6.渋川寺を訪れる

 意外な人物との出会い

 その日は離れの建物の一室に案内され、眠れない一夜を過ごした。守屋の屋敷内は一晩中騒然としていた。あちこちにかがり火が炊かれ、母屋で夜遅くまで作戦会議が開かれていたようだ。桜井田部連胆淳(さくらいたべのむらじ・いぬ)がもたらした情報で、額田部皇女の勅を奉じて7月26日には討伐軍が大和から押し出してくることが明らかになった。蘇我氏に荷担する氏族の動向もおよそのところは把握できた。さすがに軍事氏族の長である。守屋は討伐軍の数をおよそ2千と読んだ。

かっての難波の堀江、現在の大川
かっての難波の堀江、現在の大川
当時の難波津に築かれた倉庫(復元)
当時の難波津に築かれた倉庫(復元)
 一方、迎え撃つ守屋軍は枝氏の支援部隊を含めても、せいぜい800人である。守屋は瀬戸内や九州の物部ゆかりの氏族にも参戦の命令を出していた。だが、各氏族が兵をかき集めて船で難波津に到着するには、まだ時間がかかりそうだ。最悪の場合、これらの援軍なしに戦わなければならない。それでも、守屋は討伐軍を迎え撃つ自信があった。作戦会議では、これらの兵をどのように配備するかについて念入りな検討が行われたようだ。


 夏の日の夜明けは早い。明け方少しまどろんだが、入口の戸の隙間から差し込む朝日で目が覚めた。外に出てみると、夜半まで騒然とざわついていた邸内が嘘のように静まりかえっている。この場所が数日後には戦場になるとは、とても思えなかった。生駒山の稜線を離れた太陽の輝きが、本日も暑い一日を予感させた。

 守屋の朝餉に招待された。昨日彼と会った接見の間に出向くと、すでに数人の武将達が食事を終わって退席しようとしていた。昨晩遅くまで軍議を重ねていた者たちで、その中にイヌの顔もあった。所要で邸宅に招いた客人や部下が邸内の宿舎に逗留した場合は、朝餉を共にするのが守屋の習慣のようだった。

「客人は、今朝の目覚めはいかがでござるか」
 席を勧めながら、開口一番、守屋はそう聞いた。
「昨晩は邸内もいささかざわついていたから、あるいは余り眠れなかったであろう」
「なにぶんにも床が変わりましたから・・・」
 私は眠れなかった理由を床のせいにした。アパートではベットで寝るのを習慣にしていたため、板の間にゴザを敷いただけの寝床は、実際寝苦しかった。
「ときに、パンチョ殿は馬に乗られるか?」
 食事の途中で、守屋が聞いてきた。正式に乗馬を習ったことはないが、観光地で馬に乗って見学したことはある。それで、少しは、と答えると、
「それは良かった。昨日話した氏寺の建築現場を案内した後、近くの防備の様子を見てまわりたい。よろしかったら、同道いただけるか」
 どうやら、守屋は決戦を前にして防衛体制の志気を確認してまわるようだ。彼は100人体制の自軍をあちこちに配備していると聞いた。どのような体制で、来るべき蘇我連合軍を迎え撃とうとしているのか興味があった。
「もしお邪魔でなければ、是非」
「よし、決まった」
 彼は言下に言うと、従者を呼んだ。そして、巡察隊にもう一頭馬を用意するよう命じよ、と申し渡した。

 その従者が立ち去ると、入れ替わるように別の従者が部屋の入口に現れて、来客を告げた。
「ほう、早朝から来客とな。どなたかな」
 来客の予定を聞いていなかったとでも言いたげに、守屋は不審そうに従者に聞いた。
司馬達等(しめだちと)さまとそのお連れの方です」
 従者が来訪者の名前を告げたとたん、私が思わず呟いてしまった。
「司馬達等?」
 そのつぶやきが守屋の耳に入ったのか、彼は興味深そうに私を見た。
「おや、パンチョどのは達等をご存じか」
「お名前だけは。半島から渡来された鞍作りの名人と聞いております」
「ウム、そうだ。無理を言って、5年前に一族郎党を連れて大和に来て頂いた」
 そう答えながら、守屋は、早速お通ししろ、と従者に命じた。

