発端


 学生時代に下宿していた布施市(現・東大阪市)金岡の近くに「衣摺」という地域がある。”きぬずれ”と読んでいたら、正しくは”きずり”と読むんですよと、下宿の女主人に注意された。45年近く前のことである。

「衣摺」交差点
府道173号線(大阪八尾線)「衣摺」交差点
 最近、古代の争乱の一つ蘇我・物部戦争の事績を調べていて、はしなくもまたこの地名に出くわした。『日本書紀』の崇峻天皇前紀に次のような話が載っている。

 用明天皇2年(587)秋7月、大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)は諸皇子と諸臣とに勧めて、大連(おおむらじ)の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼそうとした。そして、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)をはじめとする諸皇子や紀男麻呂(きのおまろ)をはじめとする諸豪族と一緒に、軍勢を率いて守屋を討った。

 軍勢は志紀郡(しきのこおり)から守屋の渋川の家に至った。守屋は自ら子弟と奴の兵士たちを率いて、稲城(いなぎ)を築いて戦った。このとき、守屋は衣摺の地の榎(えのき)の木股に登って、来襲してくる敵を木の上から眺め、雨のように矢を射かけたという。

「聖徳太子古戦場」の碑
大聖軍寺にある
「聖徳太子古戦場」の碑
 学生時代、下宿していたあたりが蘇我・物部戦争の古戦場であるとは知る由もなかった。八尾市太子堂に「大聖軍寺」という寺があり、その入口に「聖徳太子古戦場」と大書した碑が建っている。大聖軍寺は守屋の家があったあたりで、そこで戦闘が繰り広げられたものとばかり思っていた。

 だが、実際の主戦場は衣摺の地だったようだ。守屋はこの地に稲城を築かせている。稲城とは、敵の矢を防ぐために、刈った稲を横木にかけて柵のように並べた一種の防壁である。彼はこの稲城を砦として、子弟や兵士たちを叱咤激励しながら戦っている。自ら榎(えのき)に登って、雨のように矢を敵軍に射かけたのもこの地である。

 実際、物部軍は強かったらしい。『日本書紀』は”その軍は強く勢いが盛んで、家に満ち野に溢れた。皇子たちと群臣の軍は弱くて、恐れをなし三度退却した”という。参戦した厩戸皇子(うまやとのみこ)がヌリデの木を切り取って四天王の像を造り、仏法の加護を祈願したとする逸話はこのときのものである。

 結局は迹見赤檮(とみのいちい)という剛の者が、守屋を矢で射落としてこれを殺すことで、ようやく物部の軍が四散し戦いは終わった。こうして討伐軍が勝利し、物部氏の本宗家は滅亡した。最大の政敵を武力で葬り去ったことで、その後の蘇我家は未曾有の繁栄を享受することになる。

 物部守屋の最後の戦いぶりに心惹かれていると、ある夜、夢の中に彼の幻影が現れた。そして、私をこう誘った。
「パンチョ殿。それほど我が一族の最後に興味をお持ちなら、どうですか、激戦地を一度訪ねられては・・・。なんなら、決戦の場に招待しましょうか?」
あるいは下宿していた金岡あたりも、当時は敵味方の矢羽根が飛び交った戦場だったかもしれない。その地で大学時代を過ごしたのも、何かの因縁だろう。その因縁が、守屋を夢枕に立たせたのかもしれない。なぜか、そんな気がした。



次へ