古代の支配階級はなぜ己の奥津城を壁画で飾ったのか?
1974年、始皇帝陵から1kmほど離れた地点で、一人の農民が畑で陶器のかけらを掘り返したことをきっかけに、兵馬俑坑の存在が明らかになった。そこには、実物大の兵士と兵馬を象った何千体もの素焼きの像で構成される地下軍団が埋まっていた。始皇帝は己の奥津城となる地下宮殿を守る巨大な軍団まで用意していたのである。
天下の権力と富を一身に集めた始皇帝が、壮大な地下宮殿を擁する寿陵を生前に築いていたことは、なにも特例ではない。古代中国の皇帝・王侯貴族らにとって、墳墓の造営は一生一代の重要な事業と解され、生前から棺の材料を吟味し、副葬品を準備し、慕室を企画したという。それが、当時の通例であった。 始皇帝陵の地下宮殿は、地上の世界に劣らないほど立派であり、豪華な品物が陳列されていたにちがいない。だが、その内部が壁画で飾りたてられていたという話は聞かない。おそらく墓室を絵画で飾るという発想は、まだ秦の時代にはなかったのかもしれない。中国での壁画古墳の出現は、次の前漢の時代を待たなければならない。 |
建国以来築造され続けてきた「積石塚」古墳紀元前1世紀後半から紀元668年までの約700年にわたって、現在の朝鮮半島北部から中国北東地域に栄えた高句麗は、実に多くの古墳を残している。「高句麗古墳」と総称されるこれらの古墳は、現在の中国遼寧省桓仁県や集安県、および北朝鮮の平壌周辺の3地域に集中しており、集安県の通溝平野だけでも1万基以上の古墳があるとされる。いずれの地域も、かって高句麗の王都が置かれた地域である。
高句麗古墳を特徴づける2つのキーワードがある。「積石塚」と「壁画古墳」である。高句麗で壁画古墳が築かれるようになるのは4世紀の後半以降である。永和13年(357)に69歳で死んだ冬寿という人物を埋葬したという墓誌銘が残っている安岳3号墳が、最も古い壁画古墳とされている。したがって、それ以前の前期・中期に採用されていた高句麗の古い墓制は「積石塚」ということになる。 しかし、積石塚は壁画古墳に取って代わられた訳ではない。現在までに見つかっている壁画古墳はせいぜい100基程度にすぎない。壁画古墳が出現しても、積石塚古墳は高句麗滅亡まで築造され続けている。
積石塚の成立と発展過程にはいくつかの段階が見られ、各国の研究者によって編年学的研究が行われている。徳島大学の東潮(あずまうしお)教授は、次のように分類しておられる(『高句麗の歴史と遺跡』p.168)。
時代が下るに従って、このタイプの積石塚に方形の檀が付属するようになり、さらに墳丘の基底部に方形基壇が形成されるようになる。そして割石や板石、切石を二段以上の階段状に積み上げた方形または長方形の基壇が用いられたり、基壇を連接したり、埋葬施設として横穴式石室をもった積石塚などが登場してくる。 高句麗が国内城に遷都した3世紀代になると、方形の基壇(方檀)をもった積石塚が発達し、これが4世紀代になると方檀階梯積石塚に発展するとされている。鴨縁江沿岸の国内城から北東方向約5.5kmの地点に築かれた将軍塚は方檀階梯積石塚である。一辺の長さ31.58m、高さ12.5mを測る。全体で1100本余りのよく磨かれた花崗岩の切石を積み上げて構築されていて、平面は正方形、墓の4面にはそれぞれ3個の護石が立て掛けて、外への圧力、重圧を防いでいる。 有名な広開土王碑から南西200mのところに、一辺66m、高さ約14.8mの正方形の墳丘をもつ太王陵がある。巨石を7層に積み上げて、頂きを礫で覆っている。各辺に5個の護石が配してある。墳丘上の積石内で「願太王陵安如山固如岳」と書かれた専などが出土していて、広開土王を埋葬した積石塚とされている。 |
高句麗壁画古墳は高松塚古墳とキトラ古墳の壁画の源流か?高句麗では、現在100基ほどの壁画古墳が見つかっている。高句麗古墳の全体数からみれば大した数ではないが、それでもやはりかなりの数である。ところが、同じ朝鮮半島でありながら、百済や新羅、加耶では、事情がまったく異なる。壁画古墳はせいぜい1基か2基しか見つかっていない。 例えば、高句麗と同じく扶余族が建国した百済では、武寧王陵がある公州の宋山里古墳群の中の6号墳と扶余近郊の陵山里古墳群にある東下塚しか発見されていない。宋山里6号墳は磚築墳で、ブロック表面に粘度を塗り、 それに胡粉で見事な四神図が描かれている。 陵山里古墳群は6世紀後半から7世紀に築かれた百済王室の墓域で、その中の東下塚と呼ばれる古墳は、水磨きされた切石で横穴式石室を作り、四神図と蓮花文や飛雲文を描かれている。