 まもなく従者に案内されて二人の男が部屋に通された。部屋の入口で跪礼(きれい)した二人を見て、その服装から倭人でないことは、私にはすぐに分かった。痩躯の白髪頭の老人が司馬達等のようだった。彼に扈従(こしょう)して来た30代の男は、見るからに職人風の服装をしていた。達等は先客の私の存在に気づいて少し臆したようだが、守屋に勧められて私の横に座った。彼が着席するのを待って守屋が優しげに声をかけた。
「これはこれは、達等どの。早朝からのお越しとは、痛み入る。何か急ぎの用でも生じましたかの」
 しかし、老人は私の存在が気になるのか、視線を私に投げたままなかなか返事をしなかった。それに気づいた守屋は、言葉を足した。
「これは失礼いたした、達等どの。紹介が遅れて相済まぬ。こちらのお方はパンチョ殿と申される。1400年後の世界からお見えになられた」
「なんと、1400年も後の世と申されたか・・・」
 驚いたように、達等は私の顔をまじまじとのぞき込んだ。
「さよう。我々が死んだ後のはるか遠い世界からだ。ところが、このお人、達等殿のことをご存じだた申される」
 達等の驚いた顔を愉快そうに眺めながら、守屋は付け足した。
「ほう、吾のことをのう。して、何をご存じだと言われるのか」
 彼の問いを受けて、私は守屋を見た。何を何処まで話してよいのか迷った。守屋は何でも話してやれ、といった風に目で頷いた。

「あなた様は、今は滅亡してしまいましたが大陸の南にありました梁という国のお人で、都の官営の馬具工房で働いておられました、今から40年も前のことです」
 私が話し始めると、達等は唖然とした表情をした。なぜそのようなことを私が知っているのかと、今にも問いただしたい素振りを見せたが、私は続けた。
「ところが侯景(こうけい)という武将が10万の兵を率いて反乱を起こし、国中が戦乱に見舞われた。身の危険を感じられたあなた様はたった一人の身内だった母親を連れて、百済の都・泗沘(しひ)城に亡命されました。そこで、百済の女性と結ばれて、長男の多須奈さまと長女の嶋さまがお生まれになった・・・・」

 私は、話の途中でちょっと息を切った。続けて達等が一族と郎党を引き連れてこの国に移住してきたいきさつを語るとなると、数年前に起きた百済の倭系官人・日羅(にちら)の暗殺事件が絡んできて話が長くなる。そこで、話を簡単に端折って先を続けることにした。

「あなた様は馬具制作に秀でた技術をお持ちだった。なかんずく金銅透かし彫りの勝れた技術は百済でも評判になった。その噂を聞きつけて、あなた様に近づいた人物がいました。こちらの守屋殿に優秀な馬具職人を見つけて倭国に連れてくるよう命じられて泗沘(しひ)城に来ていた物部老(もののべのおゆ)という人物です。詳しいいきさつは知りませんが、老殿の説得に応じて、あなた様はご家族と数人の馬具職人の郎党をつれてこの国に来られた。今から5年前のことです」

「守屋殿はさっそくあなた様を鞍作部の長に任命されると、この近くの鞍作邑に屋敷を与えられました。あなた様の指導で新しい技術を盛り込んだ馬具が作られるようになると、あなた様に注目した人物がおります。他ならぬ蘇我馬子殿です。だが、馬子殿は、馬具制作技術よりもあなた様が深く仏教を信仰していられることに興味を持たれました。そこで、守屋殿に頼み込んで、仏教を弘通される協力者として達等殿の一家を明日香に移り住んでもらうことになりました」

