『日本書紀』に記された葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の伝承


が国の古代史で著名な人物がいる。その名を葛城襲津彦という。葛城は氏の名で、大和葛城(*1)の豪族。『日本書紀』の神功皇后摂政六二年の記述で引用された『百済記』には、沙至比跪(さちひこ)とある。同記事によれば、壬午年(西暦382年)に新羅に派遣されたとあり、4世紀末前後の実在の将軍であったと考えられる。このころは歴代中その実在の確実な応神天皇の時代の初めであり、葛城襲津彦は古代豪族の葛城氏の始祖である。

津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の三天皇を生んだ。履中天皇は葛城襲津彦の子の葦田宿禰(あしだのすくね)の娘である黒媛を妃として、磐坂市辺押羽皇子(顕宗・仁賢の父)を生んだ。また、雄略天皇は、葛城円(つぶら)大臣の娘の韓媛を妃とし顕宗を生んだ。こうしたことから、襲津彦の子孫の葛城氏は、五世紀の天皇家の外戚として栄えたことがわかる。

*1 大和葛城は葛城山(金剛山1125m)の東北の山麓に位置する旧葛上郡を中心とする地域で、今の御所(ごせ)市の西南部にあたる。延喜神名式に記載されている葛木坐一言主(かつらきにいますひとことぬし)神社などもここにある。五世紀に栄えた豪族・葛城氏はこの地を本拠とした。襲津彦の娘・磐之媛の歌に「我家のあたり」という葛城高宮(かつらぎのたかみや)もこの地である。蘇我馬子は「葛城県は元、臣が本居(うぶすな)」と称してここを請い、蝦夷は祖廟を葛城高宮に建てたという。

城襲津彦に関する伝承は、『日本書紀』の以下の4カ所に出てくる。
(1)神功摂政五年条
(2)同六十二年条、特に分注の百済記
(3)応神十四年この年条・十六年八月条
(4)仁徳四十一年三月条

の中、(2)はおそらく事実に基づく所伝であろうと言われている。その他の場合は、伝説そのものは事実に基づくと考えられる場合でも、襲津彦がそこで実際に活躍していたかどうか確かめがたい。ただ、四者を通じ、襲津彦はもっぱら初期対鮮外交上の有名な将軍であったが、半ば伝説化されたかたちで記録された人物といえるよう。



『日本書紀』神功摂政五年条


功摂政五年春三月七日、新羅王が汗礼斯伐(うれしほつ)・毛麻利叱智(もまりしち)・富羅母智(ほらもち)らを朝貢使節として派遣してきた。王は以前から倭国の人質となっている微叱許智伐旱(みしこちほつかん)を取り戻したいと思っていた。それで微叱許智(みしこち)に嘘を言わせるようにした。
「使者の汗礼斯伐や毛麻利叱智らは、『私が長らく帰らないので、わが王は妻子を没収して官奴としてしまった』と私に告げてくれました。本国に一度還って、嘘か誠か調べさせて欲しいと思います。どうか帰国をお許しください」

功皇后はお許しになり、葛城襲津彦を付き添わせて遣わすことになった。一行は対馬に着いて鰐浦(=対馬の北端)に泊まった。そのとき新羅使の毛麻利叱智らは、ひそかに船の水手(かこ)を手配し、微叱許智(みしこち)をのせて新羅へ逃れさせた。草で人形を作り、微叱許智の床に置き、いかにも病気になったように偽り、襲津彦に告げて「微叱許智は病気になり死にかかっています」といった。

津彦は人を遣わして病者を見させた。そこで騙されたたことが分かり、新羅使の三人を捕らえて、檻の中に入れ、火をつけて焼き殺してしまった。襲津彦は新羅に行き、多大浦(たたらのうら、慶尚南道釜山の南)に陣し、、今の慶尚南道の梁山)を攻め落として帰国した。このときの捕虜たちは、今の桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬみ)などの4つの村の漢人らの先祖である。


 (出典:『全現代語訳 日本書紀 上』宇治谷 孟著、講談社学術文庫833)

【注記】
○この新羅王(=訥祗王 417-457)が微叱許智(みしこち)を召還するために毛麻利叱智(堤上)らを送った話は、『三国史記』列伝第五の「朴堤上」や『三国遺事』紀異第一の「金堤上」の伝にも記されている。4世紀末5世紀初めの出来事が同工異曲で伝わったと思われる。

