2.川船で大和川を下る
不思議な来訪者
その日、不思議な身なりの男が私を訪ねてきた。玄関のドアを開けると、外は一面白い霧で覆われて何も見えなかった。男はその煙幕の中からヌーゥと姿を現した。ぼろ布をまとい、のび放題のひげ面をした男の風体は、その付近にたむろしている浮浪者と変わらなかった。ただ、すっくとこちらを見た目つきは鋭く、すらりと伸びた肢体は敏捷そうだった。
「パンチョ殿か?」
男は開口一番そう聞いて、私が頷くのを確認すると、
「守屋さまのご命令で参上いたした。貴方さまを館までお連れしろとの指示でござる。すぐにでも旅支度を調えられて、私めに同道ねがいたい」
と、野太い声で言った。
「守屋さま?」
まさか以前に夢の中に現れた物部守屋が現実の使いを寄越すとは、思いもよらなかった。仮にも1400年以上も前に死んだ男である。私は目の前で現在と過去の時間軸がゆらぎながら大きく交錯する錯覚を覚えた。
私が躊躇していると、男はこう言って決断を促した。
「急いでください。事態は逼迫してきている」
何の事態かはわからなかったが、私は物部守屋という人物に興味を持っていた。会えるものなら、会ってみたいとも思っていた。どうやら、それが現実になりそうなのだ。旅支度といっても、いつも史跡探訪で背負っていくリュックサックくらいしかない。いつでも出かけられるように、最小限の必要品はその中に放りこんである。
リュックを背負いスニーカを履くと、迎えの男に従って外へ出た。霧の煙幕の中に入っていくと、霧は妙な匂いを漂わせている。ほんの数歩歩いただけなのに、霧がかき消すように晴れて、目の前に見慣れぬ景色が現れた。民家が建ち並び、近鉄電車の線路が横切っているいつもの風景が、柏や楠などの常緑樹が生い茂る原野に変わっていた。男は、木々の間にできている道を一直線に北に向かって歩き出した。
朝明けの飛鳥川下り
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| 現在の飛鳥川(八木付近) |
浮浪者のような身なりの男の足取りは軽く早い。息を切らしながらついて行くと、やがて飛鳥川のほとりに出た。男の到着を待ちかねたように、一艘の川船が茂みの間から姿を現した。船には、やはり浮浪者の格好をした男がすでに乗り込んでいる。
「イヌ(胆淳)のお頭、こちらです」
と、川船の上から一人の男が私を先導してきた男に声をかけた。
後で知ったのだが、お頭と呼ばれた男は桜井田部連胆淳(さくらいたべのむらじ・いぬ)で、守屋配下の武将だった。数日後に、物部軍は石川が大和川に合流する餌香(えが)川原で、朝廷軍の進軍を阻止するため激しい戦いをしかけることになる。その部隊を率いて敵陣へ切り込み壮烈な戦死を遂げたのはこの男である。だが、近い将来に我が身に起こる出来事など、神ならぬ身に知るよしもなかった。
人目を避けるため浮浪者の風体をしていたが、彼ら三人は飛鳥朝廷の動きを探索にきた守屋側の手の者たちだった。イヌは川岸に横付けになった小舟に飛び乗ると、片手を差し出して私が乗り込むのを助けてくれた。二人の男が船の前後で巧みに竹竿を操るので、岸を離れた小舟は川面をすべるように下流へ向かって動き出した。
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| 飛鳥川の東:三輪山遠望 |
現在もそうであるように、飛鳥盆地から奈良平野に流れ出た飛鳥川は、平野の真ん中をほぼ真北に流れ、北葛城郡の広瀬神社があるあたりで大和川に合流する。現在のように護岸工事がしっかりしていなかった当時は、船の上からでも、岸辺に生える葦の向こうに平野の東西に聳える山々を臨むことができた。東には、三輪山から竜王山へ続く山塊が盆地を見下ろすように連なっている。西には、金剛・葛城山系の端に位置する二上山の雄岳と雌岳が鮮やかに朝明けの空に映えている。
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| 飛鳥川の西:二上山遠望 |
大和川の襲撃
飛鳥川と大和川との合流地点を過ぎ、さらに曽我川が大和川に合流する地点まで来たとき、イヌは視線を南に向けた。その方向には、馬見丘陵の北の端に営まれていた彦人皇子の水派宮(みまたのみや)がある。
「彦人大兄皇子(ひこひとのおおえのみこ)はどちらに荷担されるつもりかのぅ」
と、独り言のようにつぶやいた。誰からの返答も期待しているようには見えなかった。だが、その独り言が耳に入ったのだろう、船尾で竿を操る男が答えた。
「3ヶ月前には、中臣勝海(なかとみのかつみ)殿が舎人(とねり)の迹見赤檮に刀で斬り殺されたましたから、果たしてどうでしょうか」
 | | 飛鳥川と大和川の合流地点 |
「ウム・・・」 イヌが大きく頷いた。事件はこの年の4月に起こった。中臣勝海は物部守屋とともに穴穂部皇子を次期天皇にと目論んだ一人である。彦人皇子の人形(ひとがた)まで作ってまじないをかけ呪ったという。しかし、効き目がないので、逆に彦人皇子の擁立を画策するつもりだったらしい。人形で皇子をのろい殺そうとしたという噂は彦人皇子の耳にも達していた。信用できぬ男と判断して皇子が舎人に殺害を命じたとは、もっぱらの噂である。
穴穂部皇子が居なくなった現在、誰の目にも、彦人皇子が次期大王の最有力候補に見えた。おそらく今回も彦人皇子は動くまいと、イヌは見ているようだ。大臣の蘇我馬子の腹が読めないうちは、態度を鮮明にする人柄ではないようだ。
大和川が大きく左にわん曲するあたりに差し掛かった時である。葦が生い茂る岸辺で何かが動く影を察知したイヌは、すばやく私に命令した。