坂田寺跡を示す標識
坂田寺跡を示す標識
 蘇我馬子が司馬達等のために用意した屋敷は、現在の明日香村阪田にあった。後に馬子が邸宅を構える嶋の庄に近い。達等の孫にあたる鞍作止利(くらつくりのとり)は、後に仏師となって馬子が建立した法興寺(=飛鳥寺)の中金堂に本尊として安置する釈迦三尊の金銅仏を鋳造したことで知られる。その功績が認められて、止利は推古女帝から大仁(だいにん、冠位十二階の第三位)を授けられ、さらに近江国阪田郡の水田二十町を賜った。止利は、この水田を資金にして金剛寺を建立したと伝えられている。金剛寺は当時、南淵の阪田尼寺と呼ばれた。現在、明日香村阪田には阪田寺跡と称する所があり、その南方の山の中腹にある金剛寺は、旧阪田寺の法灯を継いでいるとされている。

 私はさらに続けた。
「その後、先の帝が病に倒れられたとき、多須奈殿は病気平癒を祈願して薬師仏を彫ろうとされましたが、間に合わず帝は崩御されたと聞いております。さまは出家して尼になられ、蘇我殿が建てられた草堂で仏に仕えておられますが、故郷の百済に戻って本格的な仏道修行をしたいと望まれているようです」
坂田寺の法灯を継ぐ金剛寺
坂田寺の法灯を継ぐ現在の金剛寺

 私の話は、ほとんどが『日本書紀』から得た知識に過ぎず、どこまでが事実なのかは本人自身も分からない。だが、これは驚いたという表情を浮かべながら、守屋と達等が互いに顔を見合わせている様子から、事実に近い話のようだった。
「ところで、達等殿には止利というお孫さんが居られた。後年、当代随一の仏師になられるが、現在何歳になられましたか」
 達等は呆れたようにまた私の顔を見た。
「驚きましたな。止利のことまでご存じとは。孫の止利は、家族で大和の国に移ってくるとき、船中で生まれました。したがって、今年で6歳になるはずです。まだイタズラ盛りの腕白ですが、ホウ、あの坊主が仏像彫刻の道を選ぶのか。これは楽しみだ」
 達等の頬の肉が緩んで、遠くを見るように天井を仰ぎ見た。
「あなた様に身内には、同じ年頃の福利(ふくり)という人物も居られますか」
 私は、小野妹子(おののいもこ)の通事として20年後に隋に渡る人物の存在が気になって、つい聞いてしまった。
「福利? はて、そのような名前の子供は身内にはおりませんが・・・」
 一族の顔を思い浮かべてでもいるように、達等は口を開いた。しかし、何かに思い当たったように背後に控えている郎党を振り返った。
「この男は鞍作職人の礼帯山(らいたいざん)と申します。この男に止利と同じ年頃の子供がいますが、名前は福利ではありません」
 彼は念を押すように、郎党の顔を見た。礼帯山と紹介された男も、間違いないと言うように首肯した。だが、数日後の丁未の変(ていびのへん)の残党狩りで、知人を匿ったため礼帯山夫婦が斬られてしまう。達等は両親を失ったその子を引き取って福利の名で育てることになる。この時点では達等はまだそのことを知らなかった。


あああああ
藤ノ木古墳出土の鞍金具(後輪)
 私の話が一段落したところで、物部守屋はあらためて司馬達等に向き直って、来訪の目的を聞いた。
「ときに、ご老体、早朝からお越しくださるとは、何か急な用事でも出来(しゅったい)しましたかな」
 そう聞かれた達等は、軽く叩頭して答えた。
「本日はこれから飛鳥に戻らねばなりません。その前に、依頼されておりました品ができあがりましたので、それをお納めしようと持参いたしました」
 そして、背後に控えた帯山を振り返った。泰山は脇に置いてあった包みを解くと、中の品物を従者の方へ押し出した。従者はそれを慎重に抱きかかえて、守屋の目の前においた。それは黒塗りの漆もつややかな馬の鞍だった。鞍橋(くらはし)に取り付けられた金銅製の鞍金具が燦然と黄金色に輝き、その前輪と後輪(しずわ)には様々な文様の透かし彫りが施されていた。
以前の藤ノ木古墳
以前の藤ノ木古墳
復元・整備された藤ノ木古墳
復元・整備された藤ノ木古墳

