3.渋川の屋形に招かれる

5世紀頃の河内湖
5世紀頃の河内湖
(出典:梶山彦太郎・市原実著
『続大阪平野発達史』)
 今からおよそ6000年ほど前、地球の温暖化で海面の上昇がピークに達し、現在の水位より3〜5mも高くなったことがある。このため、日本列島の海に面した平野部は、奥深くまで海が入り込んだ。これを縄文海進という。
 現在の河内平野にも海水が進入し、上町台地の東部に、考古学上河口湾と呼ばれる巨大な湾が形成された。
 時代が下がるにつれ、上町台地の北方に砂州が伸びて河口湾の入口を狭めていった。
 それと平行して、湾に流入する淀川や大和川などの河川によって海水の淡水化が進み、河口湾は次第に河口湖に変貌していった。
 その後も、淀川や大和川などが運び込むぶ土砂によって、河口湖はゆっくりと縮小していった。
 だが、紀元後も河内湖は残存しており、4世紀 〜5世紀ごろには草香江(くさかえ)と呼ばれていた。
 草香江に流入する河川の水が海へ排水される場所は上町台地北方に一カ所しかなかったため、湖の周辺はしばしば洪水に見舞われた。
天満橋から眺めた大川の下流
天満橋から眺めた大川の下流

 こうした水害を解消するために、上町台地を切り開いて難波の堀江という排水路が築かれた。4世紀の後半または5世紀の初め頃の出来事である。
 『日本書紀』や『古事記』は、難波に高津宮を置いたオオササギ王(仁徳天皇)の治世のこととして、この運河開削の事実を伝えている。ちなみに、難波の堀江とは現在大阪市内を流れる大川の前身だった。
 近鉄大阪線に「弥刀(みと」という駅がある。弥刀の地名は「水門(みと)」あるいは「水戸(みと)」が転化したもので、古代はこの付近が大和川の河口に当たっていたとされている。


現在の長瀬川(志紀駅付近)
現在の長瀬川(志紀駅付近)
 現在の長瀬川からは、当時の大和川本流の様子を伺い知ることはできない。現在は市街地を流れる用水路に過ぎないが、当時は川幅が200m〜300mもあったというからには、堂々たる大河である。
 舳先にたって竹竿で船を操る男に向かって、イヌが声をかけた。
「船を川の中程までこぎ出せ」
 そして、船の中央で立ち上がると、何かを探しているように両手をかざして、川の両岸を見やった。
 両岸に生い茂る葦の葉の間から、太陽の光を受けて時折キラリと光るものが私にも見えた。どうやら槍の穂先のようだった。イヌはそれを確かめているのだ。
 イヌの顔を下から見上げて、
「この辺りは、警備兵を巡回させているのか?」
 と、私は聞いた。しかし、私の問いには答えずに、彼は岸辺の芦原の先を指し示して言った。
現在の長瀬川(久宝寺駅付近)
現在の長瀬川(久宝寺駅付近)

「このあたりは、弓や矢を製造する弓削(ゆげ)部矢作(やはぎ)部の集落が散在している。大和王権の警察や軍事を事とする物部氏にとっての、いわば武器製造工場のようなものです。敵が攻めてくるとすれば、まず狙うのは各集落の武器庫でしょう」
 そうした襲撃に備えて、大和川の両岸に一定間隔で警備兵を配している、とイヌは言外に匂わせた。彼は船の中で立ち上がって、警備兵たちがちゃんと任務を行っているかどうか確認しているのだ。

 数日前に川上で降った大雨のせいで、水かさがずいぶん増している。その川面を涼しい風が渡ってきて、汗ばんだ肌に気持ちが良かった。
 ふと川下を見ると、一隻の川船がゆっくりとさかのぼってくるのが見えた。
 近づくに連れて、数人の女性が前後の護衛兵に囲まれて座っている。この緊迫した時に、川船で旅する女性は珍しい。
弓削神社
八尾市東弓削町一丁目に鎮座する弓削神社

「あれは・・・?」
 と、私はまたイヌに問いかけた。
 相変わらず彼は即答を避け、近づいてくる川船の中程に悠然と構えた女性を目で追った。
 川船同士がすれ違うとき、その女性はイヌの視線に気づいたのか、彼の顔を見た。その瞬間、イヌは軽く頭を下げた。顔見知りの女性だったようだ。
 やっと、私の問いに気づいたように、
「守屋さまの妹の布都(ふつ)姫です。今は馬子どのの奥方になっておられる」
 と、教えてくれた。
「それにしても、なぜこのような時期に渋川までお越しになったのか・・・・」
 イヌの眉間に縦皺が走った。予期せぬ時期に予期せぬ人物に会ったものだという驚きとともに、なにか不吉な予感を感じ取ったようだ。


 舳先で竹竿を操っていた男が、船を右岸に寄せ、芦原の中に分け入った。すると、前方に水門が見えてきた。
 水門は閉じていたが、門の上の監視兵がイヌの姿を見て、櫨を巻くように下に向かって指示した。
矢作連の祖神を祀った矢作神社
矢作連の祖神を祀った矢作神社

 観音開きに水門が開くと、一直線の水路が前方に伸びているのが見えた。
「イヌ殿のご帰還!」
 水門の上で監視兵が大声をあげ、続いて太鼓を3度打った。それが味方の帰還の合図のようだった。
 太鼓の響きは水路の水面を振るわせて何カ所で中継されていった。
 水路はその先で屋形の周濠に連なっていて、一方の側に土塁が張り巡らされている。もう一方の側の堤には幡が立てられ、それぞれの幡の周りに10人ほどの兵士がたむろしていた。
 彼らは広い濠に入ってきた川船の上のイヌの姿を見かけると、右手で拳を作って左胸に当て、軽く会釈した。
「パンチョどの、長旅お疲れ様でした。ようやく守屋様の屋形に到着しました」
 桟橋に船が接岸するのを待って一足早く上陸すると、イヌが手を差し伸べながら言った。
 左右に揺れる船底から立ち上がって彼の腕を掴むと、彼は思いがけず強い力で桟橋に引き上げてくれた。そして、無精ひげの顔に笑みを浮かべると、
「守屋様もさぞお待ちかねであろう。すぐにでもお引き合わせいたそう」
 と、どっしりと構えた門の方に向かって歩き出した。

物部守屋の屋形跡に建つ大聖勝軍寺
物部守屋の屋形跡に建つ大聖勝軍寺

 現在の市街地からは想像すべくもないが、渋川の阿刀と呼ばれた地域は、北流する大河・大和川の左岸に位置していた。大和川の河口だったと思われる現在の弥刀駅とは直線距離で3kmも離れていない。
 守屋は大和川水運を押さえるために、大和川の河口近くに屋形を構えていたのだ。
 その屋形は周囲に広い濠を巡らし、船着き場はそのまま大和川に通じていた。大和川の水運を一手に握っていた物部氏の総帥の屋形であってみれば、当然であった。

 私が訪れたとき、周濠の四隅には衛兵の駐屯所が設けられ、常に複数の衛兵が不審者の侵入に目を光らせていた。
 近くの林では100人くらいの兵士の集団が何カ所にも別れて野営しているようだった。言ってみれば、戦国時代の平城(ひらじろ)のような居館がこの地にあり、蘇我軍の襲来を迎え撃つ準備はすでに整っていた。現在、その居館跡には、大聖勝軍寺が建立されている。



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