1.守屋討伐命令下る

 磐余双槻宮跡(いわれなみつきのみや)

 旧暦587年の秋7月21日は暑い一日だった。葛城・金剛山頂にたなびく夏雲に、夕日がようやく隠れようとしていた。この時刻、磐余池(いわれのいけ)を渡ってくる風が涼しさを運んでくる。涼風は、池の岸辺にそびえる槻(つき、ケヤキ)並木を縫うように双槻宮(なみつきのみや)に向かって吹いていた。

吉備
磐余双槻宮跡とされる春日神社の脇にある吉備池

 その双槻宮に、群臣(まえつぎみ)たちが三々五々と連れだって参集してきた。用明大王を磐余池上陵(いわれいけがみのみささぎ)に埋葬する儀式に参列した帰りである。儀式の終わりに、大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)は群臣たちに双槻宮に立ち寄るよう求めた。何が重大な発表が行われるとのことだった。

 群臣たちは、ほとんどが皇位継承者の話だろうと予想した。用明大王が4月に崩御されて以来、国中は3ヶ月の裳に服してきた。埋葬の儀式が恙なく終わったことで、最大の関心事は誰を次の皇位継承者として推薦するかに移った。だが、一同が所定の席に着いたのを見定めて、立ち上がった蘇我馬子の口から出た言葉は意外だった。
「故・敏達大王の大后(おおきさき)・額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、後の推古天皇)の勅である」

 馬子は、開口一番こう宣言した。そして、木簡の巻物を押し戴いた後それを紐解いて、不忠の逆臣・物部守屋を討ちほろぼせ、という大后の命令を朗々と読み上げた。大后が指弾する守屋の非を聞きながら、一同の視線は馬子の横の空席に注がれた。普段であれば、大臣の馬子と並んでその席に座り、鷹揚に周囲を睥睨しているはずの大連の姿が、本日はそこになかった。

 まるで実兄の用明大王の埋葬が終わるのを待ちかねたように、額田部皇女は守屋に対する怒りをその勅の中でぶちまけた。その最大の理由は、敏達大王の寵臣・三輪君逆(みわのきみ・さこう)を無謀にも殺害したことだった。だが、逆の殺害は、守屋の一存で行ったわけではない。

 穴穂部皇子(あなほべのみこ)という血気盛んで、野心に満ちた皇子がいた。用明大王の異母弟であり、用明大王亡きあと有力な皇位継承候補の一人だった。彼は、あろうことか額田部皇女を犯そうとして、敏達大王の殯宮(もがりのみや)に押し入ったという。587年の5月のことである。2年前の8月に崩御した大王の遺骸はまだ埋葬されず、額田部皇女が殯宮で亡き夫の遺骸に仕えていた最中のできごとだった。

 敏達大王の寵臣だった三輪君逆は警備兵を指揮して、皇子の侵入を阻止した。これに逆上した皇子は、皇位継承で彼を後押ししてくれている物部守屋とともに、三輪君逆を襲撃して射殺した。額田部皇女にとっても股肱の臣である逆を殺されたことで、彼女は穴穂部皇子と守屋を深く恨んだ。彼女は自分を犯そうとした皇子の殺害を、蘇我馬子に命じた。大后の勅に奉じて、6月1日の夜、馬子は穴穂部皇子の宮を軍に急襲させて皇子を殺させている。だが、まだ守屋がいる。穴穂部皇子と同様に、守屋を許すことなど彼女は到底できなかった。

 大后の勅を読み終わると、蘇我馬子は群臣たちを見渡し、誰かが異議を唱えるものを待った。だが、勅の内容に驚いてしまった群臣は、ただ唖然として馬子を見つめた。物部守屋は、馬子と並んで大連として彼ら群臣たちを領導してきた政界の重鎮である。警察と軍事を司ってきた名門氏族・物部本宗家の族長は、その実力の点で馬子以上かもしれない。簡単に討伐できる相手ではない。誰しもそう感じていた。

 蘇我馬子はその場の雰囲気を感じ取って、昂然と言い放った。
「まだ次の大王(おおきみ)が決まらぬ現在、大后からこうした勅が出された以上、勅に奉じるのは群臣としての努めである。よって、我々は討伐軍を組織して、物部守屋を討つ。討伐軍の出発は5日後の7月26日未明。各々がたは直ちに地元に戻り、領民を徴して軍団を組織され、前日までにはこの地に参集されよ。間に合わぬ者は、自分の軍団を率いて行軍の途中で討伐軍に合流されよ」
そして、次のように付け足した。
「討伐軍の参加するのは、各々がたの自由である。大后の勅に奉じることを、吾強制しない」