「これは、これは・・・」
 武人として色々な馬具を見てきたはずの守屋が、目の前に置かれた鞍を見て、その出来栄えに思わず息を飲んだ。そして、前屈みになって顔を鞍金具に近づけると、透かし彫りを興味深げにしげしげと見入った。しばらくして顔をあげると、透かし彫りの一部を指さしながら達等に聞いた。
「達等どの、鞍金具の唐草文様の中には、鳳凰や龍の他に、鼻の長い動物が彫られている。見慣れぬ動物だ。何という生き物だろうか」
「象というものだそうです。西域の先にある灼熱の国に住む動物で、この世では一番大きい生き物と聞いています」
「ほう、象と申すか。一度見てみたいものだ。それにしても、このすばらしい鞍をあのお方にお見せしたかった。今となっては、それができないのが残念だ」
 守屋は”あのお方”と言ったが、それは穴穂部(あなほべ)皇子のことを指していた。次期大王候補として彼が強力に推していた皇子である。穴穂部皇子が登極したら祝の品として献上するつもりで、司馬達等に特注で馬具の制作を依頼していた。しかし、額田部皇女の命を受けた蘇我馬子は、軍勢を差し向けてその皇子を殺害してしまった。先月の7日のことである。
「思わぬ仕儀となってしまったが、達等どのには特別な計らいで立派な鞍を作って頂いた。心からお礼申しあげる」
と、守屋はあらためて達等に向かって頭を下げた。なんの、なんの、と首を振る達等を見ながら、守屋は言葉を足した。
「この鞍は、皇子の棺を埋葬するとき、その棺の横に副葬させることにいたそう」


藤ノ木古墳の内部
藤ノ木古墳の内部
 昭和60年(1985)、法隆寺近くで藤ノ木古墳の発掘調査が行われ、石棺と奥壁の間から金銅鞍金具など3組の馬具が他の遺物とともに出土した。その中の金銅製の馬具は古代東アジア世界で見つかっている馬具の中でも最も豪華な物であるといわれている。藤ノ木古墳には一つの石棺に二人の男性が埋葬されていた。被葬者は同時に殺害された穴穂部皇子宅部(やかべ)皇子とする説がある。その説が正しければ、出土した豪華な鞍は、このとき司馬達等が守屋に納品した品かもしれない。


 建設途中の物部氏の氏寺・渋川寺

 司馬達等と礼帯山が辞した後、守屋は警備隊長の物部恵尺(えさか)の名を呼んだ。部屋に入ってきたのは20歳前後の屈強な若者だった。恵尺は片膝をついて挨拶し、顔を伏せて指示を待った。
「これから、パンチョ殿を寺に案内し、ついで衣摺(きずり)にまわって稲城が何処までできあがったか見ておきたい。すぐに出かける用意をせよ」
 守屋の指示を受けて、若者は顔をあげると、
「準備はいつでもできております。すぐに馬を門前に回しましょう」
と言って、その場を離れた。
挂甲の武人(埴輪)
挂甲の武人埴輪

 恵尺が退出すると、入れ替わりに二人の従者が挂甲(けいこう)を持って入ってきた。守屋は立ち上がって、二人にその武具を着けさせた。挂甲とは古墳時代から奈良時代にかけて用いられた防具である。鉄や革で出来た小札(こざね)という小さな板状の部品を縦横に紐で綴じ合わせて作られたもので、胴体の周囲を覆い前面や両脇で引き合わせて着用する。それに兜(かぶと)や肩鎧(かたよろい)、膝鎧(ひざよろい)が付属する。兜は前面に庇(ひさし)が付いた丸い鉢形のもので、一般に眉庇(まびさし)付き兜と呼ばれているものだ。
 さすがは軍事氏族の長である。金銅製の挂甲と兜を装着すると、今までの平服でくつろいだ守屋が凛々しい武人に変貌した。従者が差し出した黄金色の大刀を腰にはくと、
「それでは参ろうか」
と、私を促しながら部屋を出た。
 主屋の前には、すでに警備隊長の恵尺を先頭に、4人の兵士が騎乗して待機していた。これらの4人が守屋の前後左右につく警備兵である。矢を入れた靫 (ゆき) を背に負い、弓を手にしてた。領内の視察に出るときは、守屋は通常これら5人の騎兵を連れて出かけるようだった。


