人間五十年 下天の内にくらぶれば 夢まぼろしのごとくなり
■ 関西在住の大学同期生が夫婦同伴で散策を兼ねたクラス会を昨年から実施している。今回の幹事役のY.Y君は草津在住で、そのため彼の地元と言って良い安土や近江八幡を散策のコースに選んだ。安土では安土城趾の見学、近江八幡では水郷めぐりと近江商人の町と結構ハードなコース設定だ。 ■ 以前、繖山(きぬがさやま、別名 観音寺山)に築かれた安土瓢箪山古墳や安土城考古博物館は見学したことがある(安土瓢箪山古墳参照)。だが、天正3年(1575)5月の長篠の戦いで武田勝頼の騎馬軍団に勝利して、いよいよ天下布武を目指して動き出した信長が、琵琶湖東岸の標高199mの安土山に3年がかりで築かせたのが安土城である。 ■ 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれ、安土城は一時明智軍によって占拠された。明智軍が退却した後の6月15日、略奪目的で進入した土民の放火で、天守閣とその周辺建物(主に本丸)を焼失した。安土城炎上から3年後の天正13年(1585)、18歳で近江43万石の領主に任ぜられた豊臣秀次は、信長亡き後の安土城下の民を近江八幡に移し八幡山に城を築いたため、安土城は廃城となった。 ■ 城跡の修理は1960年に着手し1975年まで続けられた。その後、1989年に「調査整備20年計画」が作成され2009まで整備事業が推進されてきた。天守閣があった山頂までは400段の石段が続き、かなり厳しい登攀になると聞いていたが、後学のために一度は登ってみたいとクラス会に参加することにした。 天下布武の象徴として、家臣の丹羽長秀に築かせた幻の名城■ 安土城趾はJR安土駅の北北東方向に約1.4キロ、徒歩25分ほどの所に位置する。アクセスする道路は田園風景の中に続いている。この日、空は晴れてはいたが、近くの西の湖からの強い北風が田園の上を吹き抜けていた。
■ 受付で入山料500円を払って入口に進むと、目の前に大手道の幅広の石段が一直線に聳えている。通常、敵襲を想定して城の大手道はわざとジグザグに築かれていることが多い。信長はその常識に逆らった。道幅を広く取りまっすぐに配置したのは、天皇を迎えたとき人々を圧倒するように、見せるために作った道だそうだ。急な上り坂に備えて、案内板の横には杖が用意されている。
■ 大手道の左右には有力大名の屋敷跡が続く。石段を登り始めるとすぐ右脇に前田利家の邸跡があり、それと対をなすように左脇には羽柴秀吉の邸跡がある。さらに登ると、右脇に徳川家康の邸跡があるが、現在はそこにハ見寺(そうけんじ)の仮本堂が建っている。
■ 大手道は途中で直角に左に曲がり、そのあとはジグザグに折れ曲がりながら登っていく。相変わらず、邸宅跡を示す碑が左右に立っているが、その中に武井夕庵の邸跡があった。武井夕庵は信長の右筆(ゆうしつ、代筆)であるとともに、茶の師匠でもあった。
■ 天主右下の二の丸跡の広場まで到着すると、右手の一段高いところに信長の廟があった。謡曲「敦盛」が好きで、”人間五十年 下天の内にくらぶれば 夢まぼろしのごとくなり”と良く謡ったという信長は、本能寺の変で自ら49歳の命を絶った。翌天正11年、羽柴秀吉は信長ゆかりの太刀や烏帽子、直垂(ひただれ)などをこの地に埋葬して廟としたという。さらに、一周忌では盛大な法要を営んだと伝えられている。
■ 安土城の中心をなす建物は天守閣とは言わない。天主閣である。信長は自らを「天の主」と考え、天主閣を天主の住まいとした。ちなみに天主閣を居所としたのは信長と秀吉だけとのことだ。天主閣は完成からかずか3年後の天正10年(1582)6月に焼失した。その後は訪れるもの者もなく、長い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまった。 ■ ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和15年。厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れた。現在見ることができる礎石群は検出した当時のままだそうだ。安土城の天主閣は地上6階、地下1階の建物だったことが記録から判明している。現在礎石群が整備されている場所は地階部分である。実際の天守閣の規模はこの2倍はあったとのことだ。
付録:水郷めぐりと近江商人の街■ 安土城趾を見学した後、近江八幡市に移り琵琶湖最大の内湖を、信長が宮中の船遊びを真似て楽しんだと言われる和船で水郷めぐりを楽しんだ。ヨシの生い茂る水路をゆっくりと進む和船で昼食を取りながら水辺を眺めて過ごす1時間は、まさに癒しのひとときだった。その後、近江八幡の発展の原動力となった八幡堀や近江商人の街を散策し、最後はロープウエイで八幡山に登り、琵琶湖の景観を楽しんだ。
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