたが、本尊が白鳳時代の薬師如来倚像であるとは、ついぞ知らなかった。早速インターネットで検索して見比べてみた。

■ 正暦寺は正暦3年(992年)、一条天皇の発願により、関白藤原兼家の子兼俊僧正が創建した寺である。その本堂に薬師如来像が本尊として祀られている。薬師如来といえば、薬壷を持つのが一般的な造形だが、この仏像はそれを持っていない。しかし、鳥羽天皇の病気平癒のため、本像を宮中に移して祈願したこともあったというから、やはり薬師如来像なのだろう。台座に腰を掛け、踏割蓮華(ふみわりれんげ)の上に足を置く倚像(いぞう)の形をしている。

二体の白鳳仏
二体の白鳳仏(左:正暦寺の本尊・薬師如来倚像、
右:深大寺釈迦堂の釈迦如来倚像

■ これら二体の仏像を並べてみると、いずれも童顔で、鼻筋が通り口元が引き締まった良いお顔をしておられる。だが、実物は大きさがちがう。薬師如来像は像高28.0cmであるのに対して、釈迦如来像は全高83.9pと大きい。そうした大きさの違いのせいか、前者はいくぶん寸詰まりの印象を与えるが、後者は実にのびやかだ。いずれの仏像も白鳳時代の金銅仏として国の重要文化財に指定されている。

■ ただし、正暦寺の薬師如来倚像は、平素は秘仏とされ、春と秋に期日を限って瑠璃殿(宝物館)で公開される。今年の秋は、11月1日から30日までの期間限定で薬師如来倚像と仏画が特別公開されるそうだ。丁度「錦の里」の紅葉の見頃の頃である。紅葉狩りを兼ねて訪れてみたいものだ。


 2010/07/02作成 by pancho_de_ohsei

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