5.守屋、真相を語る

 物部氏は廃仏派ではなかった・・・・

 以前から、物部守屋に会ったら是非確認したいことがあった。
「ときに守屋殿、二つ三つ質問させていただきたいことがあるが、お答え願えるだろうか」
「何なりと」
 飲み干した杯をグイと百枝姫のほうへ突き出しながら、守屋は平然と答えた。
飛鳥資料館の庭の石像物:亀石
飛鳥資料館の庭の石像物:亀石

「まずお聞きしたいのは、このたびの戦の直接の原因です。崇仏廃仏論争が直接の引き金となったとされていますが、本当でしょうか」
「崇仏廃仏論争? なんのことでござるか」
「先ほどの歴史書では、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との間で、百済の聖王が伝えた仏教を受け入れるべきか否かを巡って、親子二代に渡って長い対立があったと伝えています」
 私が説明しだすと、守屋も遠い昔に父から聞かされた話を思い出したように、なんども頷きながら口をはさんだ。
「百済からもたらされた仏像を前にして、御前会議の場で蘇我氏と中臣氏が言い争ったという話は、吾も父から聞いたことがある。蘇我稲目(そがのいなめ)殿は、半島の諸国ではいずれの国も仏を崇拝しているのだから、倭国でも蕃神を受け入れるべきだと主張された。それに対して、神祇の祭祀を職掌されていた中臣連鎌子(なかとみのむらじ・かまこ)殿は、猛烈に反対されたようだ」
飛鳥資料館の庭の石像物:亀石

「中臣氏だけでなく、貴方の父上も強行に仏を受け入れるのを反対されたとのことです」
「いいや、それは違う。父の尾興(おこし)は仏がもたらす功徳について、よく理解しておられたようだ。パンチョ殿もよくご存じのこととは思うが、伽揶(かや)諸国を併合しようとする新羅に対抗するため、我が国は長年にわたって半島に軍事支援を行ってきた。その中核をなしたのは物部一族の将兵たちだ。彼等は百済の王都・泗沘(しひ)城のあちこちで巨大な寺院が築かれ仏が祀られているのを見て、帰国したとき父にそのすばらしさを報告している。さらに、蘇我氏ほどではないにしても、わが一族の配下にも多くの渡来人がいる。彼等の中には半島から小さな仏像を持ち込んで礼拝している者たちがいる。父は彼等が仏像を崇拝するのを止めようとはなさらなかった」
飛鳥資料館の庭の石像物:石人像
飛鳥資料館の庭の石像物:石人像

「しかし、稲目殿が仏像を小墾田に家に安置して礼拝したところ、国に疫病が流行した。そこで、尾輿殿と中臣鎌子殿が一緒になって、蕃神を礼拝したタタリだと欽明大王(きんめいのおおきみ)に奏上された、と聞いています」
「そこのところも、父から聞いている話とは違っている。たまたま疫病が流行し、それが蕃神のせいだと破仏を唱えたのは中臣氏である。アマテラス大御神以来の大王(おおきみ)家の神々を祭祀してきた中臣氏としては、大王家が蕃神を受け入れることを立場上反対された。だが、我が物部氏にとって、蕃神を受け入れるのを反対する理由はない」
「でも、尾興殿が大王の許可を得て仏像は難波の堀江に流し、伽藍を焼いたことになっています」
「それは、大王の詔(みことのり)に従っただけのことである。祭祀を事とする中臣氏には、蘇我の私兵に対抗できる兵士がいなかった。そこで、わが父の協力を頼んできたと聞いている」
飛鳥資料館の庭の石像物:須弥山石
飛鳥資料館の庭の石像物:須弥山石

「今から2年前にも、同じような事件があったと史書には記されています。その事件の当事者は貴方様と蘇我馬子(そがのうまこ)殿です」
「ほう、この守屋が馬子殿に何をしたというのだ」
「2年前、馬子殿が天然痘で床にに伏された。占ってみると、難波の堀江に流した仏のタタリであることが分かった。そこで、馬子殿は敏達大王に仏を礼拝する許可を請われて、仏を祀られた。すると、疫病がますます国中に流行したので、貴方様は中臣勝海殿と廃仏を奏上された。そして、大王の詔(みことのり)を得ると、馬子殿が建てた塔を倒し、仏殿を焼き、仏像を難波の堀に投げすてられた。さらに、三人の尼を海石榴市(つばいち)で尻たたきの刑に処せられたという。そのため、貴方様と馬子殿の対立がますます激しくなったと聞いています。そればかりではない。大王も貴方様も天然痘にやられ、大王は亡くなられた。それで、仏を海に捨てたタタリのせいだと『日本書紀』は記しています」
 私の話を聞き終わると、守屋はさも愉快でたまらないといった風情で大声を上げて笑った。
「死人に口なしとは、よく言ったものだ。どうやら、吾やわが父は廃仏派の急先鋒として、その歴史書では、悪役に仕立て上げられたようだ。その一方で、蘇我氏は仏教受難の時代を乗り越えて仏教を広めた功労者として顕彰されている。まことに愉快だ」
 そして、こう付け加えた。
渋川天神社の前に建つ渋川廃寺址の碑
渋川天神社の前に建つ渋川廃寺址の碑