 守屋が渋川に建てさせている氏寺は、守屋の邸宅から北東方向におよそ800mほどの大和川に右岸に位置していた。現在のJR大和路線の八尾駅から約400m西北西に行った線路脇に、渋川天神社という社が鎮座している。その神社の南西の地が渋川寺があった場所として、現在渋川廃寺址の碑が置かれている。昭和10年(1935)頃JRの操車場を開設したとき、この場所から多数の単弁八葉や忍冬唐草紋の瓦や塔の心礎が出土した。

八尾市渋川町に鎮座する渋川天神社 渋川天神社の境内に建つ<br>「渋川廃寺址」の碑
八尾市渋川町に鎮座する渋川天神社 渋川天神社の境内に建つ
「渋川廃寺址」の碑


 守屋の案内で訪れた渋川寺は、南に中門を配し、中門・塔・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ、いわゆる四天王寺様式と呼ばれる伽藍配置を採用していた。中門から左右に伸びる回廊が塔と金堂を囲み、講堂で再び左右から連結する形は、四天王寺を度々訪れたことがある私にとっては、馴染みのものである。
 だが、規模こそ違っても、1300年の昔に同じような伽藍が造営されているのを見るのは驚きだった。
四天王寺の境内(手前より金堂、五重塔、中門
四天王寺の境内(手前より金堂、五重塔、中門

 馬から降りると、守屋の後に続いて境内に入っていった。工事責任者らしい男が急いで駆けつけてきて、守屋の前で四つん這いになって何度も叩頭した。
 こうした挨拶の仕方を匍匐礼(ほふくれい)という。この時代では当たり前の作法だった。しかし、このときから約100年後の天武天皇11年(682)9月、天皇は官吏に対して「今より以後、跪礼(きれい)・匍匐礼を止めて、唐風の立礼を用いよ」と勅を下している。
 守屋が工事責任者にいくつか質問して工事の進捗状況を確認していた。その間、目の前に聳える五重塔を見上げ、初層の屋根で瓦を葺いている人夫たちの動きを興味深く追った。瓦は遠く東に連なる生駒山地のどこかで焼かれて運ばれてくるのだろうか。瓦を積んだ何艘かの川船が大和川を下って来ているようだ。
 昨日守屋と対面したとき、大別王(おおわけのきみ)の協力を得て、5年ほど前からこの渋川の地に寺を建設中だと聞いた。まだ完成までには2〜3年はかかると言っていたが、すでに塔も金堂も木組みがほとんど終わり、瓦葺きの段階に入っているようだ。
 「いかがでござるか、パンチョ殿」
 工事責任者との話が終わった守屋が、中門の脇から塔を見上げている私に声をかけてきた。
「いや、驚きました。このような本格的な寺院が河内に築かれていようとは」
 私が答えると、守屋は何度も満足ぞうに頷いた。そのたびに、彼の兜が日の光を受けてキラリと輝いた。
当時の河内平野
当時の河内平野

「我が国最初の本格的な仏教寺院は、蘇我馬子殿が飛鳥に建てられたと我々は聞いていましたが・・・」
「馬子殿は確かに石川の自宅の東に小さな仏堂を建てて、百済から将来した石の弥勒像を祀られていた。さらに、その仏に供えた斎食(いもい)から仏舎利が出たというので、近くの丘の上に塔を建てて、その心柱に舎利を納められた。しかし、仏堂も塔も本格的寺院と呼ぶにはほど遠いものだった、しかも、疫病が流行した際、敏達天皇の命令で我々がその仏堂も塔も焼いてしまった。今から2年前のことだ」
 守屋は珍しく饒舌に話した。
「しかし、馬子殿が建立された本格寺院は、塔の周りに金堂を3つも置くという珍しい配置のものだったと聞いていますが・・・」
「さもあろう。馬子殿も二度ほどこの寺に足を運ばれた。そして、この寺に負けないような大寺院を建立したいと申されていた。なるほど、それが3つの金堂で塔を囲んでいる寺であったか」
 しかし、蘇我氏の氏寺である飛鳥寺の建立が開始されたのは、丁未の変から5年後のことである。その時にはすでに守屋は命を落としていた。