○微叱許智(みしこち)は、第一五代訥祗王の弟の未斯欣(三国史記)または子の美海(三国遺事)の名で韓国の史書にも登場する。
○実聖王(402-416)の時代、前王(奈勿王)の太子、後の訥祗王は徳望の故に阻害され、その弟にあたる未斯欣らも他国に質として遣わされていたから、一家は没落の危険にさらされていたといえる。したがって、妻子が官奴とされた可能性はある。
○神功摂政五年の条に記されたこの事件は、西暦の何年にあたるか特定することが難しい。『日本書紀』の編者は、神功皇后を邪馬台国の卑弥呼に比定し、魏志倭人伝の記事を引用して、卑弥呼が大夫難斗米(なしめ)を帯方郡に派遣した景初三年(西暦239)の出来事を神功皇后摂政三十九年に当てている。その34年前の神功摂政五年は西暦205になってしまう。また、『日本書紀』は神功摂政五十二年九月に百済から七支刀が贈られてきたことを記している。七支刀は泰和四年(西暦い369年)に製作され3年後に贈られたことが分かっているから、神功摂政五十二年は西暦372年にあたる。その47年前の神功摂政五年は西暦334になって史実に合わない。後者の場合、干支を一運繰り下げても394年になる。


 参考1:『三国史記』に記載された伝承

 高麗の金富軾が西暦1145年に編纂した『三国史記』には、実聖王元年(402)3月に倭国と通好して、奈勿王の子・未斯欣を人質としたが、納祗王(ヌルジワン)二年(西暦418年)の秋に王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰ったと記している。そして、列伝二十で朴堤上の活躍を示している。


祗王(在位 417 - 457) は、即位するとすぐ3人の賢臣の推薦を受けて朴堤上を召し抱え、まず412年に高句麗に質に取られた弟のト好の救出を依頼した。堤上は高句麗に赴いて人質を帰す利を高句麗王に説いて納得させ、ト好を連れ帰った。

祗王は、402年から倭の人質になっている未斯欣の救出も堤上に依頼した。しかし倭人が口舌で諭しても聞き入れてくれないだろうとの理由で、偽りのはかりごとで王子を連れ戻すことを堤上は進言した。すなわち、堤上が倭国に入った後、国に背いて逃亡したという噂が倭人の耳に入るようにした。

らに、新羅王が未斯欣と堤上の家人を捕らえて囚人としたとの噂が聞こえてきた。一方、高句麗が攻めてきて新羅との国境を守備している倭人をことごとく殺すという事件が生じた。そこで、倭王は軍を派遣して新羅を襲うために堤上と未斯欣を将帥に任命し道案内をさせた。

中の山島まで来たとき、倭の諸将が集まって、新羅を滅ぼしたあと、堤上と未斯欣の妻子を捕らえて帰ろうと相談した。この密議を知った堤上は、未斯欣を舟に乗せて釣りに連れ出し、未斯欣をそのまま本国へ帰らせた。未斯欣の逃亡を知った倭人たちは、船で追いかけたが、煙霧が立ちこめて暗く、見通しが悪く見つけることができなかった。そこで倭兵たちは堤上を捕らえて、倭王の元に送り返した。倭王はすぐに堤上を木島(所在不明)に流し、まもなく堤上の体を薪火で焼き、その後斬刑に処した。

の堤上の無惨な最後を聞いた新羅王は、哀慟し、大阿サンの位を追贈し、家族に厚い賞を賜り、さらに未斯欣に堤上の次女を妻としてめとらせたという。


 参考2:『三国遺事』に記載された伝承

 13世紀末に僧侶・一然 (1206-89)が書いた韓国の歴史書『三国遺事』にも、『三国史記』と似たような伝承を載せている。ただし、未斯欣は美海、朴堤上は金堤上となっている。また、美海が新羅に逃げ帰ったのは西暦425年のこととして記述している。


密王三十六年庚寅(西暦390年)、倭王が使節を遣わして王子を人質に要求してきた。王は第三子の美海を倭に行かせた。美海はまだ十歳で言辞動作が未熟だったので、内臣の朴娑覧を副使として一緒に遣わした。倭王は美海を三十年の長きにわたって留めた。

祗王三年己未(西暦419年)、高句麗の長寿王が使を寄こして「大王の弟の宝海は、智に秀で芸に才があると聞いている。共に相親しみたいものだ」と言わしめた。これにより、新羅は高句麗と和通して、宝海を人質として高句麗に行かせ、内臣の金武謁を補佐として付けた。長寿王も宝海を留めて帰さなかった。

祗王十年乙丑(西暦425年)、王が群臣を招集して宴会を催したとき、涙を流して人質を呼び戻したいと訴え、群臣に良い知恵はないか」と問うた。群臣たちは、知勇の優れた金堤上ならば、やってくれるのではないかと、彼を推薦した。

命を受けた堤上は、高句麗に赴き、宝海にまみえると、脱出の時期を謀り、五月十五日に高白の水口に舟を泊めて待った。宝海は夜中に脱出して高城の海浜に到着した。脱走を知って数十人の兵士が追いかけたが、兵士たちは常に宝海から恩を受けていたので、怪我をさせないように、鏃(やじり)を抜いて弓を射たという。こうして、堤上は無事に宝海を連れ戻すことに成功した。