 どうやら、このあたりが蘇我馬子の老獪さである。物部氏討伐を今後の政界で自分を支持する氏族を色分けするための踏み絵に利用するようだ。彼は臨席していた敏達大王の皇子・押坂彦人大兄皇子 (おしさかのひこひとのおおえのみこ) に向かって、こう聞いた。
「皇子はいかがなさるか? 皇子の即位に反対してきた守屋なれば、当然参戦されましょうや?」
 穴穂部皇子が亡くなった現在、彦人大兄皇子は次期皇位継承者の筆頭に立ったと目されても致し方ない。だが、皇子は何故か慎重にこう答えた。
「嬪(みめ)が数日前から病に伏せております故、吾代理として舎人(とねり)の迹見赤檮(とみのいちい)を参加させたいと存ずる。それにてお許し願いたい」
弓の名手として、迹見赤檮の名を知らぬ者はいない。赤檮の参加は百人力に匹敵すると、皇子は言外に匂わせた。

 蘇我・物部戦争の直接の原因

 蘇我・物部戦争の直接の原因はいったい何だったのだろうか。『日本書紀』は百済からの仏教公伝によって生じた崇仏・廃仏論争を武力によって決着させた争いとして事件の推移を記述している。だが、仏教が我が国に伝えられたのは50年も昔のことだ。そんなに長い間、崇仏だ、廃仏だ、と国論を二分するような論争が続いていたとは思えない。廃仏派とされている物部氏も、八尾市渋川町にあった渋川廃寺を氏寺として営んでいたとの推測もある。

 崇仏・廃仏論争に名を借りた、大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋の政界における主導権争いと見る説もある。物部氏は神代以来の軍事氏族の名門であり、大和朝廷で重きをなしてきた。一方の蘇我氏は、東漢氏(やまとのあやうじ)などの渡来系氏族をバックにして先代あたりから急激にのし上がってきた新興氏族である。一方が守旧派、他方が開明派と見なすことで、何かにつけて対立し、結局「両雄並び立たず」の喩えのように、武力によって相手を滅ぼしたと見なすことは可能であろう。だが、『日本書紀』は仏教論争以外で両者が対立した気配をあまり伝えていない。むしろ、馬子の妻は守屋の妹だったと言われるように、両氏族は対立ではなく僚友として大和朝廷を主導してきた可能性が強い。

 『日本書紀』は蘇我・守屋戦争を仕掛けたのは、蘇我馬子であるような書き方をしている。だが、本当の仕掛け人は、2代前の天皇の大后であったとはいえ、当時の大和朝廷で重きをなした額田部皇女だった可能性が高いと、筆者は考えている。そして、その理由も、彼女に狼藉を働こうとした穴穂部皇子を支援し、彼女が股肱の臣と頼む三輪君逆を殺してしまった物部守屋に対する私怨ではなかったかと・・・。馬子も、彼女の私怨を長年の政敵を葬る絶好の機会と捕らえたにちがいない。

 蘇我・物部戦争を記録した『日本書紀』は、いつ物部討伐軍が進発したのか記していない。西暦587年の7月26日としたのは、もとより筆者の勝手な想像である。また、どのルートを取って進軍したかも記していない。当時、大和盆地から河内平野へ出るには、竹内峠越え、穴虫峠越えなどさまざまなルートがあった。だが、筆者は大和川の流れに沿って進み、亀の背を越えて河内平野に出たのでは・・・、と想定している。

 『日本書紀』は討伐軍に参加した諸皇子と諸群臣の名を列挙している(蘇我・物部戦争に参加した諸皇子と諸群臣一覧参照)。その中に平群臣神手(へぐりのおみ・かみて)がいる。彼が率いる軍勢は、隊列を組んで進軍してくる本隊と、現在の王寺町あたりで合流したはずでる。そうであれば、討伐軍は大和川の流れに沿って、河内平野に出た可能性は高い。また、兵站部隊が兵糧を運ぶにも、陸路より水路を利用した方が大量の物資を輸送できる。

 河内平野に出た討伐軍は、おそらく二手に分かれたであろう。蘇我馬子が率いる本隊は、現在のJR大和路線沿いに八尾市志紀町から渋川へ進んだ思われる。このルートはかって大和川が流れていた川沿いの道である。一方、大伴連囓(おおとものむらじ・くい)に率いられた別働隊は、物部守屋軍の退路を断つべく、難波方面へ向かったであろう。



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