「パンチョ殿、しばらく船底に伏せていて下され。何者かが我々を狙っているかもしれません」
彼の言葉が終わるか終わらないうちに、矢羽根の音が川面を横切ってきた。数本の矢が射かけられたようだった。そのうちの何本かは船腹に刺さった。イヌは刀の鞘で一本を叩き落とした。彼は次の襲撃に備えて、他の二人に用心しろと声をかけた。だが、それ以上の襲撃はなかった。
「何者だろうか」
私が船底から起きあがってイヌに聞くと、彼はなおも辺りに注意を払いながら、
「おそらく、平群(へぐり)の手の者たちでしょう」
と答えた。そして、大和川を通行する船にまで矢を射かけるようであれば、事態はいよいよ切迫してきたと見なければならない、と付け加えた。
「何の事態がせっぱ詰まっているのだ?」
私は今まで聞くのをためらっていた疑問をついに口にだした。
「決戦でござる」
イヌはいとも簡単に言い切った。
「我が君の守屋殿は、主命で先々代の大王の寵臣(ちょうしん)を殺害された。そのことを恨みに思われた大后は群臣たちに我が君の討伐を命じられた。近々討伐軍が組織されて、大和から河内に進軍してくる手はずになっているようです。もとより、我が君も不測の事態に備えてさまざまな手は打っておられる。しかし、それが失敗したときは、一戦を交えることになるやもしれません」
考えてみれば、大変な時期に私は物部守屋に招待されたことになる。それを言うと、イヌは平然と答えた。
「貴方さまが望まれた、と我が君から伺っております」
亀が瀬の難所
やがて大和川の流れは、生駒山地と金剛山地が作る峡谷に入っていった。左右から緑深い山の稜線がどんどん狭まってくる。流れの先を見ると、川面が白く泡立っている。川底がずいぶん浅くなって来たようだ。飛鳥川を下ってきた船は底が平らで浅い。それでもこの辺りまでくると、ときおり川底の石に接触して鈍い音を立てた。舳先で竹竿を操る部下に向かって、イヌは岸に船を岸に着けるように命じた。そして、私にこう告げた。
「ここから先は、船では下れません。少し岸辺を歩いて貰うことになります」
 | | 亀が瀬峡谷 |
この付近は後世「亀が瀬」と呼ばれるようになる大和川の難所である。大和川が大和盆地から河内平野へ抜ける途中にある浅瀬で、地すべりで崩れ落ちた岩石が浅瀬を作っている。大和盆地のほとんどすべての河川の水を合わせて西流し、大阪湾に注ぐ大和川は、古代から水運の大動脈として利用されてきた。しかし、JR関西線(大和路線)が開通するまで、大和川の水運は亀の瀬を境に上流と下流とで二つの水運区域をなしていた。つまり亀の瀬から上流の大和側と下流の河内側は別々の川船が航行し、亀が瀬渓谷はその中継地の役割を果たしてきた。
大きな岩が浅瀬に点在していて、その姿が亀の背に似ていることから、いつしかこの渓谷を亀が瀬と呼ぶようになった。船荷は上下の桟橋の間を人力で運んで積み替えなければならなかった。旅人も下流から上流へ、あるいは上流から下流へ、亀の瀬の淵に作られた道を徒歩で移動しなければならなかった。かなり険しい道で、恐の坂(おそれのさか)とも呼ばれていたという。
亀が瀬の淵を川下に向かって歩いて行くと、形ばかりの桟橋で一艘の船が一行を待っていた。当時、大和川の水運を一手に独占していたのは物部一族である。秘密の任務を帯びていた物部配下の者たちが河内に戻ってくるという情報は、すでに届いていたのであろう。すでに帰任の船は用意されていた。
イヌたちは至極当然のようにその船に乗り込むと、どっかと腰を下ろした。イヌは手をかざして上空を仰いだ。緑の樹木が生い茂る山の稜線に切り取られた空間は、雲一つない夏の青空だった。その空から、行く夏を惜しむように太陽がジリジリと照りつけていた。見ると、イヌの伸びた顎髭から汗がしたたり落ちている。だが、その顔には幾分安堵の色がうかがうことができた。亀が瀬から大和川を下って河内平野にはいれば、そこはもう物部一族の支配地である。
旧大和川の河道
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| 現在の大和川(左)と石川(右)の合流地点 |
亀が瀬から峡谷を流れ下った大和川は、河内平野に出ると、北流してきた石川と安堂(あんどう)で合流する。現代の大和川は、現在の築留(柏原市上市)付近から西へ流れて、堺市で大阪湾に注いでいる。しかし、この河道は度重なる洪水を防ぐために、宝永元年(1704)に新たに開鑿された新大和川(*)である。飛鳥時代の大和川は、現在の柏原市付近で石川と合流すると、幾筋にも枝分かれしてそのまま北または北西方向に流れ、河内湖に注いでいた。その本流は現在の長瀬川の河道にほぼ沿ったもので、川幅は200mから300mもあったという。
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| 中甚兵衛の像 |
*宝永元年(1704)、新大和川の開削は長さ約14.3km(131町)、川幅約180m(100間)の計画で2月より工事が実施され、延べで240万人の人手と、7〜8万両の経費を費やし、10月までかかって完成をみた。その付け替え工事に生涯を捧げたのが、今米村(現在の東大阪市今米)の 庄屋に生まれた中甚兵衛(なかじんべえ)である。近鉄大阪線安堂(あんどう)駅を降りて西に進むと、大和川治水記念公園があり、そこに中甚兵衛の像が建っている。
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