国した宝海を見て、国王はますます美海が哀れに思い、臣下に何としても美海を連れ戻したいものだと、涙ながらに訴えた。これを聞いた堤上は、家にも帰らず、その足で倭国に向かった。そして、「新羅王は、罪もないのに我が父兄を殺した。それ故倭国に逃れていた」と、偽りを言って、倭王を信じさせた。

上は、美海に付き添って海浜に遊んだとき、たまたま小雨が降って海が暗くなったのを利用して、倭国にいた康仇麗を従えてそのまままま逃亡させた。翌日になって、王子の逃亡が発覚し、堤上は捕らえられて、倭王の前に引き出された。倭王は、
「汝は、なぜ王子を逃亡させたのか」と問うた。これに対して、
「臣は、新羅の臣下であって、倭の臣下ではない。我が王が望んでいたことを実行したまでのこと。何故に倭王に知らせる義務があろうや」と答えたという。

王は何度も臣下になれば高禄で遇しようといったが、堤上は「新羅の豚となっても、倭国の臣下にはならない。新羅のむちを受けようとも、倭国の爵禄は受けない」と答えた。怒った倭王は、ヨシとアシを臣下に刈って来させ、堤上の脚下の皮を剥いでその上を歩かせて、聞いた。
「そなたはいずれの国の臣なのか」
「新羅の臣である」
倭王は、堤上を屈服させることができないと知って、木島で焼き殺させた。



神功摂政六十二年条の分注に引用され『百済記』


『百済記』に述べている。壬午(みずのえうま)の年、新羅が日本に朝貢しなかった。日本は沙至比跪(さちひこ)を遣わせて討たせた。新羅人は美女二人を飾って、港に迎え欺いた。沙至比跪はその美女を受け入れ、反対に加羅国を討った。加羅国の国王・己本旱岐(こほかんき)および子の百久至(はくくち)・阿首至(あしゅち)・国沙利(こくさり)・伊羅麻酒(いらます)・爾文至(にもんち)らは、その人民をつれて百済に逃げた。百済はそれを厚遇した。

羅の国王の妹・既殿至(けでんち)が大和の国にやってきて申し上げるのに
「天皇は沙至比跪を遣わして新羅を討たされたが、新羅の美女を納れて討つことをせず、反対に加羅国を滅ぼしました。兄弟・人民は皆流浪しました。憂え悲しみに堪えず参上して申し上げるのです」といった。天皇は大いに怒られ、木羅斤資(もくらこんし)を遣わして、兵士を率いて加羅に来り、その国を回復されたという。

る説によると、沙至比跪は天皇の怒りを知って、公には帰らず自ら身を隠した。その妹が帝に仕えることがあり、沙至比跪はこっそり使いを出し、天皇の怒りが解けたかどうか探らせた。妹は夢に託し「今日の夢に沙至比跪を見ました」と申し上げた。天皇は大いに怒られ、「沙至比跪はどうしてやってきたのだ」といわれた。妹は天皇の言葉を報告した。沙至比跪は許されないことを知って、岩穴に入って死んだという。


 (引用:『全現代語訳 日本書紀 上』宇治谷 孟著、講談社学術文庫833)

応神十四年この年条・十六年八月条


神天皇十四年。この年、弓月君(ゆづきのきみ)が百済からやってきた。奏上して、
「私は私の国の百二十県の人民を率いてやってきました。しかし新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています」
といった。そこで、葛城襲津彦を遣わして弓月の民を加羅国によばれた。しかし三年たっても襲津彦は帰ってこなかった。

神天皇十六年八月、平群木莵宿禰(へぐりのつくのすくね)と的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。精兵を授けて詔して
「襲津彦が長らく還ってこない。きっと新羅が邪魔しているので滞っているのだろう。お前たちは速やかに行って新羅を討ち、その道を開け」
と言われた。木莵宿禰らは兵を進めて、新羅の国境に臨んだ。新羅の王は恐れてその罪に服した。そこで弓月の民を率いて、襲津彦と共に還ってきた。


 (出典:『全現代語訳 日本書紀 上』宇治谷 孟著、講談社学術文庫833)

仁徳四十一年三月条

徳四十一年三月、紀角宿禰(きのつぬのすくね)を百済に遣わして、初めて国郡の境の分け方や、それぞれの郷土の産物を記録することを行った。このとき百済王の王族酒君(さけのきみ)が無礼であった。それで紀角宿禰は百済王を責めた。百済王は畏まって鉄の鎖で酒君を縛り、襲津彦に従わせて進上した。

君は石川錦織首許呂斯(いしかわのにしこりのおびと・ころし)の家に逃げてかくれた。偽っていうに「天皇は私の罪をすでに許してくださった。それであなたに付けて生かして下さった」と。久しくしてから天皇はその罪を許された。


 (出典:『全現代語訳 日本書紀 上』宇治谷 孟著、講談社学術文庫833)

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