「歴史書というのは、史実を忠実に伝えるものとは限らないらしい。編纂時点で何かの意図があれば、シロもクロに書き換えられて伝えられるようだ。百枝姫よ、どうやらこの守屋は、後世の人々には天下の大悪人と印象づけられているようだ」
「ならば、吾は大悪人の妻ということになります。それでは困ります」
 百枝姫の途方にくれた顔を見て、守屋はさらに笑った。
「そうであれば、あの世に戻られたら史書を書き直すように、今からパンチョ殿にお願いしておくことだな」
 しかし、守屋の顔に真剣さが戻った。
「ところでパンチョ殿、今の二回目の破仏の話は事実ではない。おそらく、史書の編纂時点で仏教受難ということを強調したくて、新たに付け加えられた創作であろう。その証拠を明日にでもお見せしよう。わが物部一族は、大別王(おおわけのきみ)の協力を得て、5年ほど前からこの渋川の地に寺を建設中だ。完成までには、まだ2〜3年は必要だろうが、本格的な仏教寺院だ。馬子殿は自宅の東に草堂を作られて石仏を祀られたが、本格的な寺院はまだ建立されていない。この一事をもってしても、吾が廃仏派の頭領でないことは、お分かりいただけるであろう」


堂ケ芝廃寺址の標識
堂ケ芝廃寺址の標識
 大別王というのは、難波に邸宅を持つ王族である。10年前の敏達6年(577)5月、百済への使節として派遣されている。派遣の目的は不明だが、その年の11月に帰国するとき、百済の威徳王は経論を贈呈するとともに、律師や禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工など6人を我が国に派遣している。
 大別王は王族でありながら、熱心な仏教信者だったようだ。百済から連れてきたこれらの人物を邸宅に住まわせ、近くに「大別王寺」(おおわけおうじ)という寺院を建立した。JR大阪環状線の「桃谷」駅のすぐ近くにある「豊川稲荷別院」の境内に堂ケ芝廃寺の碑が建っている。堂ケ芝廃寺を大別王寺に比定する説がある。

 丁未の変は、額田部皇女の私怨を利用した蘇我馬子の権力闘争

 ようやく夏の太陽が西の空に傾き始めたようだ。開け放たれた窓の影が部屋の中程まで伸びてきた。もうずいぶんと守屋と向き合って話し込んでいたような気がする。だが、もう一つ確認しておきたい疑念があった。物部氏と蘇我氏の関係である。名門物部氏に対して、蘇我氏は稲目の代に、渡来系氏族をバックに急速に延びてきた新興勢力と見なされている。その蘇我氏を物部守屋はどのように見ていたのであろうか。

石人像
「今まで伺った話だと、近々予想される武力衝突は崇仏・廃仏の争いが原因でないと言われる。すると、蘇我氏との不和の原因は皇位継承を巡る争いと理解してよいでしょうか?」
 私は守屋の顔をまっすぐ見て聞いた。杯を相当重ねて、かなりの酒量を飲んだはずだが、その顔は幾分青みを帯びて酔ったようにも見えない。
「いや、それも違う。わが物部氏と蘇我氏とは、決して不仲の間柄ではない」
 守屋は、そう切り出したが、すぐに訂正した。
「正確な言い方をすれば、つい最近までは、決して不仲ではなかった。両氏族は、父の代から大連・大臣として協力しながら大和朝廷を盛り立ててきた。わが物部氏は軍事と警察の面で大和朝廷を支え、蘇我氏は財政の面で大和朝廷を支えてきた、といってよい」

 物部と蘇我は大王家にとっての車の両輪であった、と守屋は言いたいようだ。そして、両氏族が不仲でなかったことを強調するように、守屋は言葉を継ぎ足した。
「パンチョ殿はご存じないかもしれないが、わが妹の布都(ふつ)姫は馬子殿に嫁いでいる」
須弥山