「ところで、守屋殿」
と、私はあらためて守屋の顔を正面からのぞき込んで聞いた。
「物部氏は石上神宮で神剣の布都御霊(ふつのみたま)を祭神として祀っている家柄でもある。それにもかかわらず、なぜ蕃神と言われている仏を祀られるのか」
 私の問いに対して、守屋はまず次のように答えた。
物部氏の始祖ニギハヤヒノミコト
物部氏の始祖
ニギハヤヒノミコト

「布都御霊は大王家の守り神であって、我が一族の守り神ではない。物部氏が氏神として奉斎しているのは、始祖の饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)である。天孫よりも先に天照(あまてらす)大神から10種の神宝を授かり、三十二人の伴緒(とものお)を率いて、天磐船(あめのいわふね)で河内の哮峰(いかるがのみね)に天下ったとされている」
「河内の哮峰(いかるがのみね)?」
 私が尋ねると、守屋は寺のはるか東に連綿と南北に立ちふさがっている生駒山地の北の端を指さした。
「あの一段高い所を生駒山と呼んでいるが、哮峰はその先にある。残念ながら、ここからは見えない」
「すると、ニギハヤヒノミコトは高天原からその峰に磐船で天下ったと言われるのですか」
「少なくとも、我が一族は遠い祖先からそのように伝え聞いている。だが、実際は、西の筑紫の国あたりから船で移動してきて河内湖に入り、その東岸に上陸して天野川流域に最初に住み着いたものと、吾は考えている。天野川の岸に巨大な岩が露出している場所がある。その岩がニギハヤヒノミコトとその伴緒(とものお)が乗ってきた天磐船として、わが一族は祀っている」


磐船神社のご神体は高さ12m、幅12mの船の形をした巨大な磐座(いわくら)
磐船神社のご神体は高さ12m、幅12mの船の形をした巨大な磐座(いわくら)

 守屋が話した天磐船とは、現在も大阪府交野(かたの)市私市(きさいち)9丁目にある磐船神社でご神体として祀られている巨大な磐座(いわくら)のことである。横から眺めると、舳先を45度傾けて今から天に向かって飛び立とうとする船にも見えて不思議だ。


 守屋はさらに話を続けた。
「だが、ニギハヤヒノミコトは一族を守護してくださるが、氏人の病気を治してくださるわけではない。命を長らえさせてくださるわけでもない。富みをもたらしてくださるわけでもない。それに引き替え、仏教は仏像を礼拝し、祖先を祀れば、氏人たちの様々な願い事を聞き届けてくれる尊い教えであると聞いている」
「つまり、仏は氏人たち一人一人の願いや物部一族の福徳を祈願しても、それに答えてくれる神というわけですか・・・」
 どうやら、蘇我馬子も物部守屋も、インド仏教のように個人救済を目的とした宗教ではなく、現世利益の招来を目的としたの宗教として仏教を理解しているようであった。守屋は語らなかったが、仏教寺院の建立にはもう一つの目的もあるようだ。今までは、一族の権威の象徴として、族長の墓を盛大な規模に造ることに一族の労力を結集してきた。だが、仏教寺院は壮大な墓に代わって、一族の権威を十分に知らしめる建造物であることに、族長達は気づいたようだ。
 しかし、残念なことだ、と私は心の中で思った。この寺の存在は後世には伝わらなかった。おそらく丁未の変(ていびのへん)で守屋が敗退し、大壇越を失った寺は完成を見ることなく放置されてしまったのであろう。そのことを守屋に伝えようとしたが、止めることにした。一族の運命を今は知りたくないと、彼自身も思っているに相違ないのだ。


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