新羅には、高句麗の影響で築かれたと思われる壁画古墳が、尚北道栄豊郡の邑内里に2基あるそうだ。6世紀代の築造とされている。伽耶地域でも、天井に蓮華文を描いた壁画古墳が1基見つかっている。大加耶の都があった慶尚北道の高霊にある古衙洞古墳である。我が国でも、現在までのところ、壁画古墳は高松塚古墳およびキトラ古墳の2基しか発見されていない。同じ東アジア文化圏の中にありながら、高句麗を除く他の国々では壁画古墳がほとんど普及しなかったものと思われる。その理由は、それなりに面白い研究テーマであろう。
昭和47年(1972)3月21日、明日香村の高松塚古墳で我が国最初の彩色壁画が発見された。東壁には中央に青龍が描かれ、その上の方に太陽、左側に女子群像が、右側に男子群像が描かれていた。同様に、西壁には中央に白虎が描かれ、その上の方に月、そして、右側に女子群像、左側に男子群像が描かれていた。北壁の中央には玄武が描かれていたが、南壁にも朱雀が描かれていたはずだが、鎌倉時代の盗掘にあい消滅していた。天井には極めて精度の高い天体図や星宿(天体の軌道や星座を表した図表)が描かれていた。 壁画に描かれた四神図や飛鳥美人の鮮やかさは、日本中に考古学ブームをもたらした。発見したのは、当時関西大学助教授で奈良県立橿原研究所所員だった考古学者の網干善教(あぼしよしのり)氏を中心とする関西大学と龍谷大学の研究者・学生グループだった。高松塚古墳は、その重要性を考慮して早々と文化庁にその保全を委託された。発見されたその年の6月17日には、古墳は特別史跡に指定され。その中に描かれている極彩色壁画は国民的財産として古墳とは別に「国宝」に指定された。
その網干氏が去る7月29日、胆管がんのため奈良県生駒市の病院で永眠された。享年78歳。世紀の大発見となった高松塚古墳を、氏は我が子のように愛おしんでおられた。壁画の行く末を見定めることなく他界せざるを得ない運命に、おそらく氏は断腸の思いであの世へ旅立たれたであろう。網干氏は、インドの仏教遺跡である祇園精舎跡の発掘にも尽力されていた。氏の遺骨の一部はこの11月、祇園精舎跡にも分骨されるとのことだ。
最初に行われた内部調査で、壁画が描かれた漆喰が剥がれそうになっていることが判明した。そのため、調査は時間をかけて慎重に行われてた。15年後の昭和63年(1998)には超小型カメラで、そして平成13年(2001)にはデジタルカメラで石室の内部撮影が行われた。高松塚古墳同様、キトラ古墳でも東西南北の壁面に四神図が描かれていた。それだけではない。天井には世界最古の星宿図も描かれていた。その後の調査で、各壁面の下部に十二神像が描かれていることも判明した。 高松塚古墳が発見された後、古墳の築造時期や被葬者、および壁画のルーツに関して、各分野の専門家が様々な見解を発表し、多くの考古学愛好家の視線がこの古墳に集中した。盗掘を逃れて残っていた銅鏡などから、当初は築造時期が7世紀末から8世紀初めの古墳終末期と推定されていた。しかし、平成17年(2005)の発掘調査の結果、藤原京期(694〜710)の範囲にさらに限定されるようになった。 被葬者は、天武天皇の皇子や議政官クラスの名が取りざたされてきたが、現在まで決着していない。墓誌が出土していないため、いずれの候補も推定の域をでない。二つの壁画古墳が築かれた檜隈という地域は、天皇家の陵墓が集中しているが、その一方において東漢(やまとのあや)など渡来系氏族の居住地でもある。百済あるいは高句麗滅亡の際に我が国に亡命してきた渡来系王族の墓の可能性を示唆する説もある。
興味深いのは壁画が描かれている空間の違いである。高句麗古墳では、石室に壁画が描かれているが、高松塚古墳やキトラ古墳では、石槨の壁に描かれている。平山郁夫画伯の表現を借りれば、高句麗壁画古墳の石室は、日本家屋の6畳の和室の広さはあるが、高松塚やキトラの石槨は和室の押入、しかも押入の下半分の広さしかない。その狭い空間に複数の絵師が入って描くには、大変な苦労があったであろう。
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(*)東 潮・田中利明編著『高句麗の歴史と遺跡』から転記
(**)『高句麗壁画古墳』共同通信社より転記