「さきほど、大和川の川船ですれ違うとき、お顔は拝見しました」
 決戦前夜のこの時期に、布都姫が何のために兄を訪れたのか聞いてみたい衝動に駆られた。おそらく武力衝突を回避する条件を、夫の馬子の代理として伝えに来たにちがいない。だが、どのような条件を提示したのか。そして、守屋はそれを飲んだのか、それとも拒否したのか。
「ところで、皇位継承争いとはどういうものでしたか? 物部・中臣両氏と蘇我氏の間には、次期大王の指名でも確執があったと聞いていますが・・・」
 私は、核心へ切り込んだ。すると守屋は次のように前置きした。
「この時代、大王位を継承する皇子は大和朝廷の有力豪族の合意によって選ばれる。単に先の大王の皇子だからというだけで、大王に登極できる訳ではない」
飛鳥資料館の庭の石像物:猿石
飛鳥資料館の庭の石像物:猿石

 そして、皇位継承者の話から始めた。
「今年の4月、用明大王が病気で倒れたとき、誰を皇位継承者とするかで群臣の間で話し合った。パンチョ殿は誰が次の大王の候補にあがったがご存じか?」
「はい。4人の候補がおられたと聞いています。一人は、穴穂部皇子 (あなほべのみこ)。偉大だった欽明大王と蘇我稲目殿の娘・小姉君(おあねぎみ)との間に生まれた皇子で、先の敏達大王や用明大王の異母弟に当たられるとのことでした」
「そう。王族には珍しく、若い頃から山野を馬で駆けめぐり狩猟を好まれた武人的な性格の皇子だった」
「一人は、押坂彦人皇子 (おしさかのひこひとのみこ)。敏達大王の第一皇子として先の皇后広姫との間に誕生された方と聞いています」
「彦人皇子は、父の敏達大王に見込まれて一時期は朝政に参与した経験もおありになる。ただ、残念なことに皇子の母・広姫は、近江の地方豪族・息長氏の娘であり、彼を推してくれる有力豪族はほとんどいない」
「一人は、敏達大王の後の皇后の額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、後の推古天皇)との間に生まれた皇子で、竹田皇子。もう一人は、用明大王と大后の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)との間にお生まれになった厩戸皇子です」
「ほほう、よくご存じだ。後世には、そのようなことまで伝わっているのか」
飛鳥資料館の庭の石像物:人頭石
飛鳥資料館の庭の石像物:人頭石

守屋は感心したように、私の顔を覗き込んだ。
「で、候補者選びでどのような確執があったと伝えられているのか?」
 聞かれたついでに、私は『日本書紀』に記された内容を話した。
「貴方様と中臣勝海殿は穴穂部皇子を推された。勝海殿は、押坂彦人皇子の像をつくり、厭い呪われたとされている」
「それで、蘇我馬子殿はどなたを推されたことになっているのだ?」
「それがよく分かりません。厩戸皇子の聡明さを買って、皇位継承者に推すことを考えられたようだが、どうやら年齢的には若すぎると判断し、次の次の大王に推戴すると決めていたようだ」
「その通りだ。だから、馬子殿は我らと同じく穴穂部皇子を次の大王にと考えておられた。先の敏達大王も用明大王も、いずれも欽明大王のお子であられた。欽明大王のお子として、もう一人大王にふさわしい皇子がおられた。それが穴穂部皇子だ。しかも、皇子は馬子殿の姉のお子である。いわば、蘇我の身内のようなものだ」
「ということは、貴方様と馬子殿の間になんら意見の対立はなかった?」
「我らの間だけではない。群臣たちの一致した意見だった」
「では、なぜ馬子殿は穴穂部皇子を殺害するような挙に出られた?」
「ウム・・・」
と、守屋はしばらく事件のいきさつをどのように説明すべきか迷ったように、息を詰まらせた。
飛鳥資料館の庭の石像物

 その後の守屋の話を要約すれば、穴穂部皇子ではなく、竹田皇子を次期大王に推薦したいという人物が現れたというのだ、その人物とは、敏達大王の寵臣であり、大王亡き後も皇后の額田部皇女に寵愛されている三輪君逆(みわのきみ・さこう、サコウ)である。サコウは、我が子を大王位に・・・、と望む額田部皇女の代弁者であった。
「心外だったのは、穴穂部皇子である」
 皇子はほとんどの群臣の支持を得て、皇位継承者として推薦されるものと確信していたようだ。だが、思わぬ所から横やりが入った。
「そこで、皇子は、ある夜、敏達大王の殯の宮に額田部皇女を訪れて、姫にも自分を次期大王に推薦してほしいと頼もうとされた。ところが宮の入口で武装した衛兵に阻まれ、中から出てきた側近のサコウに、来意を無視されて追い返された。かっての寵臣だったことを鼻にかけたサコウの傲慢な態度に、さすがに皇子も激怒された。
「死せる大王に仕えて、次の天下の王たらんとする吾に刃向かうとは許し難い。サコウを斬り捨てたい」
と、皇子は守屋と馬子にサコウの成敗を持ちかけた。守屋も馬子もサコウの態度には以前から好感を持っていなかったため、”仰せのままに”と答えた。そこで、皇子は守屋とともに兵を率いて磐余の池辺にあった殯の宮を囲んだ。
飛鳥資料館の庭の石像物

