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| 高取城の二の門跡近くに置かれていた謎の猿石 |
高取城址を訪れた理由
■ 高取城跡にアクセスするには2つのルートが一般的だ。一つは近鉄壷阪山駅から中世の面影を残す古い町並みの土佐街道を経由してハイキングコースを進む登山道である。距離にして4.5km、健脚でも1時間40分かかかる。もう一つは、壷阪山駅から奈良交通バスで壷阪寺まで行き(所要時間15分)、バス停から途中の五百羅漢を経由して山道を登るコースだ。それでも徒歩で50分はかかる。 ■ 4年前に高取城跡まで徒歩で登り、徒歩で下ったことがらる(平成16年2月28日付け橿原日記参照)。その時、登山道の途中で初めて猿石を見た。だが、4年前とは体力が違う。同じルートで城跡まで登りきる体力は今はない。そこで、逆のルートで壺阪寺までバスで行き、そこから徒歩で高取城跡までの登り、猿石経由で山を下ることにした。 |
五百羅漢など多くの石仏が彫られている香高山摩崖仏
■ 香高山(こうこうざん)は壺阪寺の奥院とされている。山腹から絶頂にかけて露出する岩肌に、小さな摩崖仏が密集して彫り出されている。主なものは、五百羅漢、釈迦、十一面観音、五社明神などであるこれらは総称して香高山摩崖仏と呼ばれている。 ■ これらの磨崖仏を彫ったのは、慶長年間(1596 - 1615)の高取城修補工事のとき、本多印旛守が石工たちに作らせたものだというが、真偽のほどは定かではない。磨崖仏の周りには「五百羅漢周遊歩道」が築かれているが整備はされていない。。
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高取城跡の石垣に彩りを添える紅葉
■ 桃山時代、郡山城に入府した豊臣秀長は、重臣の本多太郎佐衛門を高取城の城主にして城の改築を命じた。本多は、見事な石塁や雪のように白く輝く天守閣を築き、高取城の名が世に知らしめた。高取山の山麓の土佐地区がら見上げた城が、いかに美しく壮大であったかを示す歌が城跡の句碑に残されている。 ■ 寛永17年(1640)に本多氏が途絶えると、譜代大名の植村家政が入城し、以後14代228年間、植村家が高取藩主として明治の廃藩置県まで続いた。明治政府は各地の城郭を廃棄したが、高取城もその一つだった。高取城の本格的な解体は明治23年(1890)から行われた。建物は無くなったが、城壁の石垣はほぼ完全な形で残っていて、昭和28年(1953)に国の史跡に指定された。 ■ 近鉄壺坂山駅に着いた頃は、空を漂う雲の切れ間から陽射しが注いでいたが、高取城に到着する頃、上空はすっかり雨雲に覆われ、時雨の到来となった。あわてて城郭の中に築かれた東屋風の休憩所に飛び込んだ。一組の夫婦が雨宿りをしており、小雨の降りしきる中を風に吹かれてモミジの葉が面白いように飛び散ってゆくのを、一緒に眺めた。 ■ 小降りになって夫婦が下山していったあと、落ち葉を敷き詰めたカラフルな台地を急いでかけずり回りながら、石垣をバックに色づいたモミジをデジカメにおさめた。色づいたモミジは明るい陽射しの下では一層映える。残念ながら小雨がちらつく曇り空の下では、気にいった写真は撮れなかったが、その一部を以下に示しておこう。
■ 下山途中に、国見櫓(くにみやぐら)跡方面への標識が立っていた。下山道から80mほど脇道に入れば、大和三山が遠望できる国見櫓跡がある。以前来たときは素晴らしい眺望だった。同じ眺めを期待したが、雨雲の下の景色はくすんでいた。 ■ さらに道を下っていくと、かっての城下町へ下る大手筋と、明日香の栢森(かやのもり)方面へ向かう道の分岐点にでた。その角に猿石が置かれている。この付近に二の門跡があり、当時の城内はここまでだった。 ■ 猿石は以前見たときと同じようにおどけた表情をしていた。明日香村の欽明天皇陵の傍らに吉備姫王の墓があり、その墓域に4体の石造物が置かれている、「檜隈(ひのくま)の猿石」と呼ばれているもので、江戸時代に欽明天皇陵の南側の池田から掘り出されたという。高取城の猿石も、あるいはその片割れだったのかもしれない。斉明天皇はこうした石像物を石敷きの都の各所において都の荘厳化を図ったのだろうか?
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