 サコウは穴穂部皇子の襲撃をいち早く察知して、本拠地の三輪山に逃れたが、その日の夜、こっそりと山を抜け出して、海柘榴市(つばいち)にあった額田部皇女の宮に隠れた。しかし、彼の居所を密告するものがあって、皇子は守屋とともに宮を襲い、皇子自ら矢を射てサコウを射殺してしまった。
 寵臣を射殺された額田部皇女は、烈火のごとく怒った。そして、叔父の馬子に勅(ちょく)を下して、穴穂部皇子と宅部皇子(やかべのみこ)の殺害を命じた。大王不在の異常事態では、皇后の勅は大王の詔(みことのり)に等しい。そこで、馬子は佐伯連丹経手(さえきのむらじ・にふて)らに命じて、穴穂部皇子と宅部皇子を殺させた。宅部皇子は宣化大王の皇子だが、穴穂部皇子と仲が良く、サコウ殺害に荷担したため殺されたという。

 この事件は6月7日に起きた。いくら先の大王の皇后の命令とは言え、皇位継承資格者筆頭の穴穂部皇子の殺害を命じたことで、守屋は馬子をなじった。そして、事件の背後に額田部皇女と馬子の間で、今回は凡庸な皇子を大王に立て、時期を見て竹田皇子を登極させるという密約があったことが、守屋の耳に入った。このことが、守屋と馬子が決定的に仲違いするきっかけとなった。

飛鳥資料館の庭の石像物
 一方、守屋は殺された穴穂部皇子に代わって押坂彦人皇子を擁立しようと考えたようだ。彼は盟友の中臣勝海を押坂彦人皇子の水派宮(みまたのみや)へ送りこんだ。だが、中臣勝海は皇子の像を作り、これを傷つけてその死を祈った張本人である。宮を辞したところで、舎人(とねり)の迹見赤檮(とみのあかい)に刀で斬り殺されてしまった。

 7月に入って様相はさらに急な展開を示してきた。額田部皇女は、サコウ襲撃事件の背後にいた物部守屋に対しても、怒りの矛先を向けた。彼女は蘇我馬子に対して執拗に守屋殺害を要求した。当初は守屋との関係をなんとか修復できないか考えていた馬子だった。だが、たびたび守屋殺害を要求されるにつれて、馬子は皇女の要求が守屋を政界から葬るチャンスと考えるようになった。もとより蘇我氏だけでは、軍事氏族の物部氏の武力と対等に立ち向かうことはできない。だが、前の大后だった額田部皇女に勅を出させれば、有力豪族と連合して、政界から守屋を排除できるかもしれない。こう考えた馬子は、皇位継承争いを政界の主導権を巡る権力闘争に切り替えた。
飛鳥資料館の庭の石像物

「と言うことは、この度の戦いの原因は守屋殿に対する額田部皇女の私怨ということになるが、そのように考えてよろしいでしょうか」
 私は、守屋の話が一区切りつくのを待って、確認の言葉をはさんだ。それに対して、守屋は肯定も否定もしなかった。どうやら、まだ背後に複雑な事情がからんでいるようだ。

 大和朝廷の勢力を二分する物部氏と蘇我氏の仲がいったんこじれると、歯車は悪い方へ悪い方へ回り出した。さまざまな噂が飛び交い、守屋も馬子も身の危険を感じだしたようだ。守屋は河内の渋川に引っ込んで大和へ出仕せず、馬子は自宅を大伴氏の衛兵たちで固めた。だが、こうした状態が膠着することを双方とも望んでいたわけではない。水面下では、守屋は何回も使者を蘇我邸へ派遣し、馬子も布都姫を遣わして、それぞれ和解の道を探っていたようだ。しかし、糸口が見いだせないまま7月21日を迎えた。まるで兄の用明大王を埋葬する日を待っていたかのように、額田部皇女は守屋討伐の勅